サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

高等教育の無償化に関する個人的な懸念(或いは「妄想」)

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日、仕事を終えて家に帰り着き、遅い夕食を取りながらテレビの電源を入れて「報道ステーション」を眺めていると、安倍内閣が2020年の憲法改正実現を宣言したというニュースが偶々眼に留まりました。

 その報道の中で、懸案の憲法第九条に関する問題と併せて、高等教育の無償化が改憲の草案に織り込まれているという話が出ていました。

 此処に来て急に、聊か唐突な印象と共に「高等教育の無償化」の問題が改憲草案の中に浮上してきた理由に就いては、維新の会との協調姿勢を明確にして改憲に必要な議席を確保する為など、幾つかの推測が取り沙汰されていました。或いは、苦い薬を糖衣で包んで幼い子供に何とか呑み込ませようとするときのように、議論百出の九条改正を、高等教育無償化という甘ったるい理想と抱き合わせて、国民の賛成を(或いは妥協と譲歩を)引き出そうという策謀なのかも知れません。改憲そのものへの輿論心理的な抵抗感を減殺する為に、誰も容易には反発し難い御題目を持ち込んだのではないか、という意味です。

 この「高等教育の無償化」の具体的な中身や内訳に就いては、私が接した報道を通じては明示されていませんでした。そもそも、教育の無償化とは一体、どのような事態を指すのでしょうか?

 小中学校の義務教育に就いては既に、現行の日本国憲法において「無償」であるべきことが明瞭に規定されています。しかし、一人の就学児童に満足な教育の環境を整えてやる為に必要な出費の総てを、公費が負担してくれている訳ではありません。国公立の小中学校の授業料は徴収されませんが、様々な付帯費用(代表的なものとしては給食費)は国公立の場合でも保護者が負担する慣わしです。従って高等教育の無償化においても、同様の規定が盛り込まれるのではないかと推測されます。つまり国公立の高等学校、大学の授業料が徴収されなくなる、という改正に留まるのではないかと思います。

 無論、そのこと自体は好ましい変化です。特に経済的な苦境に立たされている家庭に育った子供が、国公立に限った話であったとしても、授業料の免除という措置の恩恵に与り、高等教育を享受する機会を断念せずに済むのならば、当事者やその保護者に限らず、社会全体にとっても有益な変化であると言い得ると、私は思います。しかし、現状において問題視されている「教育格差」の固定化と、それが齎す負の循環を是正する上では、国公立における高等教育の「授業料」無償化という国家の基本方針の改正が及ぼす効果は、恐らく限定的であらざるを得ないのではないでしょうか。経済的な理由から高等教育の享受を断念せざるを得ない子供たちがいなくなるということは、確かに素晴らしい改善ですが、現在の教育格差の拡大が「授業料を払えるかどうか」という基準だけで決定されている訳ではないことも、明白な事実です。

 最初に「教育無償化」の報道へ接したとき、私は深い考えも持たず、あらゆる高等教育機関が(つまり私立の学校法人も含めて)無償化されるということなのかと、早合点をしました。無論、本来「無償」である筈の義務教育の、決して理想的とは言い難い現状を踏まえて、冷静沈着に検討してみれば、そんな突拍子もない計画が俄かに持ち上がる筈もないことには直ぐに思い至ったのですが、敢えてそうした空想を突き詰めてみるのも一興です。つまり、国公立であろうと私立であろうと、あらゆる高等教育機関が「無償化」されることになった場合、何が起きるのか、という想像を膨らませてみるのです。

 そのとき、即座に思い浮かぶのは「私立の学校法人」の実質的な消滅が起こるのではないか、という空想です。あらゆる学校法人が授業料の徴収という財政的な基盤を失う訳ですから、それらの運営に要する費用は総て「税金」によって賄われることになります。そうした経済的基盤の自立性の消滅が、私立の学校法人の「思想的な自立性」の存続に対して、致命的な影響を及ぼすことは容易に想像されます。子供が親許から独立するに当たって「経済的な自立」が「精神的な自立」の重要な基盤となることは、誰にとっても身近な事実であると言えるでしょう。総ての学校が官営となり、学費の徴収によって運営の費用を自弁するという方法が憲法の威光の下に禁圧されてしまえば、あらゆる教育が「国家」の監督下に置かれるということになります。無論、今でも教育が国家による統制を受けていることは事実ですが、高等教育の厳格な無償化は、そうした傾向に拍車を掛けることになるでしょう。

 学校運営に必要な費用を国庫に請求することが原則となれば、総ての学校法人が政府(或いは財務省)の顔色を窺いながら、運営の方針を決定するようになります。言い換えれば、政府の意向に反するような種類の教育行為に関する費用請求は、極端な場合には「財源不足」という表向きの理由(実際、そう言われてしまえば、誰も逆らうことは出来ないでしょう)だけを突き付けられて、却下されるということになりかねません。こうなると、そもそも「教育機関」が時の政府に対して頑固に保持すべき思想的な自立性は、その立脚点を奪われ、教育者が懐くべき信念は交付金と引き換えに権力者たちへ売り渡されることになります。教育に対する支配が、最も根源的な「支配」の経路であることは、改めて論じるまでもない、厳然たる真理です。

 「学問の自由」は憲法によって保証された基本的な権利の一つであり、近代的な市民社会が培ってきた重要な理念の一つです。教育格差が叫ばれているときに、こういう言い方をするのは適切な態度ではないかも知れませんが、厳密な意味で総ての教育費用が公的に無償化されることは、結果的に「学問の自由」という人間の根源的な権利を毀損することに繋がります。人間は金の為に考えるのではなく、先ずは自分自身の為に頭を働かせなければなりません。そうした「独学」の精神を軽視して、勉学に付帯する費用を悉く第三者に(或いは「国家」に)依存することは、聊か逆説的なことですが、勉学の不可能性を齎す危険な要因となりかねないのです。

shimomurayoshiko氏への応答(私信のようなもの)

 以前、私は「ブギーポップ」という小説に就いて、次のような記事を投稿した。

saladboze.hatenablog.com

 この記事は、私の運営する零細ブログにおいては珍しく、ツイッターを通じて拡散され、幾つかの批判的なコメントを頂戴する仕儀と相成った。

saladboze.hatenablog.com

 上記のエントリーは、寄せられたネガティブなブックマークコメントに対する反駁を目的として作成されたものである。この記事の中で、私は頗る厭味ったらしい下品な筆致で、miruna氏とshimomurayoshiko氏に対する反論を試みた訳だが、半年ほど前に、shimomurayoshiko氏からブックマークコメントを通じて、事実関係の訂正に関する通知が届いた。

エゴサで今更気づいた。それid:shimomurayosikoじゃなくてid:srpglove(@srpglove)氏をこんな意見もあるらしいと紹介しただけで当方の意見ではないよ。一応id:miruna(@miruna)さんにもidコールしときます

 率直に言って、このコメントを拝見した当時、私は既に当該の問題に就いての関心も情熱も失っていたし、今更こうやって事実関係の訂正を告げられたところで、それに対応するのは時間と労力の無駄だ、という徒労と憤懣を禁じ得なかった。それに、たとえ他者の発言の引用だとしても、それをわざわざブックマークコメントとして提示した以上は、当初の発言者が誰であろうと同罪ではないか、という考えが、私に誠実な対応を控えさせ、黙殺に踏み切らせた。

 ところが先日、思い出したように、再びshimomurayoshiko氏から、当該のツイートは自分の発言ではないという趣旨を含んだ長文のコメントが、私のブログに寄せられたので、これ以上の黙殺乃至放置は、曲がりなりにもインターネットという公共の領域に手前勝手な駄文を垂れ流している者の道義に悖ると考え、こうして同氏に対する応答の文章を認めることに踏み切った次第である。

 少し長くなるが、同氏から頂戴したコメントを引用した上で、私なりの見解を述べたいと思う。

 エゴサしていたらこの記事を久しぶりに見つけました。ブコメでも言っているのですが、通知が行っていなかったようなので米欄にて再度失礼。それ、「shimomurayoshiko」ではなく「srpglove」さんですよ。
https://twitter.com/srpglove/status/690725329803972609
https://twitter.com/srpglove/status/690734301076291584
https://twitter.com/srpglove/status/690730947466006528
 まあ実際当方精神年齢は「中学生」より下手するともっと下だし「マスターベーション」をしている、というのは否定できませんが、私(「shimomurayoshiko」)が、こういう意見もあるみたいですね、と「srpglove」さんのツイートを紹介しただけであって、私の意見ではないですよ。引用・紹介している時点で同意しているも同然ではないか、と言われそうですが全面同意ではない、と言っておきたいところです。

 例えば「こういう文章を書いている自分を“大人”だと思っているようなタイプには、確かに向かない作品」とありますが、そこです。そうだろうか、と。そういうタイプだからこそ却って素見しで読んでいるうちに……という“大人”も実際ゼロではないでしょうし。
 入り口としては対象が好きな人からすればそういった来られ方は歓迎出来ないかもしれないけれど、沼にとらわれてしまえばその人は口では様々な照れ隠しにどぎつい言い方もするかもしれませんが、要は同好です。現在の貴方にとっては魅力的ではなく、対象が子供騙しに見え、ある程度成熟した大人なら「幼稚な人間」と思われたくないであろうからそんなものに熱中しない、こんなものに熱中して「大人でありたい」と思っていない大人の精神年齢を疑う、とお思いかもしれませんが、まあいいじゃないですか、誰が何をどのように好きでも。

 貴方がペパーミントを別格だと思うこと、今ではアカウントを消したみたいですが、貴方が貴方を大人であるとし同時に大人でありたいと思うことと、ファンタジー小説を書いていたこと、つまり書きたいと思ったから書いていたのであろうと思うのですが、そのことに私は別に矛盾を感じませんから批判はしませんし出来ませんよ。というのが全面同意ではなく引用紹介にすぎないかなあ、という具合です。ブコメは100字が限界だからと億劫がった私が悪いのですが。ファンタジーやSFを書くのが好きなのであれば、人はその「好き」に従っていいと思います。と同時に、貴方はある対象を嗜好する大人を、いい歳して、と思うのかもしれませんが、読む観る聴く演るのあるジャンルを「好き」であることを、まあこれは私のこどもっぽい言い分に過ぎないんですが、私は他人のそれを「おっ、そう? 別にいくつになっても好きなら好きでいていいんでないの?」としていきたいなあ、と。まとまりもなく失礼しました。

 最初に私の記事に寄せられた批判的な見解が、shimomurayoshiko氏御本人の発言であるかどうかという点に就いては、私にとってはそれほど重要な問題ではないが、同氏にとって、その事実関係の誤認が看過し難いものであるならば、私としても訂正を明記することに吝かではないので、先ほど「顔が見えないとき、人は幾らでも『残酷』になれる」の末尾に、その旨を追記した。事実関係の誤謬に就いては、このような対応で御了承願いたいと思う。その上で、shimomurayoshiko氏の今回のコメントに就いて検討する時間を持つことにする。

 冒頭の記事における私の発言が、一定の人々の反感を喚起したのは恐らく、私が「ブギーポップ」という小説を「幼稚な読み物」であると定義し、大人の鑑賞には堪えない、という言い方で批判したこと、そして副次的には、そのようなことを偉そうに言いながら、一方では幼稚なファンタジー小説の創作に手を染めているという「矛盾」(私自身は別に「矛盾」であるとは考えていないが、第三者の眼には、そのように見え得ることは理解している積りだ)を抱えていること、これらの二点に原因を有しているのではないかと思う。

 現在の貴方にとっては魅力的ではなく、対象が子供騙しに見え、ある程度成熟した大人なら「幼稚な人間」と思われたくないであろうからそんなものに熱中しない、こんなものに熱中して「大人でありたい」と思っていない大人の精神年齢を疑う、とお思いかもしれませんが、まあいいじゃないですか、誰が何をどのように好きでも。

 shimomurayoshiko氏による上記の意見に就いては、私としても全面的に頷くしかない。他人の趣味や嗜好に対して、どちらかと言えば冷ややかで、揶揄するような見方を以て報いるのは、加齢と共に多少は磨滅してきたとはいえ、昔からの私の悪癖の一つである。妻にも時折、そうした姿勢を注意されることがあるので、その点に就いては反省せねばならない。

 好きなものに就いては、素直に好きであればいいと考える寛容の精神、それは時折私という人間から欠落する、貴重な美質であり、その意味で、同氏の指摘と提案には、謹んで耳を傾けたいと思う。

 ただ、人間は様々な事物に就いて、それを好きだと語る以外の方法で、つまり自分が好きではないものに就いて批判的な見解を開陳するような方法で、何かを語ることも出来る。ブギーポップという一連の小説作品に就いて、私がそれを「大人の鑑賞には堪え得ない」ものだと感じ、それを具体的な言葉で開示することは、私の権利である。こういう言い方をすると、結局は己の偏狭な精神を肯定し、開き直っているように見えるかも知れないが、私は己の偏狭な精神をそのまま肯定しようとは思わないし、どんな放言も暴言も個人の自由だと声高に訴える意図も持ち合わせていない。少なくとも、批判を浴びせられたからと言って、直ちに感情的な暴発へ踏み切るような短絡は、恥ずべき行為だと考える程度には、社会化されている積りである。

 shimomurayoshiko氏の仰る通り、誰が何を好んでいようが構わないではないか、それを殊更に論うのは不毛なことではないか、というのは確かな事実であり、真理であると言えるだろう。だが、そうだとしても、誰かを徹底的に叩きのめしたり、異常な悪意を向けたりするのでない限りは、自分の感じたことや考えたことを率直に表明するのは正当な行為である。ブギーポップに関する私の見解が、唯一無二の「正答」であるなどと強弁する積りはない。しかし、それを表明する権利は私の掌中にあり、尚且つ総ての個人的な見解は常に「絶対的な相対性」の拘束を免かれることはないのだから、過剰な自主規制を積極的に選択しようとは思わない。

 こうやって書いてみると、一体何が問題なのか、そもそも「問題」らしきものが当初から存在していたのかさえ、曖昧に霞んでしまうような気がする。尚且つ、こんな漠然とした応答を、shimomurayoshiko氏が期待しているとも思えないので、余計に徒労感が募ってしまう。とりあえず、これで擱筆する。また何か御意見があれば、いつでも応答する積りである。

ドリトル先生の想い出

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 最近、一歳になった娘が、リビングに置いてある数冊の絵本に、以前よりも関心を示すようになりました。

 その日の気分で、関心を示す対象となる絵本は異なるのですが、気に入ったものは熱心にページを開いたり閉じたりして、念入りに見凝めています。読み聞かせをしてあげると、以前は直ぐに気を散らして絵本を無理に閉じたり跳ね除けたりしていたのですが、最近は大人しく耳を傾けている時間が長くなってきました。些細な変化ですが、親の立場にしてみれば、嬉しい成長です。尤も、未だに絵本の役割や価値を理解している訳ではないので、偶にページの隅っこを齧って呑み込んでしまうこともあります。

 そうやって少しずつ「書物」というものに関心を高めていくのだなと、幼い娘の姿を眺めつつ、ぼんやりと考えていました。振り返って、自分はどうだったのだろうと記憶を遡行しようにも、流石に一歳児の頃の想い出まで辿り着ける見込みは皆無です。もう少し大きくなって、或る程度は日本語という社会的な媒体を理解するようになってからの記憶の断片しか、脳裡には甦ってくれません。

 今でも子供の頃の読書経験として鮮明に覚えているのは、ヒュー・ロフティングの綴った有名な物語「ドリトル先生」シリーズのことです。井伏鱒二の翻訳で、岩波少年文庫に収められていた、この児童文学の古典を、小学校へ上がって間もない頃の私は熱心に読み耽っていました。作品との邂逅は、母親が当時加入していた大阪の生活協同組合に注文した「ドリトル先生アフリカゆき」が最初の契機でした。爾来、一冊を読み終える度に母親へ続刊を買ってくれるようにねだる日々が始まりました。やがて全巻読了も間近という段階を迎えた或るとき、父親が私の誕生日の御祝いに、残りの数冊を纏めて買ってきてくれて、胸が高鳴るほど嬉しかったのを覚えています。何の飾り気もない、無骨な茶色の紙袋に包まれた数冊の書物が、当時の私にとっては、全く新しい世界へ通じる扉の、貴重な鍵のように輝いて見えたのです。

 日清のカップヌードルを啜りながら、日曜日の午後に居間の食卓で読んだ「航海記」や、集中する為に夕食後の暗い子供部屋で、学習机の灯りだけを点けて読んだ「月からの使い」など、こうして振り返ってみると、読書の記憶と分かち難く結び付いた様々な想い出が、艫綱に縛られた小舟のように、眼裏へ切れ切れに浮かび上がってきます。それは私の少年時代の、郷愁を帯びた断片であり、大袈裟に言えば、生きることと読むことの切り離し難い連結を示す象徴のようなものなのです。

 何が幸福で、何が不幸なのか、その境界線を明確に見極めたり、定義したりすることは、時々とても困難な作業のように感じられるものです。辛く哀しい記憶さえ、纏まった日月が過ぎ去った後では、その苦しさゆえに却って懐かしく、切なく、甘美に感じられることもあります。少年時代の私は、必ずしも自分が幸福な人間であるとは考えていませんでした。小学校へ上がったばかりの頃は、幼稚園の頃から通っていた公文式の効果に助けられて、科目を問わず、どのテストでも満点を取ることが当たり前で、先生や周囲の保護者のみならず、純朴な同級生たちからも讃嘆の言葉を浴びせられることが日常でしたが、徐々に、自分は勉強以外に取り柄のない、退屈な人間なのではないか、という不安に囚われることが多くなっていきました。しかも、本来の私は決して熱心な勉強家という性格でもなかったので、公文式の貯金を使い果たすと、唯一の取り柄である筈の学校の成績さえ、下降線を辿るようになりました。私は、自分にどんな価値があるのか、それを確かめる術も、それを信じる為の根拠も、共に見失ってしまったのです。それは深刻な精神的苦痛を、少年であった私の魂に鋭く刻み込みました。

 精神分析で知られるフロイトの学説に、人間は何らかの失錯を犯すと、それを合理化し、正当化する為に、敢えて同様の失錯を重ねようとする、という奇妙な悪弊に関する認識が語られていたような記憶があります。私は己の学習成績の下降を正当化しようと試みるかのように、敢えて意図的に勉学から顔を背けるようになりました。勉強熱心であるということは即ち、退屈な人間であるということだ、という如何にも思春期の少年が案出しそうな短絡的命題が、私の精神を呪縛したのです。結局、その倒錯的な反動はいつまでも痼疾のように消え残り、遂には大学を一年で中退する仕儀と相成りました。

 社会の敷いた標準的なレールから逸脱したいという執拗な性向が、少年期の反動だけを理由に説明し得るものなのか、未だに私は明確な裁定を下すことが出来ずにいます。大人になってからは寧ろ、そういう逸脱への欲望や親和性が、生きていく上で悩みの種となりました。今でも心の奥底、或いは片隅には、尤もらしい正義や常識に反発しようとする幼稚な蛮勇が息衝いていることを感じることがあります。

 随分と表題から乖離した記事になってしまいましたが、今夜はこの辺で失礼致します。

 

「ドリトル先生ものがたり」全13冊セット 美装ケース入り (岩波少年文庫)

「ドリトル先生ものがたり」全13冊セット 美装ケース入り (岩波少年文庫)

 

 

「畸形」としての物語 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 2

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の中巻を読み終えたので、覚書を認めて読者諸賢の御高覧を賜りたいと思います。

 改めて思い知ったことですが、この「白鯨」という小説において、作者のハーマン・メルヴィルは「筋書き」というものに殆ど誠実な関心を懐いていません。恐らく物語の骨格だけを取り出して、過不足のない文章表現だけを塗して作品を仕上げれば、岩波文庫で全三冊もの分厚い分量に達することも、あれだけ夥しい数の訳注を附与することも、要らぬ手間だったに違いありません。しかし、そうやって合理的なブラッシュアップを施してしまえば、この「白鯨」という異様な小説の内奥に漲る独自の生命力が涸渇してしまうであろうことも、一つの重要な事実として認めざるを得ません。

 或る一連の出来事を簡潔に、分かり易く物語るという技術が、小説の芸術的価値を左右する唯一の規矩として信奉されている世界においては、メルヴィルの「白鯨」は紛れもない失敗作であり、不要な饒舌をたっぷりと吸い込んだ、不可解な情熱の産物として蔑まれることでしょう。実際、私が読み終えたばかりの中巻において、物語が具体的な前進を遂げていると言える箇所は殆ど皆無に等しいのです。様々な挿話が語られ、語り手の大仰な演説と勿体振った考察が入り乱れるばかりで、物語は一向に核心へ迫っていこうとはしません。物語の緻密で可憐な筋書きを味わうことが、読書の醍醐味だと信じて疑わない素朴な人々にとっては、メルヴィルの小説作法は噴飯物であるに違いありません。

 けれど、そのような性質の批判が「小説」という観念に対する固陋な偏見から形成されていることに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも「小説」が「物語」に対する忠実な使徒ではない事実を捉えて、それを厳しく論難するのは筋違いであり、そうした見方は「小説」の本質的な役割に対する謬見に基づいています。「小説」は「物語」に対する批判として生まれ、決まり切った構造性を揶揄することを自らの使命として担っています。その意味で「白鯨」の奇妙な観念的饒舌は寧ろ、この作品が典型的な「小説」であることを立証する根拠として受け止められるべきなのです。

 メルヴィルの「白鯨」の説話論的な構造だけを取り上げれば、或いはその基本的な物語の枠組みや舞台設定だけを眺めれば、この小説が一種の明快な「海洋冒険小説」の類として成立することは少しも困難な所業ではありません。作者さえ、その気になれば、幾らでも「白鯨」をモービィ・ディックとエイハブ船長との宿命の対決という構図に還元して、そこに緊密な形式を附与することは幾らでも可能なのです。しかし、それは「白鯨」を通俗的な物語の領域へ押し流す行為でしかなく、この作品の歴史的な特権性の依拠する基盤を破壊する選択に他ならないと言い得るでしょう。

 単なる海洋冒険小説のフォーマットに回収されることのない異様な個性、それがメルヴィルの紡ぎ出す縦横無尽の「饒舌」によって支えられ、生み出されていることは明瞭な事実です。それが「白鯨」に唯一無二の特異性を与える根拠として作用しているのです。そもそも、メルヴィルは物語という一種の時間的な継起に基づくシステムに対して、最低限の敬意しか支払っていません。彼にとって重要なのは筋書きではなく、飽く迄も「鯨」という崇高で特権的な主題なのです。その主題を浮き上がらせ、栄光によって包摂する為に、彼はあらゆる種類の表現を試み、あらゆる典籍を引用します。彼の該博な知識は総て「鯨」という崇高な主題に向かって捧げられ、集約されています。

 或る特定の主題によって物語の総体を、若しくは作品の総体を支配するという手法は、十九世紀的な「リアリズム」の理念とは相性の悪い文学的流儀です。この作品が、作者の生前には社会的な関心を集めず、作者の経済的な困苦を救済する方途にも成り得なかったのは、当時の社会が「リアリズム」という理念への素朴で全面的な信頼を生き抜いていたからではないかと考えられます。ロマン主義に対する種々の「反省」が、リアリズムへの意識を齎したのだとすれば(このような図式化が学術的な有効性を備えているのかどうかは、市井の凡人である私には判断しかねます)、メルヴィルの投下した「白鯨」に充満する観念的で野放図な饒舌が、世間の歓心を購えずに遠く見放されてしまったのも必然的な結果であったと言えるでしょう。良くも悪くも、この「白鯨」はリアリズムという規矩に対する素朴な信仰を踏み躙ってしまうような性質を備えています。

 けれど、そもそも「リアリズム」とは何なのか、という根源的な問いに立ち戻るならば、前述したような図式化の妥当性自体が疑わしく感じられることになります。或る意味では、メルヴィルの「白鯨」には身も蓋もない科学的記述が、甘ったるいロマンティシズムを蹂躙するようなリアリズムが、豊富に含まれているとも言えるのです。

 「白鯨」という小説は、捕鯨の世界に対する飽くなき情熱と、何よりも「鯨」という崇高で特異な存在に対する異様な鑽仰の念に満たされています。けれど、そのような情熱を単なる「鯨」へのロマンティシズムと解釈するには、作者の饒舌は余りにも節操を欠いているように見えます。寧ろ作者は、リアリズム全盛の時代に敢えて「捕鯨」の荒漠とした現実に神話的なロマンティシズムの風合いを与えることで、一つの皮肉な面白さを生み出そうと企てたのではないでしょうか。何もかもを尤もらしい「写実」の枠組みに回収しようとする十九世紀の精神に抵抗すること、それがメルヴィルの文学的な野心の目指す「果実」であり「鯨油」だったのではないでしょうか。

 

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

 

 

「まず読んでみる」という蛮勇に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 最近、岩波文庫に収められたハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読んでいます。最初に「白鯨」という作品に触れたのは恐らく小学生の頃で、両親が同じ団地の知り合いから譲り受けた大判の「世界文学全集」(確か講談社の発行だったと記憶しています)の一冊として、私は初めて書名と作者名を認知しました。或る寒い晩、蒲団に潜り込んで腹這いになって繙いたところ、滅法面白かったのを覚えています。しかし、面白かった割には、忍耐力の足りなかった少年の私は続きを読まず、ピークオッド号の出帆よりも遥かに手前の段階で、微かな記憶を辿るならば確かイシュメールがクイークェグと友誼を結んだ辺りで、それっきり投げ出してしまったのでした。

 昨春、津田沼の駅前にある書店で偶々「白鯨」の文庫本を手に取り、具体的な動機が何だったのかは思い出せませんが、改めて二十年越しに再挑戦してみようと発心して、購入に至りました。そして頑張って読み始めたのですが、結局は根気が続かず、情け無くも途中で挫折してしまいました。従って今回の挑戦は、三度目の正直ということになります。

 「白鯨」という小説は、必ずしも私にとって読み易い作品ではありません。丁寧な補注を附した翻訳であるとはいえ、メルヴィルの自由闊達な文章に鏤められた豊饒な知識や、独特の大袈裟なユーモアを理解することは、現代に生きる平凡な日本人に過ぎない私にとっては決して容易な所業ではないのです。描かれている対象自体がそもそも「捕鯨」という私自身の属する日常生活とは縁遠い世界なので、言葉そのものの意味を拾い集めるだけでは、メルヴィルの提示するイメージの概略を把握することが困難であることも、大きな要因の一つです。

 従って、単なる表層的な娯楽への関心だけを心の支えにして、この「白鯨」というアメリカ文学の古典へ挑みかかるのは、ティーシャツとジーンズにサンダル履きで雪山への登攀を試みるような暴挙だと言えます。相応の仕度と決意がなければ、途中で遭難して凍りついた雪達磨に成り果てることは眼に見えています。幸いにして読書という営為に不慮の死の危険が付き纏う見込みは小さいですが、生半可な覚悟で着手して、済崩しにページを捲る指先に停止を命じるのは、とても勿体ない話であると思います。

 けれど、重装備を誂えることに意識を向け過ぎて、いつまでも畳の上の水練のような真似に時間と労力を費やすのも馬鹿げた話でしょう。「白鯨」を正しく読みこなす為に英語を操れる訓練をしよう、英語を完璧に会得してから「白鯨」の原書を読むことにしよう、などと壮大な野望を描き始めると、準備が整う前に寿命が燃え尽きてしまう虞さえ生じます。準備は大事ですが、それは最終的な目的ではなく、飽く迄も手段の範疇を超えるものではありません。

 これら二つの矛盾したメッセージは、一つの道筋を明々と照らし出す為の地均しのようなものです。自分の少年時代の記憶を呼び起こしてみると、その道筋の輪郭や正体は一層鮮明に浮かび上がります。子供の頃の私は、色々な本を読むに当たって、巧く理解出来ない箇所に差し掛かると、いい加減に読み飛ばすことを懼れませんでした。恥知らずと言えば全くその通りですが、言い換えれば、それは「蛮勇」の為せる業であり、同時に「目的」と「手段」のヒエラルキーに対する素直な理解の賜物でもありました。重要なのは一冊の本を最後まで読み通すことであり、その概略を把握し、骨格を理解することです。枝葉末節に就いては後日、徐々に足場を固めて取り組んでいけばいいのです。読めない漢字があるのならば、差し当たり字義を推測する程度に留め、後に字引へ訊ねてみればいいのです。そもそも「正しい読解」という奇怪な理念、教科書的な謬見に過度に引き摺られて、繁文縟礼の虜囚と化す必要など皆無でしょう。煎じ詰めれば読書とは即ち「個人的な体験」(©大江健三郎)に過ぎないのですから、崇高な真理を目指して哲学的な考究に励んだり、苛酷な宗教的鍛錬に打ち込んだりする筋合いは、当初から存在していないのです。

 これは読書に限った話ではありませんが、人間は「完璧な理解」を望む余り、あらゆる「誤解」への過剰な怯えに苛まれて、取り組むこと自体を諦めるという悪癖に囚われがちな生き物です。一通り読んだ積りでも、自分の眼光は一向に紙背に徹することが出来ていないという無力感は、前向きな再読への呼び水となるならば有益ですが、抛棄や挫折の要因として働くならば厄介な精神的癌細胞に他ならないと言えるでしょう。そんな絶望に囚われて総身を竦ませるくらいならば、夏物の軽装で雪山へ踏み込む愚かしい「蛮勇」を召喚した方が遙かに建設的であり、自身の成長にも寄与するでしょう。

 そうした「蛮勇」を呼び覚まし、己の魂魄を奮い立たせることによって、敢えて私は自分の知らない「異界」へ通じる扉を辛抱強く押し開いていきたいと考えています。移り気な私の計画ですから実現するかどうか分かりませんが、この「白鯨」を読了した暁には、岩波文庫に収録されている作品を中心に「古典文学への旅路」に踏み出そうとも考えています。「まず読んでみる」という勇敢な心意気を常に携えて、進んでいきたいというのが、最近の私の率直な心境です。

異様な饒舌と「逸脱」への熱量 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの有名な長篇小説「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の上巻を読み終えたので、感想の断片を書き遺しておきたいと思います。実は昨年の春にも、この「白鯨」という難攻不落の叙事詩に挑戦して無惨にも挫折したという経緯があり、今回はエイハブ船長と同じく「復讐」ということになります。

 この小説は、モービィ・ディックという渾名で呼ばれる獰猛な白鯨と、その白鯨に片脚を咬み砕かれて義足の身となった執念深いエイハブ船長との対決を、語り手であるイシュメールの見聞を通じて描き出すという体裁に覆われています。しかし、一読すれば明らかなように、作者のメルヴィルは決して物語の単線的な構成や描写に、職人的な精巧な手腕を発揮しようとは考えていません。彼は白鯨とエイハブの死闘の物語を成る可く簡明に、活き活きと描写して、丁寧に包装された贈り物のように読者の手許へ届けようなどと、如何にも職業的な殊勝さや誠実さに基づいて、ペンを走らせたりタイプライターをガタガタと言わせたりしようとは思っていないのです。

 彼の文章は洗練や省略とは無縁であり、一つ一つの言葉を、記述されるべき対象への忠実な召使として使役することに熱烈な関心を寄せることがありません。彼はそもそも、一般的な小説の体裁や不文律のようなものにさえ、余り良心的な態度を示してはいないのです。過不足のない情景描写、過不足のない人物表現、過不足のない筋書きの構成と展開、こういったものは、メルヴィルにとっては重要な理念ではなかったように感じられます。若しも彼が精密な小説を書くことに血道を上げる技巧的な作家であったとしたならば、こんな途方もない破格の作品を仕上げることは有り得なかったでしょう。

 だとしたら、彼は一体如何なる意図に基づいて、こんな奇妙な書き方を選んだのでしょうか? 或いは「奇妙な書き方」だと感じるのは私の側の偏見に過ぎず、この作品が執筆された当時のアメリカ社会では、こういう書き方は少しも破格の流儀ではなかったのでしょうか? いや、そんなことはない、当時も「白鯨」は破格の、或いは異様な作品として受け止められていたのではないでしょうか。生前のメルヴィルが、今日のような「伝説の文豪」的待遇とは無縁であったことは、広く知られた事実です。少なくとも、この「白鯨」という小説は、読者の関心や喜怒哀楽に成る可く直接的に訴え掛けようとする商業的な方針とは相容れない性質を多量に含んでいます。

 端的に言って、彼の文章の特徴は「冗長であること」の一語に尽きるかと思います。大袈裟な措辞、持って回った比喩、勿体振った冗談、本線からの甚しい逸脱、こうした要素がメルヴィルの書き遺した文章には色濃く浸透しています。無論、こうした類の文章を愉しむ読者が地上に皆無であるとは言いませんし、寧ろ決して少なくない数の人間が後世、彼の文章に愛着を示すようになったからこそ、今ではメルヴィルの「白鯨」はアメリカ文学の古典的傑作として認められている訳です。しかし、これがあらゆる階層、あらゆる職業や門地、あらゆる文化的背景に属する人々の精神に等しく結び付き得る作品であると看做すには、強引な弁論術の技巧が要求されることになるでしょう。

 言い換えれば、メルヴィルの「白鯨」は、そこにどれだけ多くの粗野な冗談や猥褻な表現を含んでいたとしても、商業的な観点から眺めれば全く大衆的ではなく、幅広い立場の読者の関心を惹起するものではないということです。寧ろ描き出される対象は徹頭徹尾「捕鯨」を巡る種々のトリヴィアルな情報に概ね限定されており、多くの読者にとって、それは「特殊な異郷」の文物に過ぎません。つまり、幅広い立場の人々の「共感」を勝ち得る為には、題材が偏っている上に、語り口も余りに熱狂的で、素直に受け容れ難い雰囲気を身に帯びているのです。

 けれど、そうした「白鯨」の性質は商業的な失錯であったとしても、直ちに芸術的な瑕疵であるとは言えません。メルヴィルの異様な饒舌さと、物語からの「逸脱」に対する並外れた「熱量」は、まさしく小説的な叡智の賜物であると言えます。脱線すること、様々な角度から眺めること、物語の直線的な起承転結を否定すること、これらの天邪鬼めいた要素は総て、所謂「小説」の本領を構成するものです。言い換えれば、小説において私たちが味わい、愉しむべきは、記述されるべき内容としての「物語」そのものではなく、飽く迄もその「物語」を紡ぎ出す上での表現や構成の「新奇さ」なのです。無論、そうした認識が直ちに「主題」の無能な役回りを認めるような態度へ発展する訳ではありません。「白鯨」という小説が「捕鯨」という題材や、エイハブという人物の特異な造形と無関係に存立し、その芸術的価値を発揮しているなどと強弁する積りもありません。

 重要なのは、小説というものは本来、常に「奇妙」であるべきだということです。「白鯨」の奇妙さはそのまま「白鯨」が優れた小説であることの証です。いや、こういう言い方は不適切の謗りを免かれないでしょう。そもそも「小説」の価値は技巧的な優劣という尺度によっては推し量り難いものだからです。「白鯨」が客観的に優れた文学作品であるという認定は、この小説に固有の「価値」とは無関係な査定であると言えます。小説の読解は常に、その作品に固有の「新奇性」を賞味する為の審美的な経験です。そして「白鯨」という小説は「捕鯨」という特殊な世界を敢えて「神話的な世界」のように仰々しく飾り立て、詳細で情熱的な解説を施すという「新奇性」を発揮することで、単なる娯楽性を遙かに飛び越えた「奇怪な経験」を、読者である私たちに齎してくれるのです。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

 

「小説」と「人事」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 偶には趣向と気分を変えて、敬体の文章で記事を書いてみたいと思います。

 特に深い意味はありません。単なる気分の揺らぎの問題です。

 気持ちとしては、演壇に登って一席弁じているような感覚です。

 

 御覧の通り、「小説と人事」という表題を掲げて、この記事を書き起こした訳ですが、この場合の「人事」という言葉は、企業などの法人で一般的に用いられる狭義の「人事」を指すのではなく、もっと広範な領域を、曖昧且つ多義的に指していると捉えて頂きたいと思います。

 小説というジャンルは、所謂「文学」のサブカテゴリーとして位置付けられ、詩歌や戯曲などよりも需要の大きい様式として幅広く世間に流通している訳ですが、そこには何となく歴史的に培われてきた暗黙の規律のようなものがあります。しかし、多くの作家や読者が繰り返し訴えてきたように、原則として小説は無際限に自由なジャンルです。何となく培われてきた暗黙の規律を存分に踏み躙っても、小説として個別の作品を成立させることは充分に可能です。例えば、極めて一般的で卑俗な例を挙げれば、多くの読者は(或いは作家も)、小説には必ず「風景描写」のようなものが必要であると信じ込んでいるように見えます。虚構の世界へ読者の想像力と認識力を導き入れるに当たって、架空の世界の事物や風景に関する具体的な表現を、一種の手懸りのように作品の内側へ刻みつけ、仕込んでおくことは、確かに重要な意義を有する作業であるには違いありません。ですが、それが小説を成立させる為の絶対的な要件であり、それを省けば直ちにその作品は「小説」の肩書を名乗る権利を喪失してしまうのかと問われれば、答えは「否」ということになるでしょう。

 描写ではなく、徹底的に「説明」だけで構成された小説作品が存在する可能性は皆無ではありませんし、私が無知ゆえに咄嗟に具体的な実例を思い浮かべられないだけで、それは既に存在しているのかも知れません。少なくとも、所謂「リアリズム」(=写実主義)の理念が、常に絶対的な規矩として信奉されなければならないという文学的な価値観は、既にその絶対的な威信を手放した筈です。

 小説が小説である所以、つまり「小説性」とは何かという古くて新しい問題には、多面的な解釈の糸口が備わっています。その一つの切り口を、次のような命題に纏めることが可能であると私は信じます。

 「小説は、必ず人間に就いて書かれている芸術的様式である」

 直ちに反論が寄せられることは想定の範囲内です。世の中には、動物を主役に据えた小説(それは多くの場合、児童文学の範疇に含まれていますが、例えばオーウェルの「動物農場」のように、必ずしも子供向けとは言い難い毒気を孕んだものも存在しています。つまり、それらの作品を単なるメルヘンとして斬り捨てるべきではないということです。因みに、私は児童文学と呼ばれる作品の芸術的価値を疑っている訳ではありません)が無数に存在しており、もっと実験的な作品としては、自然現象や無生物に語らせている作品も存在しているではないか、という反駁は、恐らく誰の頭にも即座に浮かび上がる簡明な違和感であると言えるでしょう。確かに、人間以外の存在を主役、脇役に据えた小説は世界中に氾濫しています。しかし、それらの作品が、人間ではないものを擬人化せずに小説の中の「想像的自我」として描いた実例が、かつて存在したでしょうか? 無学な私には、一つの実例さえ心当たりがありません。

 小説の中に登場する何らかの「想像的自我」=キャラクターが、人間として設定されているかどうかという問題は、極めて表層的な意義しか含んでいないことに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも小説に登場するキャラクターが、経験的な事実に取材していようといまいと、本質的に架空の存在であることを考慮すれば、そのキャラクターが人間であるか、妖怪であるか、紙切れや石ころであるか、そんなことは重要な問題ではありません。また、仮に擬人化されることのないキャラクターが登場するとしても、その非人格的存在だけで小説の時空が隅々まで埋め尽くされる見込みは、皆無に等しいと言い切って差し支えないのではないでしょうか。

 どんな小説も、煎じ詰めれば「人間」に就いて語っているという原理は、いわば「小説性」の本質に関わる問題です。小説というジャンルは常に、人間という奇怪な生物に対する烈々たる関心に貫かれており、たとえどんな事物を題材に選んだとしても、そこには必ず「人間の実存」に対する深甚な探究心が介在しています。それは、絵画や写真、彫刻、音楽といった芸術的分野とは根本的に異質な特徴であると私は思います。小説と同じく、極めて濃厚な「物語」の成分を有するジャンルであると看做されている映画においてさえ、例えば動物の生態に関する純粋なドキュメンタリーとして構成される余地を充分に保持しています。しかし、小説がそのような純粋な科学的記述の塊として綴られたとき、そこに「小説性」の成分を見出すことは不可能に等しいでしょう。それはドキュメンタリー、或いは客観的で中立的な記述の束であって、小説が小説であることの根源的な条件を満たすものであるとは言えません。

 何故、小説という芸術的事象は必ず「人事」を巡って生起するのでしょうか。それは小説という様式がそもそも、私たちの絶えざる関心事である「人間」の実存的な側面に光を投げ掛ける為に発明された媒体である為だと、差し当たって仮定することは可能であると思います。小説は例えば、人間を超越した存在としての「神々」や「英雄」に就いての夥しい物語、つまり神話や民族的な伝承、種々の叙事詩に対するシニックな批判的視座を含んでいます。それは決して小説が「神々」や「英雄」に対する素朴な敬意を軽蔑している為に形成される特質ではありません。重要なのは、小説という様式があらゆる題材を「人格化」した状態で捉えようとする根源的な性向を孕んでいるという事実に眼を向けることです。もっと一般的な表現を用いるならば、小説家は常に森羅万象を「擬人化」して解釈しようと試み続けている人種なのです。

 無論、それは小説家が動植物や時には無生物に対して「人間らしい物言いを演じさせる」ことに強い関心を懐いているという意味ではありません。総ての小説家が、一種の「寓話の語り手」であると強弁したい訳でもありません。私が言いたいのは、小説という西欧近代の発端において生み出された文学的様式が、あらゆる対象を「人間」との関わり合いにおいて捉えようとする性質を不可避的に孕んでいるという素朴な事実です。小説家は決して純粋で客観的な「存在」に本質的な関心を示そうとは企てません。様々な風変わりな衣裳を身に纏っていたとしても、小説家の指先が紡ぎ出すのは常に「人間」の可能的な側面であり、実存の多様な諸形態なのです。