サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(正義・愛情・無底性)

*随分と昔に書いた「『正義』と『愛情』は相容れない」という表題の記事が、何の因果か、この「サラダ坊主日記」の注目記事の欄に突如として姿を現し、数日間、その状態を維持している。表題だけは漠然と覚えていたが、どういう中身の文章を書いたのかは、改めて読み返してみるまで殆ど思い出せなかった。それほど有用な事柄や知見が記されている訳ではない。そんなに熱心に読まれているようにも見えない。今までずっと、ネットの暗闇に埋没して半ば白骨化していたような記事なのだ。世の中の検索ワードの流行が変動して、たまたまアクセスが増えただけの話だろうと思う。

 「正義」も「愛情」も手垢に塗れた、昔ながらの言葉のように感じられるし、誰もが「正義」や「愛情」に就いて底知れぬ迷妄を抱え込むことを強いられていながらも、これらの単語を特に難解なものであるとは考えていない。「正義」は「正義」であり、「愛情」は「愛情」であると漠然と独り合点して、その曖昧な認識を疑ってみようとも思わないのだ。だが、昨今の世界的な情勢を鑑みるだけでも、如何に「正義」という抽象的な観念が、人類全体の精神と思索を乱暴に振り回し、毀損し、混乱に導き入れているか、その果てしない惨状を把握するには充分である。私たちは直ぐに持ち前の「正義」を懐中から取り出して、お気に入りのナイフのように振り翳し、混乱した現実に強引な解決を与えようと躍起になる。

 正義というのは、本質的に「客観」と「普遍」という二つの重要な礎石の上に聳え立つべき崇高な理念である。だが、そもそも「客観」と「普遍」という抽象的な観念自体、私たちの意識にとっては生々しさを欠いた透明な記号なのだから、そこに聳え立つ「正義」が不明瞭な輪郭しか持ち得ないのも当然の仕儀である。

 ここには深刻なパラドックスが常に介在している。私たちは或る行為や言説の「正しさ」を様々な方法で立証すべく尽力する。だが、如何なる「正義」も、総ての人間を包摂する完全無欠の普遍性を獲得することは出来ない。「正義」は普遍的なものとして語られなければならないが、実際に特定の「正義」が(「特定の」という文言は「正義」という理念の本質に最も相応しくない但し書きである)絶対的な普遍性を帯びることは有り得ない。そこには必ず個人或いは集団の歴史的な「偏向」が関与している。しかし、或る言説が「正義」として訴えられる限り、それは常に「普遍的な真理」としての装飾を身に纏うことを原理的に免かれないのである。

 言い方を換えれば、「正義」とは「普遍的な真実として位置付けられた行為や言説」の総称である。従って、私たちが信奉する「正義」に不動の実体は備わることがない。「正義」という観念的な領域には、如何なる論理も決断も代入することが可能である。「正義」は内容ではなく形式であり、認識における特定の様態を指す概念なのだ。

 「正義」が「普遍的な真理として認められた行為や言説」の総称であるということは、言い換えれば「正義」とは「真実」との間に絶対的な相関性を持たない「信仰」の一種であるということになる。重要なのは、特定の行為や言説が「真理」として信仰されるという人間の精神的な事実性である。内容の如何に拘らず、如何なる事実も「真理」として信仰され得る可能性を秘めている。或る共同体において「禁忌」として排斥されている行為が、他の共同体において「真理」として信奉され、崇拝されることは十二分に有り得る。「正義」は実体ではなく、いわば「属性」として理解されるべき観念なのである。

 しかし「正義」が実体を欠いているからと言って、人間の精神に及ぼす影響を過少に評価することは出来ない。「正義」は論理的な構築物ではなく、信仰と崇拝の対象であり、私たちの頭上に聖性を帯びて君臨している。「正義」に対する私たちの心理的な執着は、単なる推論の産物ではなく、寧ろそのような「正当化」の推論を生成する根源的な「理由」である。言い換えれば、何らかの事実が「正義」として承認されることに、絶対的な必然性はない。そこにあるのは常に恣意的な根拠だけである。この抽象的な可変性が、時に「正義」という名の凄まじい暴力を蔓延させる最大の要因であると言える。

 意識的であるかどうかを問わず、私たちは極めて簡単な心理的手続きを踏んで、個人的な好悪に過ぎない問題を「正義」の問題へと掏り替えてしまう生き物である。「正義」とは「それは真実であるという信仰」の異称であり、従って本来ならば個人の審美的な判断とは無関係に措定されねばならない。だが、「正義」という観念の有する本質的な無根拠性=無底性が、そうした規範を易々と踏み躙る原因として作用する。信仰は欲望の一種であり、そうであって欲しいという希求の道徳的な表現である。私たちは厳格な仕方で「好悪」と「正義」の基準を弁別することが出来ないのだ。そして、この危険な陥穽が古来、人類を出口の見えない不毛な係争に埋没させてきたのである。

 それならば「愛情」とは何か? 抽象的な言い方を用いるならば、「愛情」とは一切の事実の全面的な肯定と受容である。「正義」は「真実」の裏面としての「虚偽」を常に注意深く排除しようと試みる。言い換えれば「正義」は常に「審判」の要素を含み、事実の部分的な肯定と承認に血道を上げる営みである。だが「愛情」は、そうした弁別の原理と根源的に相容れない。「愛情」は総てを肯定し、総てを信頼するが、「正義」の側から眺めるならば、「愛情」の盲目的な包容力は危険な怠慢のように映じるに違いない。「愛情」の包容を「正義」の信奉者は「屈服」として定義する。

 逆説的な言い方を用いるならば、「愛情」は「正義」が目指すべき基準の普遍性を、「正義」とは全く異質な手続きを踏んで実現しようとする営為である。何故なら「愛情」は総てを包摂する全面的な肯定の働きであるから、必然的に個人の「好悪」という恣意的な尺度を超越せざるを得ないからだ。一般的な通念としては「愛情」こそ「好悪」という個人の審美的な基準に従属するものであるかのように考えられがちだが、本来的な意味の「愛情」は如何なる要素も無条件で肯定するという極限の性質を備えており、従って個人的な好悪は無条件に除外されてしまうのである。一方の「正義」は、自らを普遍的な価値の規範として捉えている為に、どうしても規範との「照合」という作業を省略することが出来ない。特定の規範に照合して対処の方法を定めるという手続き、即ち「審判」は、必ず特定の要素の「排除」という段取りを要請する。「正義」は「愛情」を特定の枠組みの内部に押し込むのだ。

 「愛情」は本来、論争という行為には馴染まない関係性である。だが、実に多くの「恋人」たちが下らぬ蹉跌や誤解に基づいて、度し難い論争の悪循環へ溺れていく。そこには「好悪」を「正義」で装飾することによって、相手を論破し、その非を立証しようとする苛斂誅求の精神が顕現している。だが、相手を論破することほど、「愛情」から遠く隔てられた行為は他に考えられない。「愛情」は常に沈黙と共感によって、あらゆる規範の根源的な「無底性」に向かって穏和な微笑を捧げる営みである。

Cahier(ラピュタ・宮崎駿・自然・人間)

*仕事を終えて十時過ぎに帰宅し、テレビの電源を入れると、金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を放映しているところだった。

 金曜ロードショーで、スタジオジブリのアニメ映画の再放送に出喰わすことは、少しも珍しい話ではない。子供の頃、母親がVHSのテープにダビングした様々なジブリ作品を、腐るほど眺めて育った私にとって、テレビ画面に映し出される一つ一つのシーンは、懐かしいとすら感じないほどに記憶の表面へ色濃く刻み込まれている。にも拘らず、一旦見始めると視線を外せなくなるのは何故だろう。宮崎駿監督作品の卓越したクオリティの為せる業であろうか。

 宮崎駿という稀代のアニメーション監督の華々しい経歴を改めて顧みると、そこに二つの重要な主題が脈打っていることに気付かされる。一つは「自然と人間との相剋」であり、もう一つは「子供(特に少女)の成長」である。「自然と人間との相剋」或いは「テクノロジーの暴走」という主題が「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」の系譜に通じているとするならば、もう一つの重要な主題である「子供(特に少女)の成長」に関しては「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「千と千尋の神隠し」の系譜を計え上げることが出来る。

 例えば「ラピュタ」において、天空に浮かぶ巨大な城塞は、極めて高度な文明と科学技術によって構築された「人工」の極致である。その驚嘆すべきテクノロジーの神秘的な水準の高さは、地上に暮らす人々の想像を遙かに超越する次元に達している。

 悪役であるムスカ大佐は、太古の昔に滅亡したラピュタのテクノロジーを復活させ、地上を支配するという野蛮な夢想に駆り立てられている。彼の歪んだ情熱を、核兵器の威力に固執する北朝鮮金王朝に擬えることも不可能ではない。無論、そうした情熱は、固有名を備えた具体的な個人の特性に限られた話ではなく、そもそも「テクノロジー」に対する人類の根源的な野心に他ならない。

 こうした「テクノロジーへの欲望」が齎す種々の災禍という問題に就いて、宮崎駿という人物が一貫して強烈な倫理的関心を燃やし続けてきたことは、「風の谷のナウシカ」から「もののけ姫」に至るアニメーション監督としての経歴を徴すれば明らかである。極めて高度に発達した文明が何らかの理由で自壊作用を惹起し、無惨に滅び去った後の世界、というのは「ナウシカ」においても「ラピュタ」においても共通して登場する舞台設定であり、そこに「核戦争の時代」の宿命的な影響を読み取ることは必ずしも曲解であるとは言い難いだろう。宮崎駿のキャリアの集大成に位置付けられる傑作「もののけ姫」においても、踏鞴場を統括するエボシ御前は、製鉄技術という人工的な技能によって一つの集落を作り上げ、神々の暮らす森林と対峙している。その製鉄技術が環境を破壊し、森に住まう神々の瞋恚を購い、強烈な緊張状態を生み出すのである。「テクノロジーに対する欲望」が齎す種々の災禍に関する宮崎氏の倫理的意識は、極めて尖鋭である。

 しかし、そうした側面だけを強調して、宮崎駿という作家の本質を解き明かした積りになるのは、余りに偏頗な捉え方である。例えば監督自身が繰り返し「モラトリアム映画だ」と批判的な言及を行なっている「紅の豚」には、サン=テグジュペリの世界を連想させる古き良き「飛行艇時代」へのノスタルジックな感傷が横溢している。或いは「風立ちぬ」において描き出される堀越二郎(「零戦」の設計者)の姿には、紛れもない「テクノロジー」への強烈な欲望が噎せ返るほど浸潤している。言い換えれば、宮崎駿という人物の内側には「テクノロジーに対する強烈な欲望」が歴然と息衝いているのであり、監督の戦闘機に対する奇怪な偏愛を無視して、これらの作品に関する批評を試みるのは片手落ちである。

 テクノロジーに対する欲望と、それが尖鋭化した涯に齎される深刻で不可逆的な災禍に対する倫理的な苦悶は、宮崎氏の精神を苛む無限の循環として存在しているように感じられる。特に近代以降の科学技術の爆発的な発展は、テクノロジーが人間の制御を引き千切って暴走するという不穏で絶望的なイメージを、歴史の様々な局面において現実化してきた。その極点に存在するのが「核兵器」の凄まじい災厄である。ヒロシマナガサキ以降の時代に生きる人類にとって、テクノロジーの暴走という事態は常に悩ましい苦痛を齎す元凶として作用している。

 古来、自然の脅威は「人智を超えたもの」として扱われ、畏怖の念を以て眺められ、崇められてきた。しかし近代以降、自然のみならず「テクノロジー」もまた「人智を超えたもの」として振舞うようになった。人間の作り出した文明が人間自身を滅ぼし得るという皮肉な現象は、明らかに「近代」の特質であり、更に言えば「近代」に固有の宿痾である。だが、幾ら交通事故の死人が出ようとも、自動車そのものの廃絶という議論が声高に叫ばれることのないように、如何なる惨禍を齎し得るとしても、こうした「近代」の宿痾から逃れる為の退行が、国際的な意志として積極的に選択される見込みは乏しい。「人智を超えたもの」としてのテクノロジーと文明を棄却して、近代以前のプリミティブな世界へ回帰しようとする素朴な主張は、ロマンティックな美しさを湛えているとは雖も、現実的な有効性を持ち得ないだろう。

 「となりのトトロ」に描き出された里山の風景の美しさを単純に嘆賞するだけでは、宮崎氏の追究する課題の本質に触れたことにはならない。テクノロジーが「素朴な創意工夫」の次元に、言い換えれば「丁寧な手仕事」の次元に留まっていた牧歌的な時代を懐かしんでも、テクノロジーの暴走という近代的な「悪夢」の問題を解決することには繋がらない。「紅の豚」を「モラトリアム映画」として自己批判する宮崎氏の口吻には、そうした苦渋が滲んでいるように思われる。

天空の城ラピュタ [Blu-ray]

天空の城ラピュタ [Blu-ray]

 
天空の城ラピュタ [DVD]
 

 

Cahier(解散・改革・希望・ポピュリズム)

*本日付で衆議院が解散した。総選挙の投開票が十月二十二日に設定されると共に、テレビ画面の向こうに広がる政治の世界は大荒れの様子だ。東京都の小池百合子知事が「希望の党」の代表に就任して結党会見を開き、離党者の続出でゾンビと化した民進党の前原代表は、小池劇場の類稀なる影響力に縋って「合流」の奇策を掲げ、愈々「安倍一強」の政局が覆されるのではないかという観測が俄かに強まっている。

 小池都知事が国政選挙に立候補する見込みが高まり、世上には批判的な意見も出現している。都政を放擲して、己の野望に衝き動かされるように衆議院へ鞍替えして、史上初の女性総理大臣に昇り詰めようと企てるのは無責任ではないか、という至極尤もな正論である。だが、そうした道義的な議論が、小池百合子という稀代の名優の決意を(現時点では未だ、彼女が衆議院の代議士に立候補すると確定した訳ではないが)覆し得るほどの威力を発揮するとは思われない。民進党の乾坤一擲の「捨て身の攻撃」で、自公政権の盤石な体制に風穴が開くかも知れないという「政権交代」の潮目が一挙に具体化してきた今、野心家の小池氏が「東京都知事」と「内閣総理大臣」の何れを天秤に掛けた上で選び取るか、と試しに想像を膨らませてみる。恐らくは「内閣総理大臣」の肩書に、政治家としての本能が、持ち前の立派な牙を突き立てたがるのではないか。

 端的に言って、小池百合子氏の都知事としての力量は、少しも明確な形では立証されていない。オリンピックの経費に就いても、築地市場豊洲移転問題に就いても、あれだけ華々しく啖呵を切って、改革の烽火を燃え上がらせた割には、何ら目覚ましい成果は上がっていないように見える。近年、急激に脚光を浴び始めた彼女の具体的な実績は専ら「選挙に勝った」という一点に尽きているのではないか。

 様々な報道を徴する限り、彼女の名優振りは図抜けている。弁舌は巧みであり、イメージ戦略で人心を籠絡する術に長けている。安倍晋三氏が「アベノミクス」というキャッチフレーズで知られる経済的なポピュリストであり、米国の尊大且つ差別的な元首の尻馬に乗って、北朝鮮に対する強硬な態度(「対話」よりも「圧力」を重んじると国連総会で演説してしまうほどの強硬な態度)を演出してみせる軍事的なポピュリストであるとするならば、小池氏は嘗ての環境大臣の経歴を活かすかの如く、只管に「クリーン」なイメージを打ち出すことに長けたポピュリストである。言い換えれば、既成の「腐り切った旧弊な政治」を打破して、希望に満ちた社会を作り上げる改革勢力、という演出に抜群の才能を示すポピュリストであるということだ。かつて小泉総理が「改革」の旗幟の下に、分かり易く単純化された「保守/革新」の構図を濫用して、大衆の浮動的な人気を収攬したように、小池氏もまた、具体的な中身を示さぬままに「改革」のイメージだけで、自民党に対する反感の政治的な受け皿というポジションを狡猾にも独占しつつある。

 無論、民意に基づくデモクラシーの制度が政体の要に採用されている国家において、有能なポピュリストであり、饒舌なスポークスマンであることは少しも罪悪ではない。だが、有能なポピュリストが誠実なポピュリストであるという論理は、特別な但し書きを省いては成立しない。安倍内閣に対する反感が、小池氏に対する漠然とした期待(文字通り、それは「希望」に過ぎない)に横滑りすることは大いに有り得るし、東京都議会における自民党勢力の惨敗は、そうした大衆の政治的感情を事実として証拠立てている。だが、安倍内閣と小池氏の来るべき「政権」との間に、決定的な差異を見出すことが可能かどうか、私は懐疑的である。彼女は今般の総選挙において、安倍政権に対する世間の不満を大いに活用するだろうが、それは彼女が安倍氏と比較して、遙かに優秀で国益に適う内閣総理大臣になれる逸材であることの証明にはならない。そもそも、彼女が安倍内閣と全面的な「対決」の方針を貫くかどうかも不透明である。実際、共産党社民党は「希望の党」に関して「自公政権の補完勢力に過ぎない」という言い方で批判を行なっている。細目に関しては兎も角、小池氏も安倍総理の悲願であると言われる「憲法改正」そのものに就いては、肯定的な方針を表明している。骨太の「護憲政党」を自任する共産党の立場から眺めれば、自公政権と小池新党は幾らでも「野合」が可能であるように見えるのだろう。

 現在の小池人気は、政治家としての具体的な実績に基づくものであると言うより、彼女の「選挙屋」としての卓越した技倆に由来するものである。「希望」という口当たりのいいフレーズ、印象的なシンボルカラーとしての「グリーン(クリーン?)」を巧みに操る視覚的な(つまり、テレビ・ネット的な)表現のセンス、世間からは悪党にしか見えない屈強な面構えのオッサン代議士たちを相手に派手な喧嘩を仕掛けてみせる気風の良さ、その「姐御肌」的なイメージ、オリンピックでも築地でも、一旦決まった事柄を平気な顔で引っ繰り返そうとする「改革」のイメージ、兎に角「イメージ」だらけのホログラムのような人気が、バブル期の株価のように異常な暴騰を示して、国政の舞台を騒々しく鳴動させている訳である。

 そうした現在の過熱した人気が、そんなに永保ちするものでもないことは、聡明な小池氏自身、充分に認識されているだろう。本来ならば大して日の当たらない都知事の職に留まり、オリンピックや築地市場の移転に関して地道な議論と根回しに骨を折り続けるより、自身の存在感が未だ鮮度を保っているうちに一世一代の博打に踏み切り、結果はどうあれ、史上初の女性宰相の椅子を奪い取ってしまうという筋書きは、彼女にとっては劇しい魅惑に満ちた青写真ではないか。

 だが、政権を勝ち得た後で、どう考えても烏合の衆に過ぎない「希望の党」の代議士を引き連れて、一体彼女がどのような活躍を示すのか、私にはよく分からない。無論、私の想像力の度し難い貧困が、そのような懐疑の培地であることも事実だろう。しかしながら、実際に都知事の職責を擲って国政の現場へ鞍替えするとしたら、総理大臣になった後も、適当なところで仕事を切り上げてしまうかも知れない、という虞は決して根拠を欠いた代物ではない。

 何れにせよ、今回の解散総選挙で「安倍晋三」と「小池百合子」以外に主役級の人物を想定することは難しい。民進党の「合流」という、恥も外聞も投げ捨てた上での奇策に就いて「野党四党の提携の合意に叛くものだ」と憤る共産党の志位委員長の発言に、真摯な関心を寄せる有権者は、既存の支持者の中にしか存在しないだろうと思われる。今回の選挙の争点を「独裁者・安倍晋三を斃せ」という特撮戦隊ものレヴェルの筋書きにまで絞り込めたら、そして「独裁者に抗う義勇兵の集まり」のようなイメージで、烏合の衆である野党勢力を一つの旗幟の下に糾合し得たならば、政権交代は現実の奇蹟として、選挙速報の中継画面をクラッシュさせるだろう。

Cahier(大人と子供・愛の飢渇)

*偶に自分の幼少期のことを思い出す。自分がどういう経緯を踏まえて現在の状況や人格に辿り着いたのか、その流れのようなものを時折、辿りたくなるのだ。それは必ずしも感傷に耽る為ではない。そういう側面が一切存在しないと言い張る積りはないが、その渦中にいた当時は見えなかったものが、時間と経験の蓄積を通じて新たに獲得された視野によって、今更のように気付きや省察を齎すということは、確かに有り得る話なのだ。

 況してや、日進月歩の勢いで成長していく一歳半の娘を抱える身であれば、自分の幼少期を顧みながら、どういう教育を施すべきか、どういう環境を整えてやるべきか、この子はどのような価値観を形成していくのだろうか、といった諸問題が四六時中、脳裡を掠めるのも詮方ない仕儀であるだろう。どんな大人も、日毎に少年少女であった時代の想い出だけは意識の辺境に留めていたとしても、その当時に懐いていたリアルな「皮膚感覚」そのものを精細に想起出来る人は少数派であると思う。そうやって大人と子供、或いは親子の間に精神的な断層のようなものが生じていく訳だ。

 無論、そうした断層の存在を一概に否定すべきだとは、私は考えていない。大人と子供が互いに異質な存在であることは、人類の社会的な仕組みとして、必要な条件であると思うからだ。確か内田樹氏が何処かで書いていたように記憶しているのだが、子供には子供を教育することは出来ない。子供を教育し、庇護出来るのは大人だけである。その意味で「子供だけの世界」というものは成立しない。例えば作家の大江健三郎氏は、初期の作品でしばしば「子供だけの世界」と、それに類する主題を扱っている。その代表的な成果が、氏にとって最初の長篇小説と謳われる「芽むしり仔撃ち」である。それは集団疎開と疫病の蔓延という二つの要素の融合によって、半ば偶発的に構築されることとなった不良少年たちの「王国」の惨たらしい敗残を描いている。作中に登場する大人たちの野蛮な言行は、殆ど戯画的な醜悪さに縁取られているように見える。その解釈は様々だが、そこから「少年たちの王国」の原理的な不可能性という認識を抽出することは、必ずしも不当な判断ではないと思われる。

 けれども、私は親として、或いは一個の「大人」として、大江健三郎の晦渋とも呼び得る独特な文章によって描き出された、冷酷で暴力的な「大人たち」の肖像に、自分の姿や人格を擬えるような状況には陥りたくないと考えている。言い換えれば、成る可く「子供」の心情から乖離しないように努めたいと思っている。無論、単なる幼稚さは社会的な弊害であり、倫理的な堕落であるに過ぎない。だが、少年少女の特異な実存の形態に関する想像力を棒切れのように放擲するのは、成熟した大人の選択すべき態度であるとは言えない。

 

*幼い頃、私は賢明な子供であった。少なくとも、学校の成績に限って言えば、小学生の頃の私の優秀さは、具体的な点数によって証明されていた。それを理由に、幼い私は方々から称讃の言葉を浴びていた。無論、狭い世間の中の話である。そうした束の間の栄光に大した値打ちもないことは歴然としている。だが、幼い子供にとって、世界の面積と、自分が属する小さな社会(家庭や学校)の面積は、そのまま合致している状態が普通なのだ。

 そうした称讃は、私の幼い自尊心を充分に高揚させたが、他者の無責任な評価によって形作られた自尊心は、極めて容易に虚栄心へと転化してしまうものである。同時にその虚栄心は、世間の評価に対するナイーブな自意識を発達させる。「優等生」であることを理由に周りから称讃を集める、という生き方は、他者に対する過敏な意識を爆発的に肥大させ、独立させる。その息苦しさは明確に、幼い私の人格に重大な影響を及ぼした。

 具体的な年齢は覚えていないが、子供の頃の私は、世間体や体裁を気に掛ける両親の態度が嫌いであった。それは私自身が「優等生」というアイデンティティに呪縛されていることへの苛立ちの、迂遠な反映であったのかも知れない。ただ「優等生」の仮面を被った息子を持つことで、両親の社会的な威信(極めて些細なものであったにせよ)が浮揚されていたことも事実ではないかと思う。次第に私は、優等生であることの価値が、所詮は狭隘な価値観の一例に過ぎないという事実を悟り始めた。「優等生であることの地獄」を語れるほど、私は優秀な人間ではないが、少なくとも、その稀釈された状態を経験したことがあるのだ。そこから逸脱したいという欲望は、世間体や体裁を重んじる両親への素朴で古典的な反抗であったのかも知れない。

 私は学校の勉強に情熱を注ぐことを意識的に避けるようになった。授業中に居眠りしたり、宿題を手つかずで放置したりする一連の「怠業」は、私にとって一つの明確な行動規範に基づいた振舞いであった。「優等生であることを否定する」という如何にも思春期的な規範は、十代を通じて常に私の胸底へ刻まれ続けていた。大学を辞めてアルバイトに精を出したり、十九歳で年上の女性を妊娠させたりしたのも、そうした規範の延長線上に位置付けられるべき行為であった。

 堕落した虚栄心は、極めて我儘な欲望を知らぬ間に養っていた。「優等生だから、評価されているに過ぎない」という醒めた省察はそのまま、自分の本質を自分で肯定出来ないという精神的な屈折に帰結した。自信の欠如が齎す精神的な泥濘の深さは、特に十代の多感な時期においては、極端に観念的な膨張を示す場合が多い。私は社会的評価というものに怯え、そこから逸脱する自由に劇しい憧憬を燃え上がらせた。坂口安吾の闊達で情熱的な文章に心を搏たれたのも、禅僧の言行に対する興味を高ぶらせたのも、結局はそうした心理的葛藤であったのだろうと、今になって思う。

 「勉強の成績が良いから愛してあげる」という合理的な愛情の作法を、私の両親が墨守していたと断定する積りはない。そのように性急な断定が、公平な視点を欠いていることに、私は同意する。ただ、世間体を取り繕うことに気を散らして、純粋な「無償の愛情」を息子に傾注することを疎かにしているのではないか、という親への懸念(当時は未だ、そのような言葉で事態の構図を抽象的に捉えることは出来なかった)が、私に不安を齎したことは確かな「心理的事実」である。その満たされない想いが癒されぬまま、私は十代の終わりに差し掛かり、あるがままの自分を全面的に肯定してもらいたいという幼稚な欲望を捨て切れぬまま、成人の日を通り過ぎた。

 最初の妻に対しても、私は相変わらず「無条件の愛情」を望み続けていたように思う。それが幼稚で自己中心的なストーカーの心情と大差のないものであることにも、当時の私は全く気付いていなかった。そうした自覚の陰惨な欠如が、馬鹿げた破局を惹起したのだ。離婚に至って漸く私は、自分自身の考え方を根本的に改訂する必要を痛感した。甘えるだけでは、愛したことにはならないし、愛する力を持たないのならば、愛される資格もないのだと、目覚めるように考え直したのだ。その頃、日本橋の髙島屋へ異動した昔の部下と一緒に酒を呑む約束を交わし、彼の退勤を待つ間、夕刻の静かな喫茶店で、直ぐ傍の丸善で買い求めたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という書物のページを、縋るような気持ちで捲ったことを思い出す。自分の何が過ちであったのか、それをどのように革めれば、未来に向かって希望の光を燈せるのか、そういった問題意識に基づいて、或いは引き摺られるようにして、私は「愛するということ」の真理に迫ろうと躍起になっていた。

 それから六年ほどの月日が流れ、私は別の女性と所帯を構え、授かった娘を育てている。私が娘をどのように愛するかという問題は、彼女の精神的形成に強い影響を及ぼすだろう。少なくとも家庭においては、子供を「経済的な愛情」によって縛るべきではない。愛することは常に、無償の動機によって形作られるべき代物である。これは決して不毛な美辞麗句ではない。実際に「無償」であることだけが、つまり内発的であることだけが、愛情を愛情として自立させる唯一無二の条件なのである。

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 
愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

Cahier(ヨーロッパ・近代・小説)

*最近は専ら海外の小説を読むことに、乏しい読書の時間を充てるように意識している。ウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」を舐めるようにちびちびと読み進めながら、日本語のみを理解し、一度も国境線を跨いだ経験を持たない、生粋の島国根性の持ち主として生活を営んでいる日本人の私が、敢えて海外文学に積極的な関心を懐こうと努めているのは、何故なのだろうかと自問していた。

 ミラン・クンデラの一連の著書に限らず、小説という芸術を「近代のヨーロッパ」が生み出した歴史的な産物として捉える論調は、決して特異なものではない。そうした言説を実証的な仕方で確認する手段を持たない私はただ、クンデラの華麗で犀利な文章に眩惑され、魅了されるばかりの体たらくだ。スペインのセルバンテス、フランスのラブレー、そしてイギリス及びアイルランドの初期の小説家たち(デフォー、スウィフト、スターン、フィールディング)を嚆矢とする近代文学の精華である「小説」を、クンデラは極めて断定的な口調で「ヨーロッパ」という歴史的=地理的なコンテクストに接続している。

 様々な世界宗教が、布教の範囲を拡大する過程で、徐々に各地の土俗的な異質さを夾雑物のように呑み込み、消化吸収していったように、小説という芸術もまた、今日では単なる「ヨーロッパ」の専売特許とは称し難い多様性を獲得しているように見える。同時に小説は「近代」という謎めいた歴史的観念から遠く隔てられた場所にも、成育の為の新たな土壌を幾つも見出しているように思われる。だが、こうした考え方は、小説が形成されてきた構造的な理由に対する無理解と、根源的なレヴェルで密接に絡み合っているのではないだろうか。言い換えれば、そうした「小説」の世界的な普遍性に対する明快な盲信は、例えばクンデラが抱懐しているような「小説」の具体的な歴史性に関する省察の欠落によって支えられているのではないか。

 文字言語を用いて何らかの虚構性の高い物語を書き綴り、一つの新たな時空を創造することの世界的な普遍性を手懸りとして、所謂「小説」という文学的理念を、世界的な普遍性の下に拡大して適用しようと試みる態度が、クンデラの厳密な歴史的意識と相反するものであることは注意すべきポイントであると言えるだろう。もっと言えば、そうした態度は「小説とは一体、何を指す概念なのか?」という根源的な問い掛けに対する考究の甘さと密接な関係を有している。

 クンデラは「小説」という芸術を西洋の近代に固有の歴史的な様式として定義している。「小説」を、セルバンテスラブレーやデフォーを嚆矢とする西欧の「近代」が生み出した芸術であると看做すことは、少なくともクンデラの作家としての方法論においては重要で中心的な意義を備えているのである。それが明治以降の日本に移植されたとき、西欧とは全く異質な文明的背景を有する東洋の島国で、「小説」という理念が一切の変貌と無縁であったと信じ込むのは、原理的な意味で公正な態度ではない。基本的な枠組みを拝借したとしても、それが百年余りの歳月を経て、日本という国家の風土に馴染み、徐々に組み込まれていく過程において、「小説」という理念が如何なる変質も蒙らなかったと考えるのは、無反省な「信仰」に過ぎない。

 一体「小説」とは何なのか、という設問は、市井の読書家に過ぎない私にとっても依然として興味の尽きない難解な「壁」である。だが、そもそも「小説」の厳密な定義を樹立することが、この地上で「小説」を巡って繰り広げられ、日々営まれている種々の「現場」にとって、本当に必要な作業であるかどうかは、冷静に点検してみる必要があるだろう。「小説とは、極めて自由で雑種的な文学の様式である」という言い方は巷間に満ち濫れている。「小説」というジャンルには、如何なる猥雑な要素も持ち込めるし、詩歌や戯曲のスタイルを導入したり、場合によっては挿絵や写真、図表の類を織り込んでも許される。にも拘らず、そうした柔軟な「寛容さ」の形式に何故、ミラン・クンデラは、飽く迄も「ヨーロッパ的な歴史性」という但し書きを付け加えることに固執しているのだろうか? そうした猥雑な精神性は、近代西洋の特権的な性質なのだろうか? こうした問題は、実地に近代西洋の小説作品を一つずつ繙読して、自分自身の五感と知性を以て確認する以外に、解決の端緒を持ち得ないだろうという当たり前の結論に、今は行き着くより他ない。

Cahier(ロヒンギャ・人道的危機・世界宗教)

*夜の十時過ぎに仕事から帰宅して、夕食の仕度が整うのを待ちながら、普段と同じ習慣に則って「報道ステーション」を見ていたら、ミャンマーで起きた大規模な人道的災害に関するニュースが流れていた。ビルマ語を操る仏教徒が人口の大半を占めるミャンマーにおいて、独自の言語を用い、イスラム教を信仰する「ロヒンギャ」と呼ばれる人々に対して長年、国家的なレヴェルでの悲惨な暴力が吹き荒れているのだという。そうした不条理な暴力に対して、バングラデシュに逃れた四十万のロヒンギャの難民たちは大規模な抗議デモを実行し、国際連合アントニオ・グテーレス事務総長はミャンマーの人道的現状に就いて、真剣な懸念を表明している。

 アルカイダによる米国の同時多発テロから、イスラム国によるイラク・シリア地域を中心とした軍事行動に至る経緯により、宗教的過激派勢力と言えば直ぐに、イスラム原理主義のムジャヒディンが想起される慣わしが、私の脳裡には根付きつつあるが、原理主義は何も、イスラム教の専売特許という訳ではない。キリスト教の世界にも、熱狂的なファンダメンタリストは存在している。ミャンマーラカイン州を中心に繰り広げられている、ロヒンギャに対する深刻なジェノサイドには、仏教徒民兵も荷担しているらしい。言い換えれば、必ずしも一神教的な峻厳さを持たないように考えられている仏教の世界にも、異質な他者への高圧的な横暴を肯んじて恥じない過激な思想の持ち主が少なからず存在しているということだ。日本の歴史を顧みても、仏教徒たちは僧兵を有したり、一揆を繰り広げたりと、歴然と殺生戒の教えに反するような行為に手を染めてきた。キリスト教の十字軍や異端審問、或いはイスラム教におけるジハードだけを、宗教的な偏狭さに起因する暴力の事例として挙証するのは、必ずしも公正な態度であるとは言い難い。仏教的な暴力という奇態な矛盾が現実の世界に存在することを、ミャンマー仏教徒たち(無論、総ての仏教徒を含む訳ではない。ミャンマー仏教徒の中にも、ロヒンギャの虐殺に反対している人々は少なからず存在する筈だ)は、血腥い惨禍を通じて、国際社会に向かって立証してみせたという訳だ。

 釈迦如来の教えを信奉している筈の敬虔な仏教徒たちが、宗教や言語の異なる社会的集団に差別的な待遇を行なって恥じないという現実、しかもそれが殺戮や強姦などの醜悪な犯罪を通じて、具体的な排斥と攻撃へと転化しているという現実は、暗澹たる心境を私の心に強いた。決して良心的な善人を気取る積りはない。どんな犯罪者にも、相応の正義と言い分が存在することは認めない訳にはいかないし、仮に私がミャンマー仏教徒として生を享けていたら、ロヒンギャに対する反倫理的な攻撃に絶対に荷担しなかっただろうと言い切る傲岸な自信も有していない。だが、こんなに醜悪な現実が、数百万年の歳月を投じて徐々に文明化してきた筈の人類の歴史の最前線において、今も堂々と実在しているということは、悲嘆と絶望の直接的な源泉に他ならないだろう。ロヒンギャに限らず、たった七十余年の星霜を遡ってみるだけでも、私たちはナチスによるユダヤ人への筆舌に尽くし難い巨大な暴力の記憶に行き当たることが出来る。たった七十余年の歳月が、そうした人類史における最大の汚点の一つに対する反省を、これほどまでに身も蓋もなく歴然と褪色させてしまうというのは、恐怖すべき事態である。

 こうした悲惨な暴力が、国際的に知られる主立った世界宗教キリスト教イスラム教・仏教)の本質とは、根源的な意味で絶縁していることに、私たちは充分な注意を払うべきである。本来、世界宗教は民族や国家などの枠組みによっては遮られることのない、普遍的な浸透性を備えた信仰と教義の体系であるからだ。従って、こうした世界宗教の信仰を理由に人々が啀み合い、例えば十字軍のような宗教的抗争が展開されるのは、論理的に矛盾した現象なのである。言い換えれば、世界宗教は本質的に「抽象化された理念」として存在しなければならないという責務を負っている。だが、例えばイスラム国(Islamic State)のような過激派勢力は、イスラム教を絶対化することによって、世界宗教的な抽象化の志向に反動的な退嬰を齎している。ロヒンギャに対する仏教的右派勢力(例えば、アシン・ウィラトゥという僧侶の率いる「969運動」)の野蛮な振舞いは、仏教の普遍的な抽象性に対するローカルな「致命傷」に他ならない。

 更に懸念材料を妄想的に肥大させることも可能である。アルカイダなどのイスラム過激派勢力が、ミャンマーにおける同胞への苛烈な弾圧を、どのように解釈するだろうか? 最悪の場合、ミャンマーにおける一連の人道的惨事は、ムスリム仏教徒との間に大規模な宗教的抗争を喚起しかねないのである。そのとき、世界宗教は単に、規模を拡張しただけの民族宗教として、悲しむべき排他性を明瞭に身に纏うこととなる。それは宗教的な体系が本来有している筈の普遍的な可能性を閉ざし、座礁させることに繋がるだろう。日本でも「廃仏毀釈」などの歴史的な事例を鑑みれば、こうした一連の人道的惨事は決して対岸の火事ではない。

Cahier(高野山・空海・虚構性・他者の「無答責」)

*先日、珍しく土曜日に休暇を取り、母親と弟夫婦を自宅に招いた。夕方からは、地元の神社の祭礼があり、近くの通りは歩行者天国と化して、道に沿って一面に露店が軒を連ねた。台風の影響で弱々しい雨が降っていた。

 子供を風呂に入れた後で、居間のソファに陣取って久々にNHKの「ブラタモリ」を見た。テーマは和歌山県高野山で、弘法大師空海が切り拓き、創建した日本有数の霊場の様子が詳さに語られ、映し出されていた。

 私は空海に就いて詳しい知識を有していない。司馬遼太郎の著した「空海の風景」(中公文庫)も読みかけのまま、長らく放置している。私が持っているのは、極めて断片的な知識の切れ端に過ぎない。真言密教創始者であり、非常に博学多才で、宗教家としても書家としても一流であるという通り一遍の情報しか、この頭の中には残っていないのだ。小学生の頃、学校の図書室から様々な学習マンガを借り出して読み耽っていた私は、空海の伝記を漫画化した作品にも手を出したのだが、それは飽く迄も空海という人物の個人史的な表層を切り取ったものであり、本当の意味で、空海の本領や、その「凄み」のようなものを理解した経験は一度もないのである。

 だが、分からないなりに私は、歴史上にその令名を謳われる偉大な宗教家たちの生き様や思想に素朴な関心を懐いてきた。そもそも、宗教という巨大な思想的伽藍自体が、とても興味深いシステムに感じられる。それは近代的な自然科学の価値観に照らせば、概ね荒唐無稽な幻想の集積である。だが、そうした断定とは無関係に、宗教的なものの持つ異様な影響力は今も、世界中で強靭な作用を人々の精神と実存に及ぼし続けている。宗教的なものの虚しさや、その建設的な合理性の不足を、尤もらしい口吻で論難することは寧ろ容易い。神様なんか存在しない、常世なんか存在しないと、偉そうに断定して斬り捨てることは、文明化された人間の良識的な判断であるかのように考えられている。だが、そうした論難が宗教的な体系の保持している豊饒な権威を打ち崩すことは難しい。いや、難しいと言うよりも、無益であると言った方がいいだろうか。

 宗教とは何か、という難問に、私のような浅学菲才の人間が太刀打ちすることは不可能である。ただ、素人目にも直ぐ思い浮かぶのは、宗教的な体系が「信仰」という精神的原理との間に、容易に切り離し難い緊密な関係を取り結んでいるという事実である。何かを信じるということ、それは宗教的な体系の根本に位置する営為である。

 同時に宗教は、世俗の原理との間に何らかの隔壁を設けることを習慣としてきた。無論、それは世俗との交わりを一切断ち切るという意味ではない。禅宗でも浄土宗でも、悟りを開いた人間は再び俗塵に塗れて、衆生の為に働くべきであるという意味の教えが重んじられている。例えば、中国の臨済宗の禅僧が発案したという、悟りの階梯を描いた「十牛図」の掉尾は、修行を積んで解脱を果たした僧侶が、再び市井の暮らしの中に立ち戻って衆生の救済に邁進する姿で飾られている。だが、それは市井の凡人が俗塵に塗れて暮らすのとは全く意味合いの異なる境涯である。

 宗教が俗界との間に緊密な交わりを有することは事実である。特に大乗仏教は、自分一人の悟りに留まることを戒め、菩薩となって他者の救済に尽力することを、自らの思想の根本に据えている。だが、それでも宗教が或る特権的な超越性を、その内部に宿している事実から眼を背ける訳にはいかない。それが所謂「聖なるもの」ということになるだろう。では「聖なるもの」とは何か? 俗なるものから隔てられ、禁域に祀られる神聖な「何か」は、如何なる原理に基づいて聖化されているのか? そもそも、何かを「聖化する」とは一体、如何なる作用を意味する言葉なのか?

 こうした問題を、高野山の風景をテレビの画面越しに眺めながら、漫然と考えた。今まで知らなかったことだが、高野山では現在でも弘法大師空海が、奥の院の御廟で生きているという「物語」を信仰しているらしい。それゆえに、千年以上の長きに亘って今も、奥の院に朝夕二度の食膳を僧侶が運んでいるのだ。こうした「擬制」(こういう言い方が適切であるかどうかは別として)が、連綿と受け継がれて今も現実に続いているということは、驚くべき挿話ではないだろうか。現代の日本に生まれ育った僧侶たちが本気で、空海は今も生きていると信じ込んでいるとは思えない。にも拘らず、そうした擬制が途絶えることなく継承されているという事実は、単なる荒唐無稽の儀式と呼んで斥けられない、奇妙な迫真性を有しているように感じられる。この異常な信仰心(「異常」という言い方に悪意や、賢しらな批判の含意はない)の持続は、その情熱の出処は、奈辺に存在しているのだろうか?

 弘法大師空海が今も生きているという信仰が、科学的な事実に反していることは言うまでもない。だが、それが事実に反しているという認識は、こうした信仰の虚構性を、根本的な仕方では破壊し得ないのである。或いは、このような虚構は、仏教的なものの本質とは無関係な代物であり、所詮は世俗の論理の転用に過ぎないという見方も成り立つだろう。それでも、弘法大師空海が今も生きているという信仰そのものを否定することには帰結しないのである。こうした現実に、私は何だか蒙を啓かれたような気分を覚えたのだ。

 千年以上も昔に亡くなった人間を、未だに生者として扱い、二度の食事を毎日欠かさずに捧げるなどという営みは、現代の平均的な価値観から眺めるならば、恐ろしく無益な「愚行」に過ぎないだろう。だが、例えば盆や彼岸に身内の墓参りへ行くのも、葬儀に参列するのも、墓標を水で洗ったり、線香や仏花を供えたりするのも、馬鹿馬鹿しさという点では五十歩百歩である。にも拘らず、私たちはそうした「愚行」を、或る敬虔な心情を伴って生真面目に遂行する習慣を捨てていない。合理的に考えるということが世俗の規矩であるならば、このような堅苦しく欺瞞的な儀礼に時間と金を費やすような真似は即刻廃止すべきであろう。だが、私たちは自ら望んで「死者」に対する各種の儀礼の盛大な挙行を惜しまないのである。この矛盾に、宗教的な信仰心の「鍵」が潜んでいるのだと思われる。

 死者を弔うという儀礼は、それが原理的に交信することの不可能な相手との交信の企てであるという意味で、極めて宗教的な営みである。もっと言えば、そもそも死者を弔うという儀礼の中に、宗教の有する壮大な知的伽藍の最大の基礎が存在しているのではないか。宗教の本質は、私たちが知ることの出来ない、厳密な「他者」との交わりの内部に存しているのではないか。その「他者」がイエス・キリストであろうと、釈迦如来であろうと同じことだ。彼らは常に「無答責」である。従って宗教的な信仰は常に、厳密な「他者」に対する劇しい飢渇を病んでいるのである。