サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「佐倉」

 此間の土曜日に、家族と共に佐倉ふるさと広場で開催中のチューリップフェスタというイベントに出掛けてきた。

 本当は千葉市の猪鼻城(「亥鼻」とも書くらしい)へ桜でも見に行こうかと、幕張から千葉へ向かう京成電車に乗り込んだのだが、中吊りの広告でチューリップフェスタというイベントの存在を知り、そう言えば此間、千葉テレビ佐倉市の何処かでチューリップが満開だと告げていたなと思い出し、急遽予定を変更することに決めた。

 稲毛で下車し、津田沼へ向かう反対の電車へ乗り換え、私たちは佐倉市へ移動した。京成佐倉駅から送迎のバスが出ていると広告には記されていたが、ベビーカーで狭苦しく混み合ったバスへ乗り込むのは、どうにも気が進まない。そこで私たちは合議の末、駅から徒歩で会場を目指すことを決断し、最寄りの京成臼井駅で下車して、閑静な住宅地を、線路に沿って歩き出した。

 幸いにも陽射しには恵まれたが風が強く、ベビーカーの幌が歪みそうな突風が時折、私たち一行を襲った。携帯で地図を確認して道順を調べつつ、線路に沿って延々と続く道路へ出ると、やがて行く手に大きな風車の姿が現れた。向かいから、花々の入ったビニール袋を提げた人々が三々五々、歩いてくる。恐らくは臼井周辺に暮らす地元の住人であろう。

 佐倉市に足を踏み入れるのは、今回が初めてであった。以前に成田を訪れた際に、往復の電車で市域を通過したことはあるが、実際に降り立つのは生涯で最初の経験である。臼井駅から歩き出すと、延々と古びた住宅が連なり、やがて広大な田畑が視界の左手を領した。その彼方には印旛沼と、樹林の群れが見える。昔、柏市の店舗へ勤務していた頃に、苦情の対応で柏市の高柳という街へタクシーで赴いたことがあった。臼井の景色には、その高柳と共通する要素が豊富に含まれている。深い森が彼方此方に点在し、古びた家並が領有する敷地は無闇に広い。敷地の中に複数の建物を構えている家もある。長閑な田園地帯の風景である。

 チューリップフェスタの会場である佐倉ふるさと広場は、印旛沼の畔に位置し、平坦な敷地には強風が吹き荒れ、時折砂埃を竜巻のように劇しく舞い上げていた。週末の駐車場は大混雑で、警備員が絶えず怒号のような声を発しながら、行き交う車の整理に励んでいた。一面のチューリップ畑と、焼きそばやフランクフルトなどの食べ物を商う屋台と、オランダ様式の風車、そして夥しい数の人間たちが、広場に異様な活気を与えていた。理由は分からないが、東南アジア系の外国人の姿が妙に目立つ。

 一歳を過ぎたばかりの娘は、チューリップ畑の隙間を風に煽られながら歩いて何度も転び、両方の掌を砂塗れにして喜んでいた。いかんせん風が強い。全身が眼に見えない小さな砂の粒子に蝕まれているような気がする。毛髪も砂を含んでざらざらだ。

 一頻り遊んだ後、私たちは徒歩で京成佐倉駅を目指すことにした。印旛沼に通じる鹿島川という河川に沿って歩いていく。土手の上には蒲公英が咲いていて、私は一本を毟り取って娘に持たせてやった。娘は嬉しそうに茎の折れた蒲公英を握って眩しく笑った。やがて橋にぶつかり、さてどの道を往けばいいのかと思案していると、サイクリング中の日灼けした年配の男性が不意にタイヤを軋ませて止まり、何処へ往くのかと声を掛けてくれた。私たち夫婦の、道順を検討する会話が擦れ違いざまに耳へ入ったらしい。京成佐倉駅へ往きたいのだと告げると、彼は親切に道順を教えてくれた。あの踏切を渡って道なりに三〇〇メートルほど往くと、国道にぶつかる。それを左に曲がってずっと歩けば駅に着くよ。私たちは礼を述べて歩き出した。世の中には、気さくで親切な人々が確かに存在しているのだ。

 工業用水を扱う佐倉浄水場の脇を通って鹿島橋を渡り、道なりに進む。途中のセブンイレブンで用便を済ませ、軽食を購って小腹を満たす。有名な国立歴史民俗博物館の前を素通りし(いかんせん私たちは疲れ果てていたのだ)、漸く佐倉駅へ辿り着くと、私たちは砂埃を吸い込んだよれよれの衣服を叩きながら、改札階へ通じるエレベーターへ乗り込んだ。居合わせた年配の女性が、先日海浜幕張の公園で転んだ際に擦り剥いた娘の鼻の頭を見て、子供の勲章だねと笑顔で言った。単なる擦り傷も、勲章と呼ぶと何だか誇らしく聞こえる。どんな物事も、捉え方次第でその価値は如何様にも変じるものなのだろう。

抽象と断罪 三島由紀夫「午後の曳航」

 三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を読了した。

 この作品に限らず、三島文学の普遍的な特質と言える要素なのかも知れないが、今回「午後の曳航」を通読して改めて感じたのは、その文体や構成の根本的な「明晰さ」である。様式美と言い換えてもいい。三島由紀夫の書き綴る文章は、時に難解な対象や内容を含むことがあっても、絶えず驚くべき「明晰さ」に裏打ちされている。

 いつも言うように、世界は単純な記号と決定で出来上っている。竜二は自分では知らなかったかもしれないが、その記号の一つだった。少くとも、三号の証言によれば、その記号の一つだったらしいのだ。(P156)

 この「首領」の科白はそのまま、三島由紀夫の創造する文学の特性に対して与えられた明敏な要約のようにも感じられる。「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする認識的な努力、或いは原理は、三島由紀夫という作家の本質的な要素を成していると私は考える。

 本作において重要な役割を担う人物である塚崎竜二が「記号の一つ」であるという言い方は、殆ど作者の手の内を意図的に曝露したような表現である。彼は単なる生身の人物として写実的に生み出され、造形されたのではなく、一つの抽象的な観念の体現者として描かれている。彼は物語の典雅な構造が要求する役割に応じて、具体的な血肉を授かった存在であり、従って彼には固有の実存のようなものはない。これは竜二に限らず、この「午後の曳航」という極めて技巧的な傑作に登場する総ての人物に共通して指摘し得る特性である。

 三島由紀夫が小説の執筆に際し、事前に結末の一行を決めた上で創作に着手する習慣の持ち主であったという話を聞いたことがある。作者が故人である以上、その真偽を確かめる術は最早存在しないが、如何にも三島由紀夫らしい挿話には違いない。小説の世界に対して、三島由紀夫という人物は極めて厳格で専制的な指揮官、絶対的な造物主の地位を絶えず堅持している。これは根拠のない皮相な私見に過ぎないが、彼にとって、個々の登場人物の実存というのは、それ自体の固有の位相を持たない、単なる媒体のようなものであった。少なくとも彼は、自分の筆先が紡ぎ出した小説の人物に独自の人格や固有性を認める必要を持たなかっただろう。或る意味で、彼は論文を書くような姿勢で小説の執筆に取り組んでいたように見える。

 彼の小説は非常に精緻な心理的描写を満載しており、描き出される登場人物の複雑な心情には必ず堅牢で饒舌な理窟が附随している。それは三島が人間の心理的側面に異様な関心を有し、卓越した観察眼を発揮していたことの反映であると同時に、彼があらゆる人間の心理を「解釈可能なもの」として位置付けていたことの反映であると言える。言い換えれば、彼は常に「世界」を「単純な記号と決定」として捉えることを自らの精神的な原則として採用していたのである。そのような世界観が、彼の文学の異様な「明晰さ」を形成する根本的な要因であることは論を俟たない。

 三島の文学には一片の謎も不合理も存在しない。何故なら、作者が作品に対して絶対的な独裁を布き、如何なる不条理な要素も残らず排斥され、摘出されてしまっているからである。作者の眼には、作品の総ての要素が明瞭な可知性を伴って映じている。恐らく彼は「訳の分からないもの」が大嫌いなのだ。どんな事物も何らかの方法で説明が可能であるという根強い信憑が、三島の明晰な理性を根底から支えている。こうした作家としての特質は、例えば村上春樹のようにいつでも小説を書きながら「途方に暮れている」ように見える作家とは全く対蹠的なものである。「ねじまき鳥クロニクル」のような壮大な物語を書くとき、恐らく村上春樹は自分でも訳の分からない巨大な、錯綜した「何か」を相手取ってペンを走らせている。最終的に自分の生み出した物語が何処へ辿り着くのか、村上春樹はきっと理解していないだろうし、総てを書き終えた後でも、何故、自分がこんなものを書いてしまったのか、明瞭に捉えることは出来ずにいるに違いない。村上春樹は自分の作品を、自分の理性や世界観に対して完全に従属させることが出来ない。だが、三島由紀夫は総てを己の支配下に置き、厳格な統制によって物語の不可解な側面を扼殺している。その意味で、彼の小説は作者の実存から独立して存在することが出来ない。言い換えれば、彼の小説は常に彼の思想の説話的な翻訳として存在し、機能することを強いられている。

 誤解を避ける為に附言すれば、私は両者の個性を比較して、その優劣を論じたいと考えている訳ではない。それぞれの特質を浮き彫りにすることが私の個人的な思索の掲げる企図である。そして私の考えでは、三島の文学的才能は小説よりも評論に向いている。どんな不可解で難解な代物であっても、何とか腕尽くでそこに論理の野太い管を敷設し、何らかの「意味」が滞りなく流通するように努めるのが評論家の生業であり、曲がりなりにも社会的な使命であるとするならば、三島の「世界」を「単純な記号と決定」に還元しようとする強靭な性向が、評論家の役割に最適の資質であることは明瞭であろう。私はその異様な明晰さを敬愛している。だが、余りにも総てが見え透いている小説、総てが予め定められた筋書きに則って運ばれる小説、卑俗な表現を用いれば「談合」のような小説が、普遍的な生命力を未来に向かって保ち得るかは疑問であると言わねばならない。

 三島由紀夫の小説は達者な「描写」を随所に含んでいる。しかし、それらの描写は総て、小説を支配する論理の「説明」として象嵌されており、描写そのものが超越的な強度を発揮することは原則として有り得ない。また、少年たちが竜二の「堕落」を批判し、処刑に踏み切るという背徳的な筋書きも、余りに明瞭な理窟に従って構成されている為に、その本質的な不穏さが鈍って見えることも事実である。極めて巧妙に綴られた作品であることは疑いを容れない。だが、この作品の性質や構造が総て、予め作者によって残らず簡潔に説明されてしまっているという事実は、この作品の生命力を衰弱させる方向へ働くだろう。尤も、作者はそれでも別に構わないと開き直った上で、徹頭徹尾、優れた物語作家としての業務を完遂したに過ぎないのかも知れない。何れにせよ、得難い傑作であることは紛れもない事実である。

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)

 

書くことで癒やされるものがあるのならば

 今、僕は語ろうと思う。

 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(村上春樹風の歌を聴け」)

 確かに書くことは明確に何かを救済したり、物事に抜本的な解決を齎すような手段ではない。それは経験的に自明の事実である。書くことによって、直接的に状況の打開、人生における種々の具体的な「困難」の克服が達成されることは殆ど有り得ない。例えば巨額の借金を抱えた人物が、死に物狂いで書き綴った小説が空前の成功を招来し、転がり込んだ印税で借銭を一挙に清算した、などという通俗的な奇蹟が実現したとしても、それは果たして書くことそのものに固有の「救済」であると言えるだろうか?

 或いは、そうだと言えるかも知れない。若しもそんな奇蹟的な魔術が成し遂げられるならば、確かに書くことは直接的な仕方で、生きることの「困難」を一つ、実際に解決したということになるだろう。だが、それは書くことでなくても別に構わない筈だ。何か事業を興してもいいし、何処かへ勤めて懸命に額に汗して地道に金を稼いでも良いし、あらん限りの財産を悉く売り払ってもいいし、血族の脛を思い切って齧ってもいい。経済的な収入を得るという目的に照らし合わせたとき、書くことは特別に合理的な方法であるとは言い難い。

 にも拘らず、人は文章を書く。尤も総ての人間が文章を書き殴ることに深甚な歓びを見出す訳ではない。いや、文章を書くことが生きることの一部を成している人にとっても、執筆という営為は決して純粋な喜悦に満ちた、極端に肯定的な何かという訳ではない。書くことによって、直接的な歓喜が得られる局面というのは、極めて限定的な奇蹟であるに過ぎない。にも拘らず、人は何かに憑かれたように万年筆の尖端で原稿用紙の表面を削り取り、絶頂を迎えたピアニストのように荒々しくキーボードを指先で叩きのめす。そうやって紡ぎ出される文章の社会的な価値、或いは客観的な意義を問うのは、不毛な企てなので差し控えておこう。少なくとも、書かれた文章は、書き綴った当人の精神に対しては何らかの価値を有しているものなのだ。

 村上春樹の処女作である「風の歌を聴け」は如何にも処女作らしい雰囲気と体裁を備えている。そこには「書くこと」それ自体への言及があり、実験的とも思える文章の断片が気儘に配列されている。だが、彼は何かを語ろうとして、結局は何を語ればいいのか、未だ把握出来ていないように見える。何かを語らねばならないという衝動が、語るべき何かに先行して存在している。これは、書くことに親しみを持たない人々の眼には、随分と倒錯的な事態のように映じるだろう。書くべきことや書きたいことが見えないまま、書きたいという衝動に引き摺られて走り出すとは一体、如何なる酔狂なのか? 何の合理性もない奇怪な悪趣味、それが書くことの内実ではないのか? こうした見解には無論、頗る堅牢な説得力が内包されている。書きたいことが何なのか見えないのに、わざわざ文章を書いて何の利益が得られるのか、という至極尤もな疑問に対して、きちんと理解してもらえるような性質の回答を返すことは案外難しい。

 だが、書くことの欲望に憑依された人間にとっては、こうした健全な問いは議論にも値しない「愚劣な問い」であるに過ぎない。書きたいことが何なのか分からないからこそ、書くことの欲望は無際限に亢進する。これは一部の人々にとっては自明の摂理であり、崇高な命題である。これは生理的な欲求であるというよりも、観念的な欲望であろう。空腹そのものは、胃袋が満たされてしまえば自ずと終息する。だが、美食に対する欲望は満たされれば満たされるほどに先鋭化の階梯を駆け上がっていき、決して最終的な充足には到達しない。そこには永遠の輪廻だけが存在し、人は決して涅槃を知ることがない。

 「風の歌を聴け」の新鮮な読後感は、恐る恐る試みられ、その効果を確かめられつつある言葉の奇妙な軋轢によって齎されている。作者は既に世間へ流通している文章の一般的な様式を理解していないし、満足もしていない。従来の文脈では捉えられない固有の何かを把握しようと努める不透明な衝動が、息継ぎを知らない泳者のように、途切れ途切れのシークエンスを形作る。その断章に映り込む、作者の乾燥した抒情が、時折私たちの眼球を晦ませる。

 書かずにはいられない、或いは書くことによってのみ到達し得る特別な悦楽の領域が存在すると信じずにいられない人々、その殆ど宗教的な信憑が燃え尽きることはない。それは燃えれば燃えるほどに愈々飢渇の度合を深めていくのである。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

方法と主題

 文学作品を論じるに当たって、表題に掲げた「方法」と「主題」は相互に対立する観念として峻別されることがある。無論、一つ一つの作品が何らかの「方法」と「主題」の複雑なアマルガムとして形成されていることは明白な事実なのだが、何れの観念を重視するかという問題は、それほど容易く答えられるものではない。

 或る小説を読解する場合に、その作品の「大意」や「意図」を見出すように命じる「現代国語の教科書」的な発想を、小説の本来的な在り方に反する歪んだ価値観として排斥し、論難する類の見解は最早、少しも奇矯なものではなく、寧ろ強力な普遍性を伴って世間に浸透しつつあるように見える。小説の具体的な「作品性」を、外在的な基準や価値観によって制約したり拘束したりすることへの反発は、所謂「内在的批評」の原理的な基軸として樹立され、相応の地歩を現に占めている。

 「小説は、小説を読む時間の中にしか存在しない」という保坂和志の言葉(そのままの引用ではなく、私の勝手な要約である)は、このような「内在的批評」の典型的な信仰告白であると言えるだろう。それは「小説」の読解に際して「小説の外部」の介入を認めないことに等しい。無論、小説の一つ一つを読み解く場合に様々な観点に立脚して、多様な解釈を加える世間の風習は今後も持続するだろうし、それ自体は個々の読者の自由な裁量に委ねられるべき問題であることに議論の余地はない。「内在的批評」が一つの立場であるならば、当然のことながら「外在的批評」にも一定の生存権が容認されて然るべきであろう。

 或る作品の主題を問うこと、それによって作品の断片的で拡散的な、豊饒な細部の息吹を踏み躙ってしまうことへの根深い生得的な嫌悪、そうした性向を個々の読者が保有するのは無論、当人の勝手である。だが、そうした嫌悪が常に絶対的な正当性を備えていると断言するのは極論であり、内在的な批評(当人がそうした理念を標榜するかどうかは別として)を好む性質の人々も、決してそのような極論を常に押し通そうと考えている訳ではないだろう。内在性と外在性、二つの異質な立場を必ず択一せねばならないと、地上の誰かが断定することは出来ないし、そもそも、そのような設問自体が無益であることは眼に見えている。

 私は別に内在的な批評の意義を否認したい訳ではないが、そのような性向や方針を極度に推し進めるのは、議論という地平そのものの崩壊を惹起するのではないかと危惧している。内在的批評を極限まで推し進めたとき、そこに現れるのは実存的な「秘教」であり、隠匿された特権的な「奥義」であろう。あらゆる外在性が、小説を読むという経験そのものとは重なり合うことのない「余剰」であることは、確かに一面的な真理としては認められ得る。だが、あらゆる外在的な観念を追い払った上で、如何なる予備知識も持たずに、作品そのものの内在的な感触を味わうべきだという芸術的な理念には、優れた作品の本質は如何なる歴史的変遷にも左右されない、絶対的な普遍性が宿っていると信じ込む、独特の偏狭な視点が埋め込まれているように思われる。どんな外在的条件にも揺さ振られることのない普遍的な「価値」に対する信仰は一体、如何なる基盤に支えられているのだろうか? こうした素朴な問いに、内在性の原理だけで報いることは不可能ではないだろうか。

 作品の外部を想定せず、作品を飽く迄も内在的な領域として独立させること、そうした芸術的な理想主義が、芸術に対する無粋な無理解の蔓延する社会への敵意と繋がっていることは、一つの有効な認識である。如何なる主題も意図も、作品そのものの本質とは無関係な、外在的な「異物」であると看做す潔癖な価値観は、芸術を「個人的な体験」(©大江健三郎)の閉域に監禁し、様々な読解の自在な交通を妨げることに帰結するのではないか。それは内在的な批評家にとっても、決して望ましい状態であるとは言えないだろう。

「少年性」をめぐる惨禍 大江健三郎「飼育」を読んで

 大江健三郎芥川賞受賞作である短篇小説「飼育」を読み終えた。

 作家の初期の傑作長編小説として名高い「芽むしり仔撃ち」にも通底する独特の空気を湛えた、この美しい小説は、独自の文体を駆使して、無垢であると同時に淫らで狂暴でもある「少年」の心理と実存を生々しく精細に描き出している。

 筋書きは異なるが、この「飼育」という作品は「芽むしり仔撃ち」の先駆的な原型という性質を有しているように感じられる。その共通点は概ね二つの主題に集約されると言い得るだろう。一つは「少年」であり、もう一つは「監禁」である。そして、それらの主題の背景には遠くからぼんやりと伝わって来る不吉な音響としての「戦争」が横たわっている。この「戦争」から遠く隔てられた領域で暮らしていた筈の少年の世界に、外部から致命的な暴力が覆い被さり、一種の理想郷として作り上げられた「子供だけの世界」が残酷な破綻を迎えるという一連の筋書きは、当時の作者の眼には単なる恣意的な思いつきの範疇を超えた、宿命的な構図のようなものとして映じていたのではないだろうか。

 作者は「子供だけの世界」を人工的に構築する為に必ず「監禁」という条件を準備する。「飼育」の舞台となる山間の「村」は長雨の影響で「町」への道を閉ざされ、「芽むしり仔撃ち」の疎開少年たちは、疫病の蔓延を危惧する大人たちの手で「村」に幽閉される。その「監禁」と「隔絶」が、子供たちだけの世界を生み出し、その精神や思想を純化することになる。

 大江健三郎は、これらの重要な初期作品において、絶えず「子供」の側から世界の実相を眺め、その美しさと醜さの総てを捉えようとしている。この文学的な企図が、所謂「大人」たちによって作り上げられた社会に対する批判的な敵愾心を孕んでいることは論を俟たない。彼は飽く迄も「少年」の論理に身を挺することによって、「大人」の眼では把握することの困難な世界の側面を剔抉しているのである。

 だが、純粋な少年の視線を通じて、大人たちの穢れた側面を暴露し、糾弾するというだけの企みであるならば、これらの小説が奇怪で不穏な緊張感を終始、纏い続けることは出来なかったであろう。作者は「少年」の論理と抒情を極めて生々しく忠実に再現しながら、同時にその避け難い脆弱さ、それが滅び去ることの必然性を明瞭に刻印することを忘れない。言い換えれば、彼はそうした「少年性」の救い難い矛盾と軋轢を、独特の屈折した文体によって入念に捉え、精確な表現を与えるべく悪戦苦闘しているのである。この孤独で果敢な奮闘が、作者の文体から単純な明快さを奪い取ったのは、必然的な現象であると言い得るだろう。

 無論、そうした「少年性」の不可避的な敗北に対して、作者が大人びた賢明な諦念で報いているとは言い難い。寧ろ、そのような物分かりの良い「和解」を排除して、どうにも遣り場のない、袋小路のような矛盾そのものを文学的に表出することが、初期の大江健三郎の仕事が有していた重要な価値だったのではないかと思われる。彼は「少年性」と「社会性」との絶えざる軋轢や衝突を詳さに捉え、描き出しながら、そこに絶望と憤怒の両面を注ぎ込んでいる。彼は大人たちの手で自分は「罠に嵌められた」という感覚への執着を、決して容易く抛棄しようとは考えない。こうした「被害者としての少年」という特権的な主題の背後には恐らく、日本が味わった「敗戦」という経験が濃密に滞留している。

 敗戦によって日本という国家を取り巻く思想的な環境が激変したことは、歴史的な認識として受け容れられている。この急激な「転回」が、日本の「少年少女」に齎した影響と衝撃は計り知れない強度を有していただろう。「大人たちによって自分たちは欺かれていたのだ」という精神的な傷口が、大江健三郎という作家の来歴には深甚に浸透しているのではないか。例えば「芽むしり仔撃ち」において、語り手を含む感化院の少年たちは一貫して、大人たちの徹底的な暴虐に苛まれる存在として描かれており、しかもその虐待に匹敵するだけの「罪悪」の内訳は殆ど明示されない。子供は無条件に暴虐の被害者であり、大人は同様に加害者であるという認識の構図は牢固として抜き難い。「死者の奢り」においては単なる理不尽な手違いとして示されるに留まっていた「被害」の構造は、「飼育」においては黒人の兵士の裏切りとして、「芽むしり仔撃ち」においては疫病を懼れる疎開先の大人たちの残虐な詐術として、陰惨な印象と共に明示される。「黒人兵」も「疎開」も、戦争という一つの強靭で深遠な主題が齎した、一方的な存在=措置であることは言うまでもない。作家が戦争犯罪を糾弾し、戦後民主主義に異様な執着を見せる背景に、こうした「被害」の宿命的な原像が関与していることは、概ね確かな事実であろうと私は思う。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

境界線の彼方へ 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)

 村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(第3部 鳥刺し男編)を読了した。

 この錯綜した筋書きを持つ長大な物語の概要を、何かしらの理論的な構図の中に縮約して織り込めるという自信は、少なくとも現在の私の持ち物ではない。敢えて私見を述べるならば「未整理の作品」という形容が相応しいように感じられる、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説においては、総ての伏線や謎めいた要素が充分に回収されたり解決されたりしているとは言い難い。だが、それらの整理されない細部と細部の整合性を確保する為に強引に理路を切り拓こうとすれば、この小説が小説として構築された意義が失われてしまうようにも思える。

 「ねじまき鳥クロニクル」の主要な筋書きが、失踪した妻クミコとの平穏な生活の「奪還」に存することは確かである。だが、その主要な筋書きに限ってさえ、それが具体的にどのような構造的真実を指し示しているのか、明瞭に把握することは困難である。読者は自らの曖昧な感受性、或いは主観性を重要な通路として用いることで、この物語の多義的な曖昧さの樹林へ分け入るしかない。

 この物語が重視している主題は多岐に渡っている。それは「暴力」であり、「分裂」であり、「穢れ」であり、「場所」であり、「暗闇」である。それらの決して一義的とは言い難い重層的な言葉の群れを組み合わせて、作者は壮大で複雑な伽藍を築き上げている。それらの主題は決して明瞭な結論や図式のようなものには結び付かず、そのまま併存を命じられているように見える。言い換えれば、そこには不可解な「夢」を解析するような類の困難と、具体的な手応えの欠如が絶えず附随している。

「つまりね、今回の一連の出来事はひどく込み入っていて、いろんな人物が登場して、不思議なことが次から次へと起こって、頭から順番に考えていくとわけがわからない。でも少し離れて遠くから見れば、話の筋ははっきりしている。それは君が僕の側の世界から、綿谷ノボルの側の世界に移ったということだ。大事なのはそのシフトなんだ。もし君が本当に誰かほかの男と肉体的な関係を持ったとしても、それはあくまで副次的なものに過ぎない。見せかけに過ぎない。僕が言いたいのはそういうことだよ」(P537)

 この「僕」の科白はそのまま「ねじまき鳥クロニクル」という、平明な文章で綴られた難解な物語の、簡明な概略であるように聞こえる。重要なのは「二つの異質な世界」における「移行」であり、定められた厳格な「境界」を踏み越えるという所作である。実際、語り手の「僕」は「井戸」の奥底に潜ることで「壁抜け」という奇妙な体験を実行に移すことになる。彼は「夢」と「現実」の境界線を乗り越えて往還し、重なり合う二つの世界に向かって自分自身を分裂させる。

 こうした重層化と越境のモチーフは、村上春樹という作家にとっては恐らく極めて重要な意義を有しているに違いない。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「海辺のカフカ」でも「1Q84」でも、異質な世界の不可解な繋がり、或いはその併走が、物語を駆動する根本的な原理としての役割を附与されているからだ。

 自分の信じている日常的=経験的な現実が、異質な世界と重なり合って存在しているという一種の強迫的な観念は、村上春樹の紡ぎ出す物語においては、本質的で堅牢な枠組みとして機能している。それは日常的な私生活の平穏な性質に筋金入りの愛着を示す村上春樹という作家にとって、何を意味するのだろうか? 彼は平穏な私生活の恐るべき脆弱さに就いて、総毛立つような危機感を有している。それは極めて簡単に破壊され得るものであり、外部から到来する不可解で想定し難い危機の前に、呆気なく覆され、二度と後戻りすることの出来ない潰滅的な状況へ追い遣られてしまう。そうした脆弱な平穏に対する作家の個人的な執着が必然的に、そのような平穏を浸蝕する「異質な世界」への過敏な意識を育むのは、決して理解し難い現象ではないと言えるだろう。

 簡単に破壊される脆弱な私生活、個人的な領域、それが村上春樹の創造する文学的な、或いは「想像的な自我」の立脚する重要な倫理的根拠である。そして「ねじまき鳥クロニクル」においては、そのような性質の想像的自我に対して、考えられる限りの不可解な惨劇が降り注ぐことになる。彼は様々な外在的暴力の到来によって、個人的な領域を徹底的に、致命的に毀損されてしまう。極めて雑駁な要約を行なうならば、この物語は外在的な暴力の象徴としての「綿谷ノボル」を襲撃し、昏倒させることで、一応の解決を示したように見受けられる。だが、それを根本的な解決として承認し得る読者は殆ど皆無に等しいのではないだろうか。綿谷ノボルの死は、個人的な領域を脅やかす巨大な「悪」の消滅に直結すると言えるだろうか? そもそも、綿谷ノボルという人物の「邪悪さ」の内実は、明瞭に描き出されていると言えるだろうか?

 恐らく根本的な意味で、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は未完成の作品であり、文学的な過渡期を乗り越える為に要請された困難な苦闘の足跡のようなものであると言えるだろう。飽く迄も独断的な私見に過ぎないが、当時の作者は、個人的な領域への頑迷な執着(それ自体の是非を論じるのは無益である)を手放すという形で、倫理的な成熟へ向かいつつあったのだ。それは唐突な印象と共に挿入される「戦争」の記憶によっても傍証される。「戦争」が、個人的な領域とは無関係に、寧ろそれを圧倒的な権力によって踏み躙り、浸蝕するような禍々しい記憶として幾度も語られるのは、作者の倫理的な格闘の存在を暗示している。彼は「自分自身」の問題だけに意識を集中するような実存の形式が、根源的な障碍を抱えていることに、その眼差しを向けている。恐らく、そうした衝動は、この物語を書き始めた当初から意識され、企図されていたものではなく、第三部に当たる「鳥刺し男編」を執筆する過程を通じて明瞭に曝露されたのではないだろうか。第一部「泥棒かささぎ編」と第二部「予言する鳥編」においては、物語の進行や構成、文体の口調などは未だ、個人的な領域に逼塞する如何にも村上春樹的なメンタリティを濃密に帯びているが、第三部「鳥刺し男編」は明らかに、それまでの物語とは異質な雰囲気と構造を備えている。概ね「僕」の一人称で綴られてきた物語に、週刊誌の記事の引用や、笠原メイの手紙、或いは「真夜中の出来事」と題された三人称のパートなど、多様な表現の形態が一挙に混入し始めるのだ。この重要な変貌は、作者のメンタリティの倫理的な変貌と、緊密な相関性を有しているように思われる。

 個人的な領域から、公共的な領域へと移行することで、物語の構造的な原理に重要な訂正と変更が加えられる。この変貌は決して完璧に成し遂げられているとは言い難い。寧ろ作者自身が、突如として押し寄せてきた倫理的な難問に混乱しているように感じられるほどだ。だが、作者は断じて惰弱な撤退を選ぼうとはしていない。彼は困難な問題に立ち向かい、辛うじて生き延びることに成功した。本当の戦いの始まりは「ねじまき鳥クロニクル」以降の作品群に持ち越されることになるだろう。それは「自己」という閉域の限界を打破する為の、凄絶な死闘=私闘の記録である。

 

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

 

 

二〇一七年四月の端書(銭金の亡者)

 読むことに熱心でいると、次第に書くことが疎かになるのは、難しい問題であるとも言えるし、当然の問題であるとも言える。読むことと書くこと、何れが劈頭を飾るべき要素であるか、わざわざ小難しく考えずとも、読むことが先決であるに決まっている。生まれてから一文字も読まないで、自在に文字を書き綴り、自分の思考や雑念の不安定な航跡を眼に見える形に置き換えるなど、出来る筈もない。

 先ほど、漸く勇気を振り絞ってAmazonアフィリエイト・プログラムに登録の申込みをした。以前にも一度試みたことがあったが、極めて微々たるアクセスしか集められない分際で、目先の金を欲して、そういう社会的な仕組みに手を出すのは、卑しく浅ましい心根であるような気がして、踏ん切りがつかなかった。それから暫く経つ。以前に比べれば、読者登録の数も増え、アクセスの平均値も上がった。そろそろ、図々しい行為に及んでも、看過される頃合いではないか。無論、今でも「サラダ坊主日記」が「零細」の称号に相応しい水準の運営状況であることは否み難い酷薄な現実であるが。

 審査を無事に通過出来るのか分からないが、自分の書いたものが少しでも経済的な利潤に繋がるかも知れないという希望(全く漠然とした希望だ)を持つことは、少なくとも悪い気分ではない。尤も私は、濡れ手に粟の大儲けを志すほど、愚昧な脳味噌の持ち主ではないと一応は自負しているので、ブログの記事で飯を食おうなどと、気宇壮大な妄想に現を抜かすことはないと断言し得る。ただ、千円でも二千円でも、或いは数百円であっても、つまりキャスターマイルド一箱分の金銭でも、本業以外の経路で捻り出すことが出来たら、苦しい家計の足しにもなるだろうという、実に慎ましく純朴な根性の為せる業なのである。

 本を読み、感じたことや考えたことを文章に仕立てて、ネットの海原に浮かべて見ず知らずの衆目に晒す。それだけでも随分と厚顔無恥の所業であることは疑いを容れないし、そうした自己顕示欲が既に充分浅ましいものであることは無論、理解していない訳ではない。だが、そうした欲望を、他人の眼を殊更に気に病んで腕尽くで封じ込めるのは、いささか不健全な選択であり、心身の健康には余り好ましいとも思われない。

 最近は余り、アクセスの増減ということが気にならなくなった。それより、熱心に本を読んで、その感想を書くという極めて個人的で地道な作業に精励したいという気持ちが強い。だから、ブログの更新頻度が鈍っている訳だが、それで誰かに迷惑を及ぼす気遣いもない。淡々と日々を暮らし、そして小銭を稼ぎたい。稼いだ小銭で莨一箱、書籍一冊の費用が賄えるなら、それだけで見える景色の質は変わってくるだろう。

 この言い訳がましい文章は、アフィリエイトの審査に通った暁に、俄かにブログの記事へAmazonのリンクが濫造され、狭い世間からサラダ坊主も結局は金に眼が眩んだ愚者に過ぎないかと呆れられることを危惧し、その際の読者諸賢の冷酷な視線を少しでも和らげようとする、消極的な保身を目的として著述されたものである。審査に落ちた場合には、単なるほろ苦い想い出の破片として、雪融け水の奔流の彼方へ消え去るであろう。家計の足しなど見果てぬ夢、結局は単なる電気代の濫費という虚しい宿命の前に、情けなくも跪くことになるかも知れない。