サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書斎と機械人形

 縁があって「本が好き!」という書評サイトに、過去にこのブログでアップした読書感想文の類を幾つか転載し始めている。

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 古びた書棚から、暫く手つかずのまま放置していた本を引っ張り出して埃を払うように、こうして過去の記事を漁って転載の作業を進めていると、我ながら、たった一年半ほどの間に随分と色々な文章を認めて、恥も外聞も構わずにネットの大海原へ公表し続けてきたのだなと、大仰な感慨に浸りたくなってしまう。

 だが、所詮は塵芥の類だと自虐的な気分にも絡まれるのが実情であり、彼是と書き散らしたような積りでいても、長年の書き手に比べれば微々たる分量であり、書評を綴ったと言っても、私の読んだ本の総量なんて高が知れているのだ。

 生きることは読書とは違う。生きることはもっと割り切れず、計り知れず、騒々しいものである。それなのに、彼是と背伸びして、手を伸ばして、見知らぬ書物の魅惑的な外貌に吸い寄せられることを辞さないのは、私の心が、もっと広大な世界を欲していることの紛れもない証左なのだろうか?

 これから、世の中はどんどん移り変わっていき、様々な業種や職種において、効率的な「機械化=情報化」の圧力は高まり続けるに違いない。今まで当たり前のように存在した職業の大半が人間の手から奪われ、人間よりも遥かにタフでスマートな一群の機械的組織によって独占されるようになることは最早、必定の運命なのである。そういう、或る意味では苛酷な時代に、人間としての生活を送り、営んでいく為には、単なる労働者の境遇に甘んじているだけでは余りに能天気であろう。機械化=情報化の爆発的な進展は、単なる哲学者の「酔狂」の範疇を超えて、もっと即物的な形で、私たちに「人間であること」の意味を問い詰めてくるに違いない。機械の代わりに人間へ賃仕事を宛がうのは、かつての奴隷制度と同じく、人権思想に抵触する許し難い「犯罪」として裁かれるようになる。そのような未来の靴音は、未だ微かではあるが、着実に響き始めている。私たち「人類」に残された領域を深々と耕し、豊饒な稔りを得る為には、単純な「労働」からの逸脱が求められるのである。

 本を読み、読み取った事柄に就いて入念に思索を巡らせること、それこそが新時代の人類の基礎的な作法になる。その意味で、私はこれからも、読むことと書くことの間で、下手糞な踊りを演じ続けたいと思っている。

戦後の焼け野原を疾駆する「バケモノ」の思想 坂口安吾「堕落論」について

 今日は坂口安吾の「堕落論」に就いて書くことにする。

 このブログでは、過去にも幾度か「堕落論」に言及したことがある。中学生時代に初めて手に取り、茹だるような夏の退屈な午後に繙いた「堕落論」の衝撃は、今も私の胸底から、その轟くような残響を掻き消さずに留めている、と言ったら、大袈裟に過ぎるだろうか。或いは如何にも文学的な誇張の臭みが強過ぎるだろうか。しかし、実際に私は坂口安吾の「堕落論」から、容易には汲み尽くし難い精神的興奮を与えられたのであった。それはまさに、私という個人の主観的な世界に限って言えば、天啓にも似た僥倖であり、至福であったのだ。

 「堕落論」という風に銘打ちながらも、坂口安吾の奔放な筆鋒は様々な話柄に照準を次々と切り替えながら、果敢に滑り続けていくので、決して体系的で明快な理論のようなものを期待すべきではない。そもそも、彼は安手の学者のように踏ん反り返り、象牙の塔から下界を眺めて、悠然と葉巻でも吹かしながら、衆生の信奉すべき「真理」を語ろうなどと賢しらに考えている訳ではないのだ。彼は寧ろ「陋巷に在り」(©酒見賢一)とでも称すべき世俗の、巷間の学者であり、極めて破天荒で生々しい思想家なのであり、彼の言説は総て彼の血腥い生き方と切り離し難い。

 極めて明晰な頭脳と、極めて野卑で破滅的な性向との、奇妙な結合が、坂口安吾という文学者の最大の持ち味であり、魅力の源泉である。そして彼は、尤もらしい道徳的な教訓の類を歯牙にも掛けない、肉体的な反骨精神を生涯、手放さなかった。

 だからなのだろうか、彼の文章に鏤められた「理路」は決して一本道ではなく、整然とした秩序を与えられている訳でもなく、彼方此方で複雑に枝分かれを繰り返し、果たして何が結論なのか、それを明瞭に推し量ることさえ容易ではない。けれども、そこには誠実な思索と省察の輝きが浸透しており、機敏に活動する精神の生々しい息遣いが随所に行き渡っている。

 彼は単に「堕落」を推奨した訳ではない。「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と劇しい口調で断定しながらも、人間が「政治的な救済」に縋ろうとする已み難い欲望の持ち主であることにも、きちんと目配りしている。そもそも、彼は「こうあるべきだ」という人工的なイデオロギーによって事物を裁断することに、根源的な嫌悪と敵愾心を燃え上がらせているのであり、従って彼が「堕落論」を通じて何らかの具体的な方針や処世訓のようなものを世間に訴えようとした訳ではないことに、私たち読者は充分な注意を払わねばならない。彼は「政治による救い」を「愚にもつかない物」として斥けたが、それを「政治的救済は無意味である」という一つの完成された命題に置き換えて拝み倒すのは本末転倒の振舞いである。彼の鋭利な眼差しは、政治によって救われることのない人間の度し難い性向にも、にも拘らず政治に希望を託そうとする人間の哀切な衝動にも、等しく注がれていたのだと、私は信じる。

 坂口安吾にとって「堕落すること」は「人間であること」と同義であったのだと思う。堕落、つまり既成の社会的秩序から逸脱し、落魄してしまうこと、それこそが人間の「自然な姿」なのだと信じていたのだ。だが、一方では、そうした堕落が決して完全に徹底されることはないだろうという見通しも、彼の内部には宿っていた。坂口安吾という偉大な「思想家」の真骨頂は、常に相反する両極の狭間を揺れ動き続ける思索の「肺活量の大きさ」に存するのである。

 

堕落論 (角川文庫クラシックス)

堕落論 (角川文庫クラシックス)

 

 

「自由主義」という見果てぬ夢

 ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」(光文社古典新訳文庫)を少しずつ読んでいる。マルクスの「共産主義者宣言」(平凡社ライブラリー)と一緒にAmazonへ注文したのに、他の本を読むことに時日を費やして、居間へ店晒しにしていたのを漸く繙き始めた次第である。

 流石に古典新訳文庫と言うべきか、訳文は非常に平明で驚くほど読み易い。古典的な文献に付き纏う学術的な権威の臭気が感じられず、身近な人間から直に講義を受けているような寛いだ雰囲気が行間に滲んでいる。

 自由という言葉、或いは観念に関する精確な理解に達することは、恐らく誰にとっても困難な作業であるに違いない。しかし、世界的に吹き荒れつつある反動的な保守化の潮流が、殆ど無視し難い脅威として私たちの暮らす社会に押し寄せ、殺到しつつある現況を鑑みるならば、単なる抽象的な観念として箪笥の抽斗へ仕舞い込む訳にもいくまい。私たちは自由という言葉を当たり前のように使い、すっかり手垢に塗れた理念のように軽々しく濫用することに慣れ切っているが、その定義を正面から問われて澱みなく答えられるほど、日頃から充分に思索を積み重ねていると言えるだろうか?

 私たちはドナルド・トランプの差別的で保守的な言辞に半ば呆れ、半ば慄然としているが、だからと言って、彼のような政治的手法を批判する為の明快な理路を保持している訳ではない。私たちは「自由」という観念が何故発生し、幾つもの重要な歴史的闘争の厳しい審判に堪えて、今日まで曲がりなりにも維持されて来たのか、その一連の経緯に対する深刻な無理解の中に暮らしている。

 そういった観点に立てば、ミルの「自由論」という古典的な著作に自分の頭脳を虐使して取り組むのも、決して衒学的な趣味の一環に留まるということはないだろう。寧ろ、私たちは改めて自由主義という理念の本質的な機能や役割に関して、認識を新たにし、活発な議論を戦わせるべき時代に直面しているのだ。

 だが、それはミルの「自由論」に綴られている様々な見解や学説を、聖骸布のように有難がって祀り上げるべきだという意味では断じてない。最も大切なのは、ミルという一人の学者が自らの頭脳を駆使して「自由」という難問に付き纏う種々の迷妄を払い除けようとする、その誠実で知性的な努力に、自分自身の脳味噌を虐使して伴走することなのである。何故なら、ミルは社会的に固定化された真理というものへの敬虔な崇拝を、自由という理念の宿敵として慎重に斥けているからだ。

 彼は何らかの明示された真理を受け容れることに、或いはそれを絶対的な規矩として信奉することに関して、非常に慎重で注意深い姿勢を示している。一見すると正しく聞こえるような意見も、時代や地域が異なれば悪しき誤謬として論難されることは少しも不当な現象ではない。こうした問題は、誰もが理窟の上では心得ているかも知れないが、実際に生活のあらゆる場面に対して、こうした原則が完璧に適用されることは殆ど皆無に等しいと言っても過言ではない。誰もが意見には多様性があり、個人の固有性は実に幅広い性質を備えており、それを一律の基準で拘束することは困難であるし不当でもあると、尤もらしい理窟としては理解しながら、そうした倫理を実生活において完全に実行しようとは考えないのだ。それは、理窟では充分に理解しているが、実践においては不都合が生じる、といった政治的な判断の結果ではなくて、単純に「意見の多様性」を根源的な次元において信頼していない為に導き出される結果であると私は思う。

 私たちは、自分の個性を重んじたり、自由を求めたりすることに対して貪欲に振舞いながらも、知らず知らず、自分の生まれ育った環境の常識や、自分が所属する組織の規範を受け容れることに就いては、随分と無防備な生き物である。しかも、私たちは多数決の原理に慣れ切っていて、大多数の人間が正しいと認める意見に対しては、極めて容易に屈従するという性質を備えている。そして少数の頑迷な異端者たちが、大多数の認める壮麗な正義に向かって牙を剥いたり吼え立てたりするのを目の当たりにすると、正義の美名の下に残虐な鉄鎚の一撃を下すことさえ、甘美な愉悦と共に嬉々として成し遂げてしまうのだ。

 民主主義という政治的な制度が行き渡れば行き渡るほど、私たちの社会が「合法的な独裁」の高圧的な専制に浸蝕される危険が増大していくのは、歴史の皮肉な絡繰である。ファシズムというのは、民主主義、国民主権の美しい理想が現実の血肉を与えられるほどに発症の虞が高まる重篤な病であって、それは中世の封建的な支配体制の瓦解と引き換えに私たちに強いられた深刻な持病なのである。デモクラシーとファシズムは、同じ社会的=政治的思想の土壌から花開いた双子の兄弟であり、その意味でデモクラシーがマジョリティの権力を承認する制度として維持される限り、両者の因果関係を完全に断ち切ることは不可能である。

 ミルは、多数派によって支持される強力な意見であっても、それが総ての反駁と徹底的に向き合い、切磋琢磨し、あらゆる試練に堪え抜こうと努めない限り、真理の名には値しないという考え方を表明している。いわば弁証法的な考え方である訳だが、デモクラシーと不可分の関係にあるマジョリティの優位は、こうした弁証法的な手続きに対して常に敬意を払うとは限らない。それは国家の統治、集団の統治という重責には必ず附随する難問であり、真の意味で「平等」と「公正」の理念を貫徹することは誰にとっても不可能に等しい難事である。自由主義の理想は今も、見果てぬ夢のままなのだ。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

政治的に無力なものの「聖性」

 政治的な実権を剥ぎ取られた存在が、それゆえに強大な政治的権威を保持するようになるということは、我が国においては、それほど奇怪な事態ではないように思われる。少なくとも、坂口安吾が「堕落論」の中で指摘しているように、日本古来の「天皇」という制度には、そのような政治的無力化ゆえの「聖性」が絶えず付き纏っている。

 日本では、政治的な権威の頂点と、政治的な実権の中枢との間に、構造的な乖離が生じることは、歴史的な伝統に他ならない。現行の日本国憲法の規定だけを取り上げて、そのように言う訳ではない。江戸時代の幕藩体制、それはまさしく「朝廷」と「幕府」との重層化された政治的秩序ではなかったか? 征夷大将軍と雖も、天皇の威光の前には平伏せざるを得なかった。しかし、日本国の政治的な実権が将軍家の掌中に握られていたことは、明白な事実である。

 もっと時代を遡行してみても、そうした権力の重層性という事態は変わらない。王朝期、つまり武士階級による政治体制が確立される以前の時代においても、政治的な実権を掌握していたのは天皇ではなく、藤原氏を筆頭とする摂関家の公達であった。結局、日本において政治的に対立し、相剋していたのは武家と公家であって、時代の変遷に関わらず、天皇は常に政治的な「威信」としてのみ存在した。例えば江戸時代末期の倒幕運動を経て設立された明治新政府は、将軍を廃する代わりに天皇を国政の頂点に位置付け、権力を集中させようと試みたが、実質的に政府を動かしていたのが薩長土肥藩閥に属する有力者たちであったことは広く知られた事実であろう。鎌倉幕府を打倒し、天皇による「親政」を布いて、朝廷の権威を復興しようと企てた後醍醐天皇建武政権も、束の間の栄華を足利尊氏の造反によって打ち砕かれ、灰燼に帰した。この国では、政治的な権威と実質的な権力との全面的な合致は、常に妨げられ、破産させられるのが歴史的な慣例なのである。

 だが、政治的に無力である象徴的存在が、何故、実質的な権力者たちによって要請され続けるのだろうか? もっと言えば、何故、この国では政治的権力の独裁的な一元化が絶えず瓦解するのだろうか? それはドイツやイタリアで跋扈した所謂ファシズムとは異質な原理に依拠している。或る超越的な権威を掲げ、それを隠れ蓑にして物事を進めるという日本的な伝統は、つまり「権威」と「実権」との分離を絶えず要請する日本の政治的常套は、どのような経緯を踏まえて形成されたのだろうか?

 天皇という絶対的な存在を象徴化すること、或る崇高な超越的存在を信じること、つまり天皇という生身の存在に一種の「神格化」を施すことは、この国では長らく伝統的な統治手法として重んじられてきたし、その過激な強化が近代において昭和軍国主義の破滅的な暴走を招いたことは周知の事実であるにも拘らず、未だに天皇というシステムが廃絶される公算は極めて小さい。それは日本という国家の統治において、天皇そのものが重要であると言うより、天皇という象徴と内閣という政治的実権との乖離が、どうしても必要とされている為であろう。

 言い換えれば、天皇という超越的な存在を措定することによって、私たちの国家の統治者たちは、巨大な政治的利益を獲得しているということなのだ。その利益は、如何なる特質を孕んでいるのだろうか?

 天皇の超越性は、天皇が政治的に無力であることを通じて獲得される。若しも天皇が政治的な実権の掌握に成功すれば、彼は何らかの形で政治的に「偏向」せざるを得ない。そのとき、彼は政治的な闘争の経緯に基づいて、国家の内部に分断を発生させてしまうことになる。言い換えれば、特定の政治的な派閥との間に強固な癒合を形成せざるを得なくなる。それは天皇の政治的な超越性を毀損する事態に他ならない。天皇は如何なる特定の派閥とも結び付いてはならない。特定の派閥との癒合は直ちに、天皇の超越性という社会的な幻想を崩壊させるだろう。

 如何なる政治的な偏向とも無縁の「神聖な存在」としての天皇というイメージは、人民を統治する上で、極めて強力で特権的な威信を発揮する社会的装置である。それは不偏不党の超越性ゆえに、あらゆる種類の存在、たとえそれが卑賤な存在であったとしても、総ての存在に対して開放されている。この無際限な開放の幻想が、あらゆる種類の存在を間接的に結び付けるハブのような機能を、天皇に附与するのだ。そして、その政治的機能の魅惑的な価値に吸い寄せられるように、実務的な政治家たちが蝟集する。

 そうした天皇の崇高な聖性に就いて、もっと深く論じてみたいのだが、生憎、基礎的な勉強が不足している。Amazon網野善彦の『異形の王権』と『無縁・公界・楽』(いずれも平凡社ライブラリー)を注文した。今読み進めているジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(光文社古典新訳文庫)を通読したら、読解に着手しようと考えている。

「沖縄」という政治的な場所 5

 今回で連載は五回目である。思いのほか書き終わらず、考究が長引いている。

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 今回は、作品の掉尾に置かれた車椅子の青年の独白の引用から始めたいと思う。

「ときどき僕は夢を見ます」と車椅子の青年は言った。その声は、どこか深い穴の底から這い上ってくるような奇妙な響き方をした。「僕の頭の内側で、記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さっています。とても深く刺さっています。でもべつに痛くはありません。重みもありません。ただ突き刺さっているだけです。僕はそれをどこかべつの場所から、他人事のように眺めています。そして誰かにそのナイフを抜いてもらいたいと望んでいます。でも誰もそんなナイフが僕の頭に刺さっていることを知りません。僕は自分でそれを抜こうと思うのですが、僕は自分の頭の中に手を入れることができません。それは不思議な話です。突き刺すことはできたのに、抜くことはできないんです。やがてそのうちに、いろんなものがだんだん消え失せていきます。僕自身も薄らいで消えていきます。そしてあとにはナイフだけが残ります。ナイフはいつも最後まで残るのです。まるで波打ち際に白く残された古代生物の骨のように……。そういう夢です」

 この記述から、過ぎ去った戦争の日々の禍々しい残響を聴き取るのは、恣意的な解釈に過ぎるだろうか。だが、車椅子の青年が属するシステムを「日本」という国家として解釈するという本稿の前提に立脚するならば、日本にとっての忘れ難い「悪夢」を凄絶な「敗戦の記憶」という風に読み替えるのも決して不当な判断ではあるまい。

 ナイフに関する青年の繰り返される夢想は、どのような意味を秘めているのだろうか。戦争と絡めて考えるなら、それは過去に日本という国家が浴びせられた夥しい惨劇の記憶と結びついていると看做すことが出来る。「突き刺すことはできたのに、抜くことはできない」という述懐から、私が特別に想起するのは「核兵器」の惨禍である。広島と長崎に落とされた原爆の凄まじいダメージ、放射能による汚染の深刻な災厄は、福島原発の悲惨な事故の記憶を生々しく脳裡へ刻みつけている現代の日本人にとっても、決して縁遠い事件ではない。核兵器を使用することは容易いが、その災禍を完全に払拭することは極めて難しい。その不可逆性を、日本という国家が「悪夢」として記憶し続けるのは、必然的な反応であると言えるだろう。

 だが、重要な論点は、それだけではない。少なくとも、この作品において青年は自ら「ハンティング・ナイフ」を求め、実際にそれを手に入れている。彼は自分の「記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さって」いる夢を繰り返し眺めていながら、そのナイフを自ら欲望するのである。これは何を意味しているのだろうか? 報復だろうか? 自分に与えられた癒やし難い痛みを、憎悪を、他者へ向けて反射しようと試みているのだろうか?

 あらゆる事物が消え去った後も、永遠に残存し続ける「ナイフ」のイメージは、核兵器が齎す放射能の災禍を想像させるに相応しい構造的条件である。そして日本は、世界で唯一の被曝国として、核兵器の保持と使用を自らに禁じてきた。「ナイフはいつも最後まで残るのです」という青年の独白は、核兵器の畏怖すべき強烈な威力を指し示しているように聞こえる。その禍々しい痛切な記憶を持っていながら、何故、青年は「ナイフ」を求めるのか? そして実際に、それを手に入れてしまったのか?

「変な風には考えないでください。僕はこれを使って誰かを傷つけたり、あるいは僕自身を傷つけたり、そういうことをするつもりはまったくありません。僕はただある日、何かの加減で、とつぜんどうしても鋭いナイフがほしくなったんです。何かそう思うきっかけがあったのかもしれない。でもそれが何だったか、どうしても思い出せません。ただ、無性にナイフがほしくなった。我慢できないほどほしくなった。それだけです。それで僕は、通信販売を探して、このナイフを注文しました。僕がこのナイフをポケットに入れていつも持ち歩いていることを、誰も知りません。母親も知りません。僕だけの秘密です。今のところ、知っているのはあなただけです」

 ナイフを手に入れること、それを絶えず携帯していることは誰にも言えない「秘密」である。それは何故、誰に対しても伏せられているのか? そして何故、東京からの旅行者である見ず知らずの「僕」に限って、その「秘密」は開示されるのだろうか?

 この問いに対する答えの導き方は恐らく、次のようなものだろう。その「秘密」は、システムの内部に所属する人間に対してのみ黙秘されるべきものであり、部外者に対しては開示しても不都合が生じない性質を備えている、ということだ。言い換えれば、青年が「ナイフ」を手に入れることは、システムの存続に対して不利益を齎しかねない選択なのである。青年がシステムに対して齎し得る「災厄」とは何か? 彼の役割を「政治的に無力であることによって生じる政治性」の行使に求めるのだとすれば、答えは必然的に導出される。即ち、青年が「具体的な政治力」を手に入れ、保持すること、それがシステムの「危機」を招くということである。

 彼が政治的な実権を掌握すれば、システムの象徴的な統合は妨げられ、必然的に「家族」の相互的な結束と円滑な運営は破綻を来す。だから、彼が「ナイフ」を所持していることは厳格に隠匿されねばならない。言い換えれば、彼は決して自ら「ナイフ」を所持しないことによって、システムに対する積極的な貢献を果たしているのだ。これは、如何なる具体的な事態を指し示しているのか? 言うまでもなく、日米同盟における政治的な構造を指しているのである。

 つまり、事態は重層的な解釈を許容しているのだ。象徴天皇制によって代表される「政治的に無力であることの政治性」は、日本国内の「内政」における政治的原理であると同時に、日米同盟という「外交」における政治的原理としても作用している。日本が象徴的権力の原理を手放せば、日米同盟の堅牢な構造は直ちに揺らぎ始めることになるだろう。システムの内部において、政治的に無力な「象徴」として存在することは、自発的な意志=「主体性」の抛棄を通じて何らかの政治的な利得を確保するということであり、その利得は「自らナイフを振り翳す」ことによっては決して得られない種類の「利益」である。あらゆる政治性から切断されているということは、その存在に対して奇怪な「聖性」を宿らせる。それは世俗的なものの超越を意味する。

 政治的に無力であることが「聖性」の顕現を齎す。自分で書きながら、私はこの命題が切り拓く認識の射程の全貌を把握していない。一旦、今回の連載は終了して、別の記事で改めて考察を深めてみたい。

めくらやなぎと眠る女

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「沖縄」という政治的な場所 4

 今回で連載四回目である。

saladboze.hatenablog.com

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 前回の記事で、私は車椅子の青年の発言に着目し、彼が「何もしないこと」を自らの役割として担っていることに関して、断片的な省察を積み重ねた。今回の記事では、その点に関して更に考察を進めていきたい。

 「何もしないこと」が単なる禁圧や制限の結果ではなく、積極的な役割として是認されており、そのことによってシステム全体の利益に資する存在、という抽象的な定義から、具体的な存在の様態に関するイメージを導き出すことは容易ではない。敢えて暴論を承知の上で仮説を提示するならば、私は「象徴天皇」という制度を事例に選びたい。

 「象徴天皇制」に関する歴史的な経緯や、その実質的な機能に就いて、私は精確な知識を有していない。従って、飽く迄も私の独善的な見解として、以下の暴論を書き殴ることになるので、その点を念頭に置いて御一読願いたい。

 「何もしないこと」によってシステムの存続に寄与するという特殊な社会的地位の機能に関して、象徴天皇制ほど適切な事例は他に思い浮かばない。何故なら、象徴としての天皇は、日本という国民国家の統合の「旗じるし」という重責を担いながら、その政治的な実権を完全に除去された存在であるからだ。これは、車椅子の青年が作中において観念的な独白を通じて暗示しようとしている曖昧模糊とした存在の形態に、具体的な姿形を与える為の恰好の「現実」ではないだろうか。

 「何もしないこと」を、日本国憲法第四条に規定された「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」ことと同一視すれば、車椅子の青年が強いられている境遇はまさしく「象徴としての天皇」そのものに他ならない。このように考えると、作中で触れられる「家族」という観念を「国家」という観念に置き換えることも、強ち牽強付会とは言えなくなるのではないか。青年は政治的に無力であることを絶対的な存在の条件として刻印されている。だが、それは彼が本当の意味で如何なる政治性とも無縁の存在であることを意味しない。「政治的に無力であることの政治性」の作用を認めなければ、彼がシステムの存続に対して積極的な貢献を為し得る理由が消滅してしまうからだ。

 そう考えるならば、何故、車椅子の青年とその母親が、自発的な意志に基づかない無期限の「休暇」に追い込まれているのか、その背景と経緯を想像することは最早、それほど困難な作業ではない。日本国憲法の改正と象徴天皇制の導入が歴史上、どのような社会的趨勢の中で実行に移されたのか、私たちは誰でも知識として理解している。太平洋戦争に敗北し、アメリカの主導によって運営されたGHQの統治下に置かれる過程で、日本は象徴天皇制の導入を、つまり国家元首としての「天皇」の政治的な無力化のプロセスを受容したのである。青年が「禁じられた存在」として「無際限な休暇」の日々に幽閉されてしまったのは、彼の政治的な権力が空前絶後の惨劇を齎したからである。少なくとも「アメリカ」は、そのように考えていただろう。

 だが、歴史を遡って考えるならば、こうした「象徴天皇制」は古来、日本という国家においては政治的な常套手段であり、社会の基本的な構造として当然の如く容認されていた仕組みではなかっただろうか。軍部による政治への容喙は、鎌倉幕府の設立以来、日本の歴史的な伝統であり、寧ろ天皇自身が強大な政治力を発揮して中央集権的な独裁を維持することが出来た期間は驚くほど短い。鎌倉幕府以前にも、日本の行政の中枢を実質的に支配していたのは藤原氏によって代表される一部の公家であり、彼らが摂政や関白の地位を独占することによって、天皇さえも政治的な道具として傀儡のように操っていたことは、歴史に関する基礎的な知識の範疇に属する。

 坂口安吾は「堕落論」の中で次のように述べている。

 私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的にかつぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦しゃか家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。
 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代藤原氏天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生がたのしければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。(筆者註・引用文は「青空文庫」より転載)

 この指摘は、本稿の眼目にとって重要な省察を豊富に含んでいる。象徴としての天皇、つまり政治的には無力な存在を「象徴」として神輿のように担ぎ上げることで得られる「固有の政治力」を、日本の累代の政治家たちは存分に活用してきた。政治的に無力であることが、固有の政治性を生成するという特異な原理は、少なくとも日本という国家においては磨き上げられた伝統芸能にも等しい、行政の常道なのである。

 従って、車椅子の青年が語る「システム」の原理はそのまま、日本という国家の原理として置換することが可能である。無論、彼は「アメリカ人」として作者の手で具体的に規定されているではないかと、読者諸賢は速やかな反駁を試みるだろう。だが、その点に就いても、解釈は幾つかの種類に枝分かれし得ることを考慮に入れておく必要がある。「ハンティング・ナイフ」の作者は、「日本」という国家が実質的に「アメリカ」の一部と化していることを暗示しているのだと、穿った見解を試みるのも自由な読者の権利なのである。

 車椅子の青年によって体現される「象徴的権力」の入り組んだ政治性が、日本古来の国政の常套手段であることを認めるとしても、私は「ハンティング・ナイフ」の世界を掠める「太平洋戦争」の陰翳を看過することに賛成しようとは思わない。あらゆる政治性から切断されることによって、あらゆる種類の人間と結び付くことが出来る「天皇」の特異な社会性は、それ自体が究極的な権力の源泉である。そうした仕組みの歴史的な「古さ」を言い立てることで、論点を「日本」だけに絞り込むのは近視眼的な措置であろう。何故なら、車椅子の青年は単に「無際限な休暇」への適応の為だけに生存している訳ではなく、この作品の中心的なイメージである「ハンティング・ナイフ」への奇怪な欲望を密かに内包しているからだ。ナイフに対する欲望が、或る暴力的で独裁的な「政治性」への欲望の、危険な比喩であることは論を俟たない。(次回へ続く)

めくらやなぎと眠る女

めくらやなぎと眠る女

 

 

「沖縄」という政治的な場所 3

 前回の続きを書く。

saladboze.hatenablog.com

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 前回の記事では、車椅子の青年が位置付けられている文学的な役割に関して、一つの問いを設けた。つまり、車椅子に乗らなければ自力で移動することの難しいアメリカ人の青年の形象を通じて、私は「何もしないことを命じられる存在とは何者なのか」という命題を抽出した訳である。

 「何もしない」ということを命じられるということは、どのような存在であると考えられるだろうか。第一に思い浮かぶのは、社会や他人に何らかの害悪を及ぼすような「危険な存在」である。「危険な存在」であり、尚且つ制御することが不可能であるような存在に対しては、人や社会は拘禁などの制限を加えることで、想定される不幸や損害を減殺しようと試みるのが普通であろう。

 だとしたら、車椅子の青年とその母親は、危険な存在なのだろうか? 例えば青年の母親の「病」に就いて、次のような記述が、この作品には登場する。

「母の場合は、神経が立ってくると、顔の左半分がこわばりついてくるんです。目や口が動かなくなる。左側から見ると、割れかけの花瓶みたいに見えます。見た目はかなり異様ですが、それが何か致命的なものにつながることはありません。一晩眠れば、もとに戻ります」

 こうした症状の包摂している「意味」に就いて考えるのも一興だが、ここでは深入りしない。代わりに着目しておきたいのは、彼女は決して車椅子の青年の「附き添い」でも「保護者」でもなく、寧ろ彼女自身が息子と同じく「禁じられた存在」としての待遇を受けているという点である。

 彼らが自らの意志に基づかない「休暇」を強いられているのは、つまり「自発的な行動を起こさないこと」を命じられているのは、彼らが何らかの意味で「危険な存在」であるからだ、という仮説は、それほど強引な理路に則っている訳ではないと思う。彼らは、その見た目の身体的な条件とは裏腹に、何らかの危険な要素を、その存在の内側に潜在させている。だからこそ、彼らは超越的な他者、或いは相対的な強者としての「健康な人間」たちの判断に基づいて、その居場所を定められ、主体的な判断を下す権能を剥奪されているのである。

 だが、彼らは何故、危険な存在であると目されているのだろうか? その内容に関する具体的な記述を、この作品の内部に求めることは出来ない。何故なら、私が言っていることは抽象的で象徴的な解釈であり、端的に言って「私的な暴論」に過ぎないからだ。しかし、そのような「暴論」を通じて、作品の世界に立体的な解釈の余地を切り拓くことは、決して無益な作業ではない。

 彼らの危険性を直接的に立証するようなものはない。だが、例えば母親の「病気」に関して言えば、その危険性の「残響」のようなものを嗅ぎ取ることは、少なくとも不可能ではない。

「神経の病気というのは、千差万別なんです。原因は同じでも、結果は無数です。地震と同じですね。エネルギーは同じでも、作用する場所によって生じる現象は異なってきます。島がひとつ消えてしまうこともあれば、島がひとつ生まれることもある」

 ここから何らかの情緒的な「爆発」のようなものの痕跡を読み取るのは、思い込みが強過ぎるだろうか。それが具体的にどのような「爆発」であったのかを明示的に語る為の根拠を、私は自分の掌中に収めていない。しかし、前段で述べた「危険な存在として封じられた母子」という仮説との整合性を考慮するならば、恐らくそれは「家族というシステム」を破綻へ導きかねない「危険な現象」であったに違いないと推測される。

 「危険な存在」であるがゆえに「自発的な意志に基づかない休暇」の状況へ拘禁された車椅子の青年は、語り手の「僕」との対話において「システム」に関する言及を行なう。

「さっき分業システムと言いましたが」と彼は続けた。「分業というからには、僕らにも僕らなりの役割みたいなものがあります。ただ与えられるだけの一方的な関係ではない。何と言えばいいのかな、僕らは、何もしないことによって、彼らの過剰さを補完しています。バランスをとっているんです。彼らの過剰さが生み出すものを、言うなれば、癒しているわけです。それが僕らの側の存在理由です。僕の言っていることがわかりますか?」

 この記述に関して、私は過去に幾度も解釈を試みたことがある。しかし、この青年の発する観念的な科白から、明確な意図を汲み出すことに成功した例はない。懲りずに、粘り強く考察を重ねていきたいと思う。

 危険な存在でありながら、彼らはいわば「飼い殺し」の状態に置かれている。言うまでもないことだが、単に彼らが危険で害悪を齎す存在であるのならば、それを支配し得る権力の持ち主たちは「抹殺」という強硬な手段を選択しても構わない筈である。しかし、そのような残虐な措置が敢えて選択されないのは、青年の言葉を信じるならば、彼らが「役割」を持ち、「存在理由」を持っているからである。彼ら母子は「何もしないことによって、彼らの過剰さを補完」する存在として位置付けられている。そうであるならば、彼らの機能の停止は、システムの円滑な機能の為には必要な条件であるということになる。

 この場合の「システム」という単語が「家族」を意味していることは、青年の発言を踏まえる限り、明白であると言えるだろう。

「家族というのは不思議なものですね」と彼は言った。「家族というのは、それ自体が前提でなくてはならないんです。そうじゃないと、システムとしてうまく機能しない。そういう意味では、僕の動かない脚は、僕の家族にとってのひとつの旗じるしのようになっています。多くのものごとが、僕の死んだ脚を中心にして動いています」

 「家族というのは、それ自体が前提でなくてはならない」という青年の科白は一体、何を意味しているのだろうか。それは「家族」というシステムが、何らかの明確な目標に向かって組織化された一種の「プロジェクト」のようなものではなく、それ自体の「存続」の為に活動するウロボロスのような循環的時間性を備えているという意味だろうか? その観点から考えるならば、彼ら母子は「健康な人間」=「効率的な人間」たちが生み出す「過剰さ」を軽減する役割を担うことで、システムの再帰的な存続に貢献しているということになる。

 或いは、彼の「旗じるし」という言葉を考慮に入れるなら、青年の役割は「家族」というシステムの象徴的な統合に存すると看做すことも可能であろう。それは、そのままでは瓦解してしまいかねないシステムの「過剰さ」を解消することによって、システムの存続に寄与するということである。(次回へ続く)

めくらやなぎと眠る女

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