サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

物書きのための苦い良薬 ショウペンハウエル「読書について」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 ドイツの哲学者ショウペンハウエルの『読書について 他二篇』(岩波文庫・斎藤忍随訳)を読み終えましたので、ここに感想を記しておきます。

 とはいえ、この薄い一冊の書物は、一度通読したらそれで済むというものではなく、絶えず座右に置いて定期的にページを捲り、初心に帰る為の便として用いるべき性格の文章であると言うべきでしょう。この書物に刻み込まれた内容は、本を読んだり文章を書いたりすることに関わりを持つ総ての人々にとって、重要な示唆と教訓を豊饒に含んでいるからです。

 ショウペンハウエルが、この本に収められた三篇の文章を認めたのは、今から150年以上も昔のことですが、月並みな表現を用いるならば、これらの文章は少しも古びていません。彼がドイツの文筆家たちに対して下した鉄鎚のような批判はそのまま、情報化社会と呼ばれる現代社会の実情に対しても見事に当て嵌まります。それはショウペンハウエルが預言者だったからではなく、その思索が事物の本質的な部分へ到達するほどの鋭さと深さを有していたことの結果です。

 その辛辣な批評的文章を読むと、思わず冷汗が流れそうになります。「著作と文体」と題された一篇から、具体的な事例を挙げてみます。

 第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。彼らの特徴は次のとおりである。彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくりひろげて行く。また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々はただちに、彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく。我々の愛読するもっともすぐれた著作家にさえもこのような例を見いだすことがある。たとえば部分的にはレッシングの演劇論やジャン・パウルのいく篇かの小説でさえそうである。このような事実を認めたならばただちにその本を捨てるべきである。時間は貴重である。しかしおよそ著者が原稿用紙をうずめるために執筆を開始すれば、それだけでただちに完全に読者をあざむくことになる。他人に伝達すべきものがあるから筆をとるのであると詐称することになるからである。報酬と著作権侵害禁止の二つは文学を破滅させる基である。(『読書について 他二篇』(岩波文庫 p.26)

 余りにも苛烈であるがゆえに、ほんのりとしたユーモアさえ感じさせる、このショウペンハウエルの清々しい批判に、屈折した迂遠な文章を好んで書く私などは、精神的な苦痛さえ覚えてしまいます。しかし、作者の筆鋒は苛烈であるのみならず、極めて明快で犀利である為、感情的な反駁を試みようにも、その手立てが思い浮かびません。引き攣った笑顔で、その御高説を拝聴する以外に、選択すべき途が見つからないのです。それほどショウペンハウエルの文章には、本質的で普遍的な「思索」の精髄が濃密に含まれています。

 本を読んだり、文章を書いたりすることは、教養主義的な観点から、実に素晴らしい営為であると喧伝されることが少なくありません。しかしショウペンハウエルは、そのような尤もらしい俗論に対して、無遠慮なほどに直截な攻撃を加え、その愚昧な観念に痛烈な殴打を授けます。

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。(『読書について 他二篇』(岩波文庫 pp.127-128)

 手垢に塗れた表現であることを承知の上で言わせてもらいますが、ショウペンハウエルが一貫して主張しているのは「自分の頭で考えること」の重要性です。読書においても執筆においても、彼が執拗に糾弾の矛先を向けるのは「思索の不在」という忌まわしい状態に対してなのです。ただ本を読むだけでは何も考えたことにならず、要領を得ない長文を幾ら頑張って書き上げたところで、それは思索の欠如を意味することにしかならないと、彼は熱心に訴えているのです。読むことも書くことも、考える為の手段に過ぎないと、ショウペンハウエルは信じているのでしょう。

 仮にも文筆に関心を寄せる者ならば、この書物に記された思想を避けて通ることは不可能であると言えるでしょう。尤も、この苛烈で清廉な教えを守り通すことは、誰にとっても容易な業ではありません。しかし、重要な指針として時折、この書物を読み返すことは誰にとっても有意義な時間であると思います。

 最後に、これは私の曲解に過ぎないのですが、ショウペンハウエルの徹底して辛辣な筆致は若しかすると、諧謔の一種なのではないでしょうか? 毒舌を揮いながら、意地の悪い哄笑を炸裂させる作者の表情が眼裏に浮かぶような気がするのは、私だけでしょうか?

 以上、サラダ坊主でした。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

「鯨」に捧げられた「聖書」のごとく ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 3

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 先日、遂にハーマン・メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)下巻を読み終えましたので、ここに感想の断片を遺しておきたいと思います。

 上巻と中巻に関する感想文の記事で触れた内容と重複する部分も出て来るかも知れませんが、御了承下さい。

 メルヴィルの「白鯨」には、古今東西の文献から引かれた故事や学識が無数に象嵌されています。別けても「聖書」からの引用は実に夥しく、この書物キリスト教社会の風土で育まれた作品であることを如実に示しています。

 キリスト教に関する知識も、聖書を繙いた経験も持たない私には、それらの引用の意味、或いは本歌取りの面白さを直ちに把握し、理解することが出来ないのが残念です。

 この小説は、キリスト教聖典ギリシア・ローマ時代の古典から引かれた無数の故事と共に、鯨に関する様々な雑学的知識の象嵌によって構成されています。それがメルヴィルの語り口に途方もない熱量を附与する一つの原因として働いている訳ですが、そうした引用の技術を丸ごと削除してしまったとき、この作品が極めて平明で単純な物語に変貌してしまうであろうことは、容易に想像がつきます。

 筋書きだけを純粋に抽出してみるならば、この「白鯨」という作品の描き出す物語の構造は極めて簡明な代物です。モービィ・ディックとエイハブ船長という二つの異様な存在の相剋を主軸に、一艘の捕鯨船が辿る悲劇的な末路を描いた物語、という具合に要約するのは簡単な作業です。しかし、その物語的な構造だけを淡々と活写するだけならば、岩波文庫で三冊という長大な分量を費やす必要性は生じなかった筈だと言い得るでしょう。言い換えれば、この単純な筋書きそのものに「白鯨」という作品に固有の文学的生命力の根源が宿っている訳ではないということです。

 この作品は、エイハブとモービィ・ディックという宿怨によって結び付けられた二個の存在の対決を描いていますが、実際に両者の対決の場面に対して割り当てられたページの分量は極めて僅少であり、終盤の三章だけに過ぎません。長短は様々であるとはいえ、総計で百を超える章節を含んでいる「白鯨」において、その比率は極めて小さいと言って差し支えないのではないでしょうか。

 物語を駆動する重要な核心と看做すべきモービィ・ディックとエイハブの相剋に僅少な枚数しか割かない代わりに、作者は夥しい数の「鯨」に関する知識を、縦横無尽に鏤めて、その為に「白鯨」という作品の物理的な規模は過剰な膨張を示しています。逆説的な言い方ですが、メルヴィルは白鯨とエイハブとの対決という物語的な「絶頂」に対して、然したる関心は有していなかったのではないでしょうか。飽く迄も私見ですが、「白鯨」に対する強烈な「畏怖」や「憎悪」に関する厖大な記述とは対蹠的に、実際に白鯨そのものの登場する場面は僅かであり、エイハブの死は極めて簡潔な仕方で提示されるに過ぎません。作者が主要な関心を持っていたのは、飽く迄も一つの崇高なイデアとしての「鯨」(The Whale)の現実的な諸相を余さず書き尽くすことであって、その野望の重要性に比べれば、「白鯨」という作品を構成する物語の骨格は、作者にとっては単なる体裁、表層的な飾りのようなものに過ぎなかったのではないかと、疑いたくなるほどです。

 言い換えれば、この作品は「鯨」に関する非学術的な論文のようなものであり、そもそも「小説」という文学的様式に対する忠誠など持ち合わせていないのです。或いは、次のように言えるかもしれません。作者は飽く迄も「鯨」という特権的な主題に、あらゆる角度から照明を当てて、その現実的な諸相を語り尽くすことに全身全霊を捧げており、その目的を実現する為に、あらゆる言語的な技法を駆使することも躊躇わなかった、その結果として「白鯨」という作品が従来の文学的な区分や範疇から逸脱してしまうことにも、特別な関心を払わなかったのだ、と。

 その意味で、メルヴィルは「鯨」という崇高な生物と、それに附随する「捕鯨」の世界に就いての「聖書」のようなものを創造し、編纂しようとしたのではないかと、私は考えています。「白鯨」の文中には夥しい数の「聖書」からの引用が刺繍のように埋め込まれていますが、豊饒な挿話や故事を含み、多様な人物の多様な言行が記録されている「聖書」の内容が、悉く「神」という特権的な主題に向けて捧げられているように、メルヴィルの「白鯨」もまた、その総ての細部に至るまで「鯨」という特権的な主題に向かって差し出されています。そして「神」を語る為に「聖書」が多彩な編集的工夫を凝らし、斬新な形式の開発に励んでいるように、メルヴィルの「白鯨」も、八方破れの「逸脱」や「混淆」に傾斜してでも「鯨」の諸相を全面的に浮かび上がらせることに注力しているのです。

 

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

 

 

私たちは、誰も答えを知らぬままに生きている

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 世間はゴールデンウィーク真っ盛りですが、小売業の陣頭に立つ私は本日も仕事で、家に帰り着いたのは午後11時近くでした。

 昨春の人事異動で、家が幕張、職場が千葉という関係性になって以来、10時過ぎには帰宅するのが慣例となっていますが、時には止むを得ない事情で職場を出るのが遅くなることもあります。まさしく、今日がそのような事例に当て嵌まります。

 閉店作業を終えて、部下の社員と商品の発注に関する話をしているとき、一人の大学生のアルバイトスタッフ(仮にYさんとしておきましょう)が不意に、私たちに報告したいことがあると言い出しました。

 彼女は就職活動に邁進する大学四年生の女の子で、嬉しいことに私の勤めている会社を志望先の一つに選び、三次選考まで進んでいました。ところが、残念なことに内定には至らず、折角応援してもらったのに申し訳ないというのが、その報告の要旨でした。

 彼女は飽く迄もアルバイトながら、実に眩しい笑顔の持ち主で、呼び込みや試食も得意で、まさしく私の勤める会社には打ってつけの人材であったので、私も部下も驚き、人事部の眼力の劣悪さを慨嘆したのですが、彼女曰く、選考が進むうちに「この会社は、私の望む場所ではないかも」という疑念に囚われるようになったらしく、面接ではその内なる迷いを見透かされたのではないか、それが選考に落ちた原因ではないかと分析していました。

 それだけの話なら、残念ではあっても型通りの励ましで終わるところですが、普段は余り自分の私的な事柄を大っぴらに語るタイプではない彼女が、そこから進路に関する悩みや迷いを饒舌に話し始めたので、私と部下は二人で耳を傾け、可能な限りの忠告を試みる仕儀と相成りました。詳しい経緯は省きますが、その悩みを生み出す原因は、彼女の特殊な家庭環境など、多岐に渡っており、なかなか一概に有用な答えを返すことが難しい問題でした。

 その豊饒な細部を大胆に捨象して、問題の本質を煎じ詰めるならば、要するに彼女の悩みは「やりたいことを仕事にしたい、けれど自分のやりたいことが、今の段階では明確に見極められない」というものでした。有り触れていると言えば、確かに有り触れた悩みですが、見方を換えれば、それだけ普遍的で深刻な問題であるということです。

 このブログにも書きましたが、私自身、昨年の秋に転職を企て、自分のやりたいことは何なのか、自分はどういう人生を望んでいるのか、その為にどういう決断を下すべきなのか、そういった反省と思索に埋没する日々を送っていました。もっと遡れば、同種の悩みは十代の頃から絶えず、私の魂に名状し難い圧力を及ぼし続けてきたのです。その意味で、如何にも若者らしい彼女の悩みは他人事であるとは思えず、軽率に扱うことの出来ない重要性を帯びているように感じられました。

 私と部下はそれぞれの立場から、それぞれの経験を踏まえて、自分なりの見解を述べました。部下の社員はYさんと同じく、大学では栄養や食物に関する勉強をしていたので、彼女の悩みに少なからず共感する部分があるようでした。一方の私は、栄養士の世界に就いては純然たる無知の素人であり、現場の事情なども弁えていないので、聊か抽象的な議論を提示することしか出来ませんでした。

 やりたいことを仕事にしたい、これは普遍的な欲望であるに違いないと思います。少なくとも輝かしい新卒の片道切符を携えて、就職活動の最前線に望む若者の耳には、「やりたいことを仕事にする」というテーゼは、美しく崇高な理念として響き渡り、浸潤するものでしょう。若さを失いつつある私もまた、過去には同種の悩みを幾度も抱え込んだ覚えがありますし、今後も絶対に再発しないとは言い切れません。

 やりたい仕事と、食う為の仕事が矛盾するとき、どちらを選ぶのかと訊ねると、彼女は真剣な表情で「やりたい仕事を選びたい、その為なら自分は、たとえ貧しい生活を強いられても頑張れると思う」と答えました。その健気な精神は称讃に値しますが、私自身の経験を顧みたとき、その純粋さに「危うさ」を感じずにはいられませんでした。今、この瞬間に「やりたいこと」の姿が明瞭に掴めていないのならば、就活の段階で「やりたい仕事」に固執して迷妄を深めるよりも、先ずは妥協し得る範囲で「食う為の仕事」に従事し、余暇の時間を使って勉強して、やりたいことを発見すべく努力した方が良いのではないかと、私は如何にも使い古された常套句を借りて、彼女に告げました。手垢に塗れた科白ではありましたが、その意見は彼女の心に、幾らか光を投じた様子でした。

 私が社会へ出るとき、父親がくれた「営業心得」という手書きの教訓の中に「独身者と一緒にあほになって遊ばないこと。仕事で遅くなっても、遊ばなければ時間は作れる」という項目が含まれていたのを、今も思い出します。それが頭の片隅を掠めたので、私はYさんに対して前述したような忠告を与えました。「忠告を与える」と言うと、随分と高圧的に聞こえますが、実際には私は、殆ど自分自身に言い聞かせるような積りで、その言葉を口にしたのです。私は小さい頃から、書くことで生計を立てていきたいという茫漠たる野望を持ち続けてきました。その夢は今も叶っていませんが、叶える為の努力の一環という積りで、こうしてネットに独善的な文章を書き散らしている訳です。この零細ブログも、私にとっては一種の「勉強」なのです。

saladboze.hatenablog.com

高等教育の無償化に関する個人的な懸念(或いは「妄想」)

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日、仕事を終えて家に帰り着き、遅い夕食を取りながらテレビの電源を入れて「報道ステーション」を眺めていると、安倍内閣が2020年の憲法改正実現を宣言したというニュースが偶々眼に留まりました。

 その報道の中で、懸案の憲法第九条に関する問題と併せて、高等教育の無償化が改憲の草案に織り込まれているという話が出ていました。

 此処に来て急に、聊か唐突な印象と共に「高等教育の無償化」の問題が改憲草案の中に浮上してきた理由に就いては、維新の会との協調姿勢を明確にして改憲に必要な議席を確保する為など、幾つかの推測が取り沙汰されていました。或いは、苦い薬を糖衣で包んで幼い子供に何とか呑み込ませようとするときのように、議論百出の九条改正を、高等教育無償化という甘ったるい理想と抱き合わせて、国民の賛成を(或いは妥協と譲歩を)引き出そうという策謀なのかも知れません。改憲そのものへの輿論心理的な抵抗感を減殺する為に、誰も容易には反発し難い御題目を持ち込んだのではないか、という意味です。

 この「高等教育の無償化」の具体的な中身や内訳に就いては、私が接した報道を通じては明示されていませんでした。そもそも、教育の無償化とは一体、どのような事態を指すのでしょうか?

 小中学校の義務教育に就いては既に、現行の日本国憲法において「無償」であるべきことが明瞭に規定されています。しかし、一人の就学児童に満足な教育の環境を整えてやる為に必要な出費の総てを、公費が負担してくれている訳ではありません。国公立の小中学校の授業料は徴収されませんが、様々な付帯費用(代表的なものとしては給食費)は国公立の場合でも保護者が負担する慣わしです。従って高等教育の無償化においても、同様の規定が盛り込まれるのではないかと推測されます。つまり国公立の高等学校、大学の授業料が徴収されなくなる、という改正に留まるのではないかと思います。

 無論、そのこと自体は好ましい変化です。特に経済的な苦境に立たされている家庭に育った子供が、国公立に限った話であったとしても、授業料の免除という措置の恩恵に与り、高等教育を享受する機会を断念せずに済むのならば、当事者やその保護者に限らず、社会全体にとっても有益な変化であると言い得ると、私は思います。しかし、現状において問題視されている「教育格差」の固定化と、それが齎す負の循環を是正する上では、国公立における高等教育の「授業料」無償化という国家の基本方針の改正が及ぼす効果は、恐らく限定的であらざるを得ないのではないでしょうか。経済的な理由から高等教育の享受を断念せざるを得ない子供たちがいなくなるということは、確かに素晴らしい改善ですが、現在の教育格差の拡大が「授業料を払えるかどうか」という基準だけで決定されている訳ではないことも、明白な事実です。

 最初に「教育無償化」の報道へ接したとき、私は深い考えも持たず、あらゆる高等教育機関が(つまり私立の学校法人も含めて)無償化されるということなのかと、早合点をしました。無論、本来「無償」である筈の義務教育の、決して理想的とは言い難い現状を踏まえて、冷静沈着に検討してみれば、そんな突拍子もない計画が俄かに持ち上がる筈もないことには直ぐに思い至ったのですが、敢えてそうした空想を突き詰めてみるのも一興です。つまり、国公立であろうと私立であろうと、あらゆる高等教育機関が「無償化」されることになった場合、何が起きるのか、という想像を膨らませてみるのです。

 そのとき、即座に思い浮かぶのは「私立の学校法人」の実質的な消滅が起こるのではないか、という空想です。あらゆる学校法人が授業料の徴収という財政的な基盤を失う訳ですから、それらの運営に要する費用は総て「税金」によって賄われることになります。そうした経済的基盤の自立性の消滅が、私立の学校法人の「思想的な自立性」の存続に対して、致命的な影響を及ぼすことは容易に想像されます。子供が親許から独立するに当たって「経済的な自立」が「精神的な自立」の重要な基盤となることは、誰にとっても身近な事実であると言えるでしょう。総ての学校が官営となり、学費の徴収によって運営の費用を自弁するという方法が憲法の威光の下に禁圧されてしまえば、あらゆる教育が「国家」の監督下に置かれるということになります。無論、今でも教育が国家による統制を受けていることは事実ですが、高等教育の厳格な無償化は、そうした傾向に拍車を掛けることになるでしょう。

 学校運営に必要な費用を国庫に請求することが原則となれば、総ての学校法人が政府(或いは財務省)の顔色を窺いながら、運営の方針を決定するようになります。言い換えれば、政府の意向に反するような種類の教育行為に関する費用請求は、極端な場合には「財源不足」という表向きの理由(実際、そう言われてしまえば、誰も逆らうことは出来ないでしょう)だけを突き付けられて、却下されるということになりかねません。こうなると、そもそも「教育機関」が時の政府に対して頑固に保持すべき思想的な自立性は、その立脚点を奪われ、教育者が懐くべき信念は交付金と引き換えに権力者たちへ売り渡されることになります。教育に対する支配が、最も根源的な「支配」の経路であることは、改めて論じるまでもない、厳然たる真理です。

 「学問の自由」は憲法によって保証された基本的な権利の一つであり、近代的な市民社会が培ってきた重要な理念の一つです。教育格差が叫ばれているときに、こういう言い方をするのは適切な態度ではないかも知れませんが、厳密な意味で総ての教育費用が公的に無償化されることは、結果的に「学問の自由」という人間の根源的な権利を毀損することに繋がります。人間は金の為に考えるのではなく、先ずは自分自身の為に頭を働かせなければなりません。そうした「独学」の精神を軽視して、勉学に付帯する費用を悉く第三者に(或いは「国家」に)依存することは、聊か逆説的なことですが、勉学の不可能性を齎す危険な要因となりかねないのです。

shimomurayoshiko氏への応答(私信のようなもの)

 以前、私は「ブギーポップ」という小説に就いて、次のような記事を投稿した。

saladboze.hatenablog.com

 この記事は、私の運営する零細ブログにおいては珍しく、ツイッターを通じて拡散され、幾つかの批判的なコメントを頂戴する仕儀と相成った。

saladboze.hatenablog.com

 上記のエントリーは、寄せられたネガティブなブックマークコメントに対する反駁を目的として作成されたものである。この記事の中で、私は頗る厭味ったらしい下品な筆致で、miruna氏とshimomurayoshiko氏に対する反論を試みた訳だが、半年ほど前に、shimomurayoshiko氏からブックマークコメントを通じて、事実関係の訂正に関する通知が届いた。

エゴサで今更気づいた。それid:shimomurayosikoじゃなくてid:srpglove(@srpglove)氏をこんな意見もあるらしいと紹介しただけで当方の意見ではないよ。一応id:miruna(@miruna)さんにもidコールしときます

 率直に言って、このコメントを拝見した当時、私は既に当該の問題に就いての関心も情熱も失っていたし、今更こうやって事実関係の訂正を告げられたところで、それに対応するのは時間と労力の無駄だ、という徒労と憤懣を禁じ得なかった。それに、たとえ他者の発言の引用だとしても、それをわざわざブックマークコメントとして提示した以上は、当初の発言者が誰であろうと同罪ではないか、という考えが、私に誠実な対応を控えさせ、黙殺に踏み切らせた。

 ところが先日、思い出したように、再びshimomurayoshiko氏から、当該のツイートは自分の発言ではないという趣旨を含んだ長文のコメントが、私のブログに寄せられたので、これ以上の黙殺乃至放置は、曲がりなりにもインターネットという公共の領域に手前勝手な駄文を垂れ流している者の道義に悖ると考え、こうして同氏に対する応答の文章を認めることに踏み切った次第である。

 少し長くなるが、同氏から頂戴したコメントを引用した上で、私なりの見解を述べたいと思う。

 エゴサしていたらこの記事を久しぶりに見つけました。ブコメでも言っているのですが、通知が行っていなかったようなので米欄にて再度失礼。それ、「shimomurayoshiko」ではなく「srpglove」さんですよ。
https://twitter.com/srpglove/status/690725329803972609
https://twitter.com/srpglove/status/690734301076291584
https://twitter.com/srpglove/status/690730947466006528
 まあ実際当方精神年齢は「中学生」より下手するともっと下だし「マスターベーション」をしている、というのは否定できませんが、私(「shimomurayoshiko」)が、こういう意見もあるみたいですね、と「srpglove」さんのツイートを紹介しただけであって、私の意見ではないですよ。引用・紹介している時点で同意しているも同然ではないか、と言われそうですが全面同意ではない、と言っておきたいところです。

 例えば「こういう文章を書いている自分を“大人”だと思っているようなタイプには、確かに向かない作品」とありますが、そこです。そうだろうか、と。そういうタイプだからこそ却って素見しで読んでいるうちに……という“大人”も実際ゼロではないでしょうし。
 入り口としては対象が好きな人からすればそういった来られ方は歓迎出来ないかもしれないけれど、沼にとらわれてしまえばその人は口では様々な照れ隠しにどぎつい言い方もするかもしれませんが、要は同好です。現在の貴方にとっては魅力的ではなく、対象が子供騙しに見え、ある程度成熟した大人なら「幼稚な人間」と思われたくないであろうからそんなものに熱中しない、こんなものに熱中して「大人でありたい」と思っていない大人の精神年齢を疑う、とお思いかもしれませんが、まあいいじゃないですか、誰が何をどのように好きでも。

 貴方がペパーミントを別格だと思うこと、今ではアカウントを消したみたいですが、貴方が貴方を大人であるとし同時に大人でありたいと思うことと、ファンタジー小説を書いていたこと、つまり書きたいと思ったから書いていたのであろうと思うのですが、そのことに私は別に矛盾を感じませんから批判はしませんし出来ませんよ。というのが全面同意ではなく引用紹介にすぎないかなあ、という具合です。ブコメは100字が限界だからと億劫がった私が悪いのですが。ファンタジーやSFを書くのが好きなのであれば、人はその「好き」に従っていいと思います。と同時に、貴方はある対象を嗜好する大人を、いい歳して、と思うのかもしれませんが、読む観る聴く演るのあるジャンルを「好き」であることを、まあこれは私のこどもっぽい言い分に過ぎないんですが、私は他人のそれを「おっ、そう? 別にいくつになっても好きなら好きでいていいんでないの?」としていきたいなあ、と。まとまりもなく失礼しました。

 最初に私の記事に寄せられた批判的な見解が、shimomurayoshiko氏御本人の発言であるかどうかという点に就いては、私にとってはそれほど重要な問題ではないが、同氏にとって、その事実関係の誤認が看過し難いものであるならば、私としても訂正を明記することに吝かではないので、先ほど「顔が見えないとき、人は幾らでも『残酷』になれる」の末尾に、その旨を追記した。事実関係の誤謬に就いては、このような対応で御了承願いたいと思う。その上で、shimomurayoshiko氏の今回のコメントに就いて検討する時間を持つことにする。

 冒頭の記事における私の発言が、一定の人々の反感を喚起したのは恐らく、私が「ブギーポップ」という小説を「幼稚な読み物」であると定義し、大人の鑑賞には堪えない、という言い方で批判したこと、そして副次的には、そのようなことを偉そうに言いながら、一方では幼稚なファンタジー小説の創作に手を染めているという「矛盾」(私自身は別に「矛盾」であるとは考えていないが、第三者の眼には、そのように見え得ることは理解している積りだ)を抱えていること、これらの二点に原因を有しているのではないかと思う。

 現在の貴方にとっては魅力的ではなく、対象が子供騙しに見え、ある程度成熟した大人なら「幼稚な人間」と思われたくないであろうからそんなものに熱中しない、こんなものに熱中して「大人でありたい」と思っていない大人の精神年齢を疑う、とお思いかもしれませんが、まあいいじゃないですか、誰が何をどのように好きでも。

 shimomurayoshiko氏による上記の意見に就いては、私としても全面的に頷くしかない。他人の趣味や嗜好に対して、どちらかと言えば冷ややかで、揶揄するような見方を以て報いるのは、加齢と共に多少は磨滅してきたとはいえ、昔からの私の悪癖の一つである。妻にも時折、そうした姿勢を注意されることがあるので、その点に就いては反省せねばならない。

 好きなものに就いては、素直に好きであればいいと考える寛容の精神、それは時折私という人間から欠落する、貴重な美質であり、その意味で、同氏の指摘と提案には、謹んで耳を傾けたいと思う。

 ただ、人間は様々な事物に就いて、それを好きだと語る以外の方法で、つまり自分が好きではないものに就いて批判的な見解を開陳するような方法で、何かを語ることも出来る。ブギーポップという一連の小説作品に就いて、私がそれを「大人の鑑賞には堪え得ない」ものだと感じ、それを具体的な言葉で開示することは、私の権利である。こういう言い方をすると、結局は己の偏狭な精神を肯定し、開き直っているように見えるかも知れないが、私は己の偏狭な精神をそのまま肯定しようとは思わないし、どんな放言も暴言も個人の自由だと声高に訴える意図も持ち合わせていない。少なくとも、批判を浴びせられたからと言って、直ちに感情的な暴発へ踏み切るような短絡は、恥ずべき行為だと考える程度には、社会化されている積りである。

 shimomurayoshiko氏の仰る通り、誰が何を好んでいようが構わないではないか、それを殊更に論うのは不毛なことではないか、というのは確かな事実であり、真理であると言えるだろう。だが、そうだとしても、誰かを徹底的に叩きのめしたり、異常な悪意を向けたりするのでない限りは、自分の感じたことや考えたことを率直に表明するのは正当な行為である。ブギーポップに関する私の見解が、唯一無二の「正答」であるなどと強弁する積りはない。しかし、それを表明する権利は私の掌中にあり、尚且つ総ての個人的な見解は常に「絶対的な相対性」の拘束を免かれることはないのだから、過剰な自主規制を積極的に選択しようとは思わない。

 こうやって書いてみると、一体何が問題なのか、そもそも「問題」らしきものが当初から存在していたのかさえ、曖昧に霞んでしまうような気がする。尚且つ、こんな漠然とした応答を、shimomurayoshiko氏が期待しているとも思えないので、余計に徒労感が募ってしまう。とりあえず、これで擱筆する。また何か御意見があれば、いつでも応答する積りである。

ドリトル先生の想い出

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 最近、一歳になった娘が、リビングに置いてある数冊の絵本に、以前よりも関心を示すようになりました。

 その日の気分で、関心を示す対象となる絵本は異なるのですが、気に入ったものは熱心にページを開いたり閉じたりして、念入りに見凝めています。読み聞かせをしてあげると、以前は直ぐに気を散らして絵本を無理に閉じたり跳ね除けたりしていたのですが、最近は大人しく耳を傾けている時間が長くなってきました。些細な変化ですが、親の立場にしてみれば、嬉しい成長です。尤も、未だに絵本の役割や価値を理解している訳ではないので、偶にページの隅っこを齧って呑み込んでしまうこともあります。

 そうやって少しずつ「書物」というものに関心を高めていくのだなと、幼い娘の姿を眺めつつ、ぼんやりと考えていました。振り返って、自分はどうだったのだろうと記憶を遡行しようにも、流石に一歳児の頃の想い出まで辿り着ける見込みは皆無です。もう少し大きくなって、或る程度は日本語という社会的な媒体を理解するようになってからの記憶の断片しか、脳裡には甦ってくれません。

 今でも子供の頃の読書経験として鮮明に覚えているのは、ヒュー・ロフティングの綴った有名な物語「ドリトル先生」シリーズのことです。井伏鱒二の翻訳で、岩波少年文庫に収められていた、この児童文学の古典を、小学校へ上がって間もない頃の私は熱心に読み耽っていました。作品との邂逅は、母親が当時加入していた大阪の生活協同組合に注文した「ドリトル先生アフリカゆき」が最初の契機でした。爾来、一冊を読み終える度に母親へ続刊を買ってくれるようにねだる日々が始まりました。やがて全巻読了も間近という段階を迎えた或るとき、父親が私の誕生日の御祝いに、残りの数冊を纏めて買ってきてくれて、胸が高鳴るほど嬉しかったのを覚えています。何の飾り気もない、無骨な茶色の紙袋に包まれた数冊の書物が、当時の私にとっては、全く新しい世界へ通じる扉の、貴重な鍵のように輝いて見えたのです。

 日清のカップヌードルを啜りながら、日曜日の午後に居間の食卓で読んだ「航海記」や、集中する為に夕食後の暗い子供部屋で、学習机の灯りだけを点けて読んだ「月からの使い」など、こうして振り返ってみると、読書の記憶と分かち難く結び付いた様々な想い出が、艫綱に縛られた小舟のように、眼裏へ切れ切れに浮かび上がってきます。それは私の少年時代の、郷愁を帯びた断片であり、大袈裟に言えば、生きることと読むことの切り離し難い連結を示す象徴のようなものなのです。

 何が幸福で、何が不幸なのか、その境界線を明確に見極めたり、定義したりすることは、時々とても困難な作業のように感じられるものです。辛く哀しい記憶さえ、纏まった日月が過ぎ去った後では、その苦しさゆえに却って懐かしく、切なく、甘美に感じられることもあります。少年時代の私は、必ずしも自分が幸福な人間であるとは考えていませんでした。小学校へ上がったばかりの頃は、幼稚園の頃から通っていた公文式の効果に助けられて、科目を問わず、どのテストでも満点を取ることが当たり前で、先生や周囲の保護者のみならず、純朴な同級生たちからも讃嘆の言葉を浴びせられることが日常でしたが、徐々に、自分は勉強以外に取り柄のない、退屈な人間なのではないか、という不安に囚われることが多くなっていきました。しかも、本来の私は決して熱心な勉強家という性格でもなかったので、公文式の貯金を使い果たすと、唯一の取り柄である筈の学校の成績さえ、下降線を辿るようになりました。私は、自分にどんな価値があるのか、それを確かめる術も、それを信じる為の根拠も、共に見失ってしまったのです。それは深刻な精神的苦痛を、少年であった私の魂に鋭く刻み込みました。

 精神分析で知られるフロイトの学説に、人間は何らかの失錯を犯すと、それを合理化し、正当化する為に、敢えて同様の失錯を重ねようとする、という奇妙な悪弊に関する認識が語られていたような記憶があります。私は己の学習成績の下降を正当化しようと試みるかのように、敢えて意図的に勉学から顔を背けるようになりました。勉強熱心であるということは即ち、退屈な人間であるということだ、という如何にも思春期の少年が案出しそうな短絡的命題が、私の精神を呪縛したのです。結局、その倒錯的な反動はいつまでも痼疾のように消え残り、遂には大学を一年で中退する仕儀と相成りました。

 社会の敷いた標準的なレールから逸脱したいという執拗な性向が、少年期の反動だけを理由に説明し得るものなのか、未だに私は明確な裁定を下すことが出来ずにいます。大人になってからは寧ろ、そういう逸脱への欲望や親和性が、生きていく上で悩みの種となりました。今でも心の奥底、或いは片隅には、尤もらしい正義や常識に反発しようとする幼稚な蛮勇が息衝いていることを感じることがあります。

 随分と表題から乖離した記事になってしまいましたが、今夜はこの辺で失礼致します。

 

「ドリトル先生ものがたり」全13冊セット 美装ケース入り (岩波少年文庫)

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「畸形」としての物語 ハーマン・メルヴィル「白鯨」に関する読書メモ 2

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)の中巻を読み終えたので、覚書を認めて読者諸賢の御高覧を賜りたいと思います。

 改めて思い知ったことですが、この「白鯨」という小説において、作者のハーマン・メルヴィルは「筋書き」というものに殆ど誠実な関心を懐いていません。恐らく物語の骨格だけを取り出して、過不足のない文章表現だけを塗して作品を仕上げれば、岩波文庫で全三冊もの分厚い分量に達することも、あれだけ夥しい数の訳注を附与することも、要らぬ手間だったに違いありません。しかし、そうやって合理的なブラッシュアップを施してしまえば、この「白鯨」という異様な小説の内奥に漲る独自の生命力が涸渇してしまうであろうことも、一つの重要な事実として認めざるを得ません。

 或る一連の出来事を簡潔に、分かり易く物語るという技術が、小説の芸術的価値を左右する唯一の規矩として信奉されている世界においては、メルヴィルの「白鯨」は紛れもない失敗作であり、不要な饒舌をたっぷりと吸い込んだ、不可解な情熱の産物として蔑まれることでしょう。実際、私が読み終えたばかりの中巻において、物語が具体的な前進を遂げていると言える箇所は殆ど皆無に等しいのです。様々な挿話が語られ、語り手の大仰な演説と勿体振った考察が入り乱れるばかりで、物語は一向に核心へ迫っていこうとはしません。物語の緻密で可憐な筋書きを味わうことが、読書の醍醐味だと信じて疑わない素朴な人々にとっては、メルヴィルの小説作法は噴飯物であるに違いありません。

 けれど、そのような性質の批判が「小説」という観念に対する固陋な偏見から形成されていることに、私たちは注意を払わねばなりません。そもそも「小説」が「物語」に対する忠実な使徒ではない事実を捉えて、それを厳しく論難するのは筋違いであり、そうした見方は「小説」の本質的な役割に対する謬見に基づいています。「小説」は「物語」に対する批判として生まれ、決まり切った構造性を揶揄することを自らの使命として担っています。その意味で「白鯨」の奇妙な観念的饒舌は寧ろ、この作品が典型的な「小説」であることを立証する根拠として受け止められるべきなのです。

 メルヴィルの「白鯨」の説話論的な構造だけを取り上げれば、或いはその基本的な物語の枠組みや舞台設定だけを眺めれば、この小説が一種の明快な「海洋冒険小説」の類として成立することは少しも困難な所業ではありません。作者さえ、その気になれば、幾らでも「白鯨」をモービィ・ディックとエイハブ船長との宿命の対決という構図に還元して、そこに緊密な形式を附与することは幾らでも可能なのです。しかし、それは「白鯨」を通俗的な物語の領域へ押し流す行為でしかなく、この作品の歴史的な特権性の依拠する基盤を破壊する選択に他ならないと言い得るでしょう。

 単なる海洋冒険小説のフォーマットに回収されることのない異様な個性、それがメルヴィルの紡ぎ出す縦横無尽の「饒舌」によって支えられ、生み出されていることは明瞭な事実です。それが「白鯨」に唯一無二の特異性を与える根拠として作用しているのです。そもそも、メルヴィルは物語という一種の時間的な継起に基づくシステムに対して、最低限の敬意しか支払っていません。彼にとって重要なのは筋書きではなく、飽く迄も「鯨」という崇高で特権的な主題なのです。その主題を浮き上がらせ、栄光によって包摂する為に、彼はあらゆる種類の表現を試み、あらゆる典籍を引用します。彼の該博な知識は総て「鯨」という崇高な主題に向かって捧げられ、集約されています。

 或る特定の主題によって物語の総体を、若しくは作品の総体を支配するという手法は、十九世紀的な「リアリズム」の理念とは相性の悪い文学的流儀です。この作品が、作者の生前には社会的な関心を集めず、作者の経済的な困苦を救済する方途にも成り得なかったのは、当時の社会が「リアリズム」という理念への素朴で全面的な信頼を生き抜いていたからではないかと考えられます。ロマン主義に対する種々の「反省」が、リアリズムへの意識を齎したのだとすれば(このような図式化が学術的な有効性を備えているのかどうかは、市井の凡人である私には判断しかねます)、メルヴィルの投下した「白鯨」に充満する観念的で野放図な饒舌が、世間の歓心を購えずに遠く見放されてしまったのも必然的な結果であったと言えるでしょう。良くも悪くも、この「白鯨」はリアリズムという規矩に対する素朴な信仰を踏み躙ってしまうような性質を備えています。

 けれど、そもそも「リアリズム」とは何なのか、という根源的な問いに立ち戻るならば、前述したような図式化の妥当性自体が疑わしく感じられることになります。或る意味では、メルヴィルの「白鯨」には身も蓋もない科学的記述が、甘ったるいロマンティシズムを蹂躙するようなリアリズムが、豊富に含まれているとも言えるのです。

 「白鯨」という小説は、捕鯨の世界に対する飽くなき情熱と、何よりも「鯨」という崇高で特異な存在に対する異様な鑽仰の念に満たされています。けれど、そのような情熱を単なる「鯨」へのロマンティシズムと解釈するには、作者の饒舌は余りにも節操を欠いているように見えます。寧ろ作者は、リアリズム全盛の時代に敢えて「捕鯨」の荒漠とした現実に神話的なロマンティシズムの風合いを与えることで、一つの皮肉な面白さを生み出そうと企てたのではないでしょうか。何もかもを尤もらしい「写実」の枠組みに回収しようとする十九世紀の精神に抵抗すること、それがメルヴィルの文学的な野心の目指す「果実」であり「鯨油」だったのではないでしょうか。

 

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)