サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(日常性・演技・滅亡・美学的理念)

*引き続き、三島由紀夫の「愛の渇き」(新潮文庫)を少しずつ読み進めている。

 以前に書いた記事の中で、三島由紀夫の作品に表現された精神的形態を「演劇的メンタリティ」という言葉で括ってみた。私にとっても未だ、漠然とした概念に過ぎないのだが、良くも悪くも三島由紀夫という作家には、人間の社会的生活を果てしない「演技の連鎖」として眺めている部分があるように思う。それは彼自身が「正常であること」への欲望に駆り立てられ、否が応でも「演技」に尽力せずにはいられない精神的背景を有していることの反映であろう。人間の微細な心理的動向に関する比類無い省察と警句の鋭さにも、絶えず「演じること」に携わっている者の慣習の余波が滲んでいるのではないか。

 恐らく「演技」に対する異常な執着と衝迫は、人間の内面に、果てしなく持続される平坦な「日常性」への嫌悪を培養する。「劇的な」という形容詞が概ね「日常性」の対義語としての役割を担っていることに注意を払って欲しい。「劇的であること」は無際限な日常性の反復とは相容れない、実存の様式である。言い換えれば、劇的であることは常に「終幕」の到来を要請するのである。如何なる芝居も、それが芝居である限り、必ず終幕の刻限を迎えることが運命付けられている。演じることは、その本質において「仮初の振舞い」であり、従ってそれは常に「暫時の擬態」であることを命じられているのだ。若しも演技が、その人間の生を出発から終幕まで絶えず覆い続けるのならば、それは最早「演技」とは呼ばれない。

 日常という観念は、演技という特権的な行為の対極に位置している。言い換えれば、日常という観念は常に「自然」や「内発性」という諸観念との間に密接な紐帯を締結しているのだ。そうした内発性に叛いて、或るフィクショナルな実存を意図的に作り上げる為の一連の作業の総称が「演技」なのである。従って、それは常に「仮構」であり「虚飾」であり「不自然な努力」である。演技は常に人為的な所作であり、演じることは本質的に、自らの内なる欲望や衝迫に対する否認を包含している。

 演じることは、特権的な時間を生み出すことに等しい。それは人為的な加工から隔たった、内発的で自然な欲望に対する意識的な制御の産物である。「ありのままの自分」を否定するところから、人間の演技は開始される。三島由紀夫の作品に色濃く氾濫している「日常生活への蔑視」は、人為的な演技に対する法外な執着を終生懐き続けた男の、抜き難い精神的特質なのである。

 そうした人間にとって、戦争という壮大な破局の観念、それが暗黙裡に予定している「滅亡の宿命」が、輝かしい救済としての側面を担っているのは、論理的必然であると私は考える。「仮面の告白」においても「金閣寺」においても、三島が作り出した虚構の語り手は「戦争による滅亡」という生々しい夢想に精神的な高揚を覚えている。日常性の価値を何よりも重視する作家(例えば、村上春樹)にとっては、「戦争」という破局は外部から侵入する野蛮で邪悪な災禍に他ならない。総てを灰燼に帰さしめる「戦争」の救い難い暴力性は、日常性を重んじる立場から眺めれば、絶対的な「悪」でしかない。そこでの倫理的な課題は、そのような暴力の発生と侵入を予防するという一点に尽きるだろう。だが、金閣寺と共に空襲で焼き亡ぼされる己の姿を妄想して陶酔を覚える「私」の精神性は、明らかに村上春樹的なメンタリティから遠く隔たった地点に屹立していると言える。

 三島の作品に濃密に蔓延しているサディズム的な性愛の問題は差し当たり除外しておこう。重要なのは、戦争による滅亡という終末論的な夢想に対する、三島の熱狂的な愛着に眼を向けることである。「世界に終わりはある」と「世界に終わりはない」という二つの命題の間には、外見以上に重要で決定的な亀裂が横たわっている。三島は敗戦後に復活した「仏教的な時間」(「金閣寺」)に対する嫌悪の言葉を、自ら作り出した厭世的な僧侶の口に語らせているが、この「仏教的な時間」が果てしない輪廻を繰り返す「無限の持続」を象徴していることは明白である。三島にとって「仏教的な時間」は、恐らく終末論的な時制に背反する枠組みとして受け止められていた。決定的な破局という観念に対する三島の執着は殆ど、敬虔な宗教的信仰の如き外観を備えている。

 尤も、そうした終末論的理念としての「戦争」に対する執着は、敗戦という歴史的な事実によって、その虚妄を無惨に曝露されてしまった。後年の三島の過激な保守化は、言い換えれば「戦後社会」に対する批判的な嫌悪は、単なる政治思想の問題ではない。もっと根源的な次元で、彼は「滅亡」という観念の否定として存在する戦後社会の「平和な日常」を憎んでいた筈である。戦後の日本社会における例外的な「平和」は、無限に持続する「日常」の頽廃そのものであったのだ。

 だが、こうした考え方は、戦争そのものの倫理的な是非や、歴史的な推移や、政治的な解明とは全く無縁の水準に樹立されている。言い換えれば、三島にとって「戦争」は一つの崇高な「美学的理念」に過ぎなかったのである。それは大岡昇平が「野火」において抉り出そうとした「戦争」の血腥い実質とは全く無関係な「観念」に他ならない。大岡にとって「戦争」は明白に「政治的現象」であった。出征を免かれた三島の脳裡に保存された「戦争」の美学的表象との根本的な乖離は、単なる世代的な格差に還元されるものではない。それは両者の「精神的原理」の組成に起因する差異なのである。

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

 
野火 (新潮文庫)

野火 (新潮文庫)

 

 

Cahier(三島由紀夫・齟齬・仮装・心理)

三島由紀夫の「仮面の告白」(新潮文庫)を先日読み終えたので、今は同じ作者の「愛の渇き」(同上)を繙読している。如何にも三島らしい、皮肉の利いた観念的な措辞が、じわじわと此方の精神に染み込んで来るような、苦い作品である。

 「仮面の告白」は、緊密な構成と凝縮された文章によって形作られた佳品であった。語り手の私が「神輿」の内奥の虚無的な空間に想いを馳せる場面などは、後年の代表作「金閣寺」における究竟頂の描写を連想させる。処女作に、書き手の精神と才能に関する宿命的な構図が織り込まれているという俗説は、少なくとも三島の「仮面の告白」に就いては、見事に当て嵌まっているように感じられる。

 これから三島の遺した文業の果てしない迷宮に手探りで忍び入ろうと企てている段階で、総括めいた言葉を記すのは性急な話だが、「金閣寺」にも「仮面の告白」にも共通して言えることは、作家の「日常生活」に対する明確な嫌悪の感情である。それを三島は「仏教的な時間」という観念的な修辞で表現している。彼にとって、永遠に持続する退屈な反復としての「日常生活」は忌まわしい、一種の「呪い」のようなものであった。その理由の一端は、彼のメンタリティが極めて「演劇的なもの」であったことに存するのではないかと思う。

 作品と作家を余りに堂々と重ね合わせて読み解くのは、必ずしも賢明な振舞いではない。その軽率さを承知の上で、敢えて贅言を弄してみる。三島が「演劇的な存在」として自己の実存を構築していった背景には、彼が「正常性」に対する強烈な執着を有していたという個人史的な事実が関与している。少なくとも「仮面の告白」に綴られた、一人の青年の精神的な「告白」の中身を信頼するならば、その「正常性」に対する執着の主立った動因が「同性愛」にあったことは疑いを容れない。

 だが、同性愛に対する社会的な圧力だけを理由に、彼が「正常性」に対する異様な執着を育んだのだと言い切るのは、余りに浅薄な推論である。重要なことは、彼が自己の存在と一般的な社会との間に絶えず「齟齬」を感じていたという点、そして彼のメンタリティが、そのような「齟齬」を開き直って肯定するのではなく、徹底的に矯正しようと試みるストイシズムに傾斜していたという点に存している。「自分は正常な人間ではない」という自己定義が「正常な人間として振舞うこと」への切迫した衝動と情熱を齎したのである。同性愛そのものに対する社会的な評価や偏見よりも、彼が自分自身の存在を「異常」として定義したことの方が、遙かに重要な意味を持っている。少なくとも、彼の精神的な風景は、そのような厳粛な自覚を出発点に据えているのである。

 彼にとって「演じること」は、人生における原理的な身構えであった。絶えず「正常さ」の規範を参照し、それに基づいて己の欲望さえも改竄してしまう異様なストイシズムは、彼のメンタリティが常に「他者の眼差し」と結び付いていたことの証左である。他者からの評価が、自己の評価を定めるという原理は、多かれ少なかれ人類の普遍的な所有物であろう。だが、彼は恐らく「居直る」という選択肢を好まなかった。それは彼が実際に様々な「演技」を通じて社会的な栄達を勝ち取ってきたタイプの人間であった為ではないかと思われる。

 彼の作品を一読すれば、その過半が意地の悪いほどに犀利な「心理的省察」によって占められていることに直ちに気付かされる。人間の心理や意識の繊細な変容に就いて、彼ほど精確で詳細な認識を、自らの作品の内部に閉じ込め続けた作家は多くない。それは彼が日常的に「他人の眼に映る自分」というものの存在を分析し、呼吸するように「演技」を繰り返していたことの明瞭な反映である。良くも悪くも、彼は一個の秀抜なる心理学者であった。それは彼が常に「演技」の成功を目指さねばならない実存的な動機を抱え込んでいたことの結果である。

 恐らく三島にとって最大の意識的欲望の対象は「正常であると認められること」であった。当然のことながら、何が正常であり、何が異常であるかという判断の尺度は、社会的な合意の上に成立している。従って彼の欲望は常に「他者によって決定される」という特質を有していた。「正常」の判定を得ることが彼の最大の野心であり、その他の欲望は総て、この絶対的な理念の下に蝟集と従属を命じられる。このことが、三島の文業に付き纏う独特のアーティフィシャルな風合いを生み出す要因となっている。彼にとって自然な、内発的な欲望というものは価値を持たない。言い換えれば、外在的な基準とは無関係に享受される「充足」というものは、彼自身によって厳しく蔑視されているのである。

 恐らく、彼は潔癖で頑迷な人物であった。自己の「異常性」の上に胡坐を掻いていることが、生理的に堪え難く感じられる人であった。三島の太宰治に対する嫌悪は有名だが、その背景には恐らく、こうした消息が関わっているのだろう。太宰治のような、己の恥辱や悪行を開き直って肯定してみせる手法は、彼にとって赦し難い「惰弱」であったのだ。太宰は、己の「惰弱」を殊更に誇張してみせる「演者」であった。それは三島の「演技」の方向性とは、真っ向から対立する実存の様式である。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 
愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

 

 

「正常さ」への切迫した欲望 三島由紀夫「仮面の告白」

 三島由紀夫の『仮面の告白』(新潮文庫)を読了したので、その感想文を認めておく。

 三島の出世作であり、その代表作の一つにも計えられる「仮面の告白」には、所謂「処女作」に関する使い古された通説が見事に反映されている。つまり、或る作家の処女作には、その後の文学的経歴を予見させる原型的な特質が、残らず象嵌されているものだという紋切り型の常識を、極めて露骨な形で体現しているのである。

 「仮面の告白」という表題の意味は、逆説的な論理を孕んでいる。通常、告白とは秘められた内在的な真実を詳細に剔抉してみせることである。だが、演じることが、つまり外在的な正常性の基準に基づいて振舞うことが血肉と化した人間の告白においては、どこからどこまでが内在的な真実であるのか、その境界線が溶暗してしまっている。仮面と素顔の境目が捉え難くなってしまった人間の告白は、果たして告白と呼び得るものなのだろうか?

 語り手の「私」が、切迫した「演技」への欲望に駆り立てられる背景には、二つの秘められた個人的な衝迫が関与している。簡潔に要約すれば、それは「同性愛」と「サディズム」である。時代の進展に伴い、セクシュアリティの多様性が徐々に承認されるようになってきたとはいえ、未だに同性愛に対する偏見は根深く、男女間の異性愛に依拠した「家族」の原理は、今も社会的秩序の基礎的な単位として強力に作動し続けている。サディズムに関しても、稀釈されたイメージが面白おかしく流布されているだけで、その深刻な側面が社会的な承認を得られる見込みは極めて乏しい。

 「仮面の告白」において、語り手である「私」が特に重視しているのは、同性愛の問題である。彼は自らの内なる男色の欲望を肯定し、開示することが出来ず、飽く迄も異性愛者としての自画像を演じることで、社会的な「正常さ」の規範に合致することを夢見ている。彼は社会的な承認を得られる見込みの乏しい自己の欲望を抑圧し、飽く迄も社会的に「正常な」欲望の所有者として振舞うことを望み続ける。この「正常さ」に対する異様な執着(或いは、常識的な執着)が、彼に「仮面」への欲望を強いるのである。

 但し、社会的に正常であると看做されることへの強固な執着、言い換えれば「優等生」の欲望は、単なる「仮面」への欲望を意味しない。彼が「仮面」を求めるのは、単に外在的な他者、つまり「社会」の側を欺くことだけが狙いではない。それは同時に「自分自身」を欺くこと、絶えざる「自己欺瞞」へ己を導くことを目論んでいるのだ。己の心さえも欺いてしまうほどに根深く受け容れられた「仮面」の齎す滑稽な悲劇が、この作品の主要な旋律である。

 「仮面」と「素顔」との境界線が明瞭に把握され、堅持されている限り、何らかの「仮面」を通じて社会と対峙することは少しも不健全な所業ではない。だが、両者の境界線が溶け合ってしまったとき、問題は一挙に不明瞭な難解さを孕むことになる。「仮面」と「素顔」との融合は、個人の抱懐する欲望の形態に異常な変質を惹起する。それは、欲望が常に外在的な基準によって計測されるようになるということだ。言い換えれば、語り手である「私」が欲するのは、自分の内なる欲望が適切な充足を得ることではなく、飽く迄も社会的な「正常さ」に己の実存を合致させることなのである。

 「仮面の告白」は、同性愛やサディズムといった、必ずしも社会的な承認を得られるとは限らない種類の欲望を懐いたときに、それを正面から見据えて、その充足の為の格闘を成し遂げようとする、清冽で果敢な自己解放の物語ではない。この作品において挫折を強いられるのは、同性愛やサディズムといった「秘められた欲望」そのものではない。彼が最も痛切な苦悶を通じて見出すのは「正常さ」に対する欲望の挫折である。園子との交情を通じて、異性愛者としての自己を再発見しようとする切迫した試みは、異性に対する性的不能という身も蓋もない現実によって、見事に打ち砕かれる。物語の終幕、彼は見知らぬ男の逞しい肉体に反射的な情欲を覚える。それは同性愛者としての自己の肯定や解放を意味する挿話ではない。彼の求める「正常さ」への合致が、不可能な夢想に過ぎないことを報せる残忍な悲劇の一幕なのだ。

 だが、本当の格闘は、園子との完全な訣別の後に始まる筈である。正常さに対する不可能な欲望が、自己に備わった本然の欲望よりも重要な意味を持つと考えるのは、健全な論理ではない。それは殆ど「自意識」の問題に過ぎないように感じられる。男性の肉体を欲する自己を発見したとき、そうした自分を肯定する為に戦うのか、それとも完璧な偽装を図って戦うのか、その判断の分水嶺は重要な意義を帯びている。「正常さ」に対する欲望の挫折に伴って、自殺への憧憬を懐くという心理的傾向は、様々な社会的条件によって強要されたものであろうが、余りに極論であるように見える。彼の懐く「正常さ」に対する欲望は、「正常さ」の内訳に関する訂正を求めないという点で、まさしく「他人の欲望」である。自分の欲望を自分で所有することが出来ないという状態は、地獄に等しい境涯であろう。欲望の充足を他人に妨礙されるのではなく、欲望の対象そのものを他人に支配されるという地獄。

 やがて接吻の固定観念が、一つの唇に定着した。それはただ、そのほうが空想を由緒ありげにみせるというだけの動機からではなかったろうか。欲望でも何でもないのに、私がしゃにむにそれを欲望と信じようとしたことは前にも述べたとおりだ。私はつまり、それをどうでも欲望と信じたいという不条理な欲望を、本来の欲望ととりちがえていたのである。私は私でありたくないという烈しい不可能な欲望を、世の人のあの性慾、彼が彼自身であるところからわきおこるあの欲望と、とりちがえていたのである。(『仮面の告白新潮文庫 p.111)

 彼にとって何かを欲することは、自らの内部から湧き上がる自然な衝迫、抗い難い衝迫に身を委ねることではない。彼にとって欲望は、殆ど克己的な「意志」の働きと同義語なのである。社会的な正常さに対する「不条理な欲望」は、本然の欲望を人工的に改竄し、ストイックな「制御」を常態化させる。言い換えれば、彼は徹底的な「演技」を持続することで、そうした「不条理な欲望」の充足を図るのだ。だが、それは強靭な意志の力によって成し遂げられた、不可解な自己欺瞞の集大成に他ならないのである。

 例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装うことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきかさねばすまぬようになった。裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば、園子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたいという欲求が、仮面をかぶって現われたものかもしれなかった。これでは私は自分を否定することさえ出来ない人間になりかかっているのかもしれなかった。(『仮面の告白新潮文庫 p.141)

 絶えず「正常さ」に対する合致の欲望を持つ人間は、自己の内的な基準を信じることが出来ない。言い換えれば、自己の内的な基準の価値を否定するゆえに、彼らは常に外在的な「正しさ」の尺度を、個人的な行動の規範として欲しがるのである。その状態が持続するうちに、内在性と外在性との間に見出されるべき境界線は消滅し、自我の固有性は混濁の彼方に失われる。そうした自意識の惨劇を剔抉する三島由紀夫の筆鋒の明晰さは、悪魔のように犀利で、とても底意地が悪い。

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

Cahier(衆院選・開票・改革・パフォーマンス)

*先日、衆院選が行われ、当初は政権交代の可能性さえ謳われていた、小池百合子氏の率いる「希望の党」が大幅に失速し、解体した民進党の残党から生まれた、枝野氏の「立憲民主党」が予想外の健闘を見せた。だが何れにせよ、小池氏と前原氏の間で生じた思惑の齟齬が一転して、野党全体への逆風を呼び込んだ事実は動かない。野党共闘の約束を違えた前原氏に対する共産党の志位委員長の怒りは、合理的なものであったことが証明された訳だ。

 今回の衆院選において、小池氏が途中で計算を誤ったことは、客観的な事実であろう。民進党の「合流」という乾坤一擲の際疾い奇策に際し、小池氏が世間の熱狂に水を差すように「排除の論理」を持ち出し、安保法制と憲法改正という二つの踏み絵を公認希望者に強いたことが、政権交代に向けた追い風を瞬時に凍りつかせてしまった。それさえも小池氏の計算の一環であったという証拠は、今のところは発見されていない。

 だが、小池氏の政治的策謀における蹉跌が、国家にとって不幸な出来事であったとは言い難い。少なくとも、選挙戦の過程において、小池氏を進取的な改革派の急先鋒と看做す世間の期待は、大幅に減殺されたのではないかと思う。「排除の論理」によって浮き彫りになった小池氏の政治的体質の内訳は、安倍政権と大差のない、保守的な成分によって構成されている。北朝鮮情勢の悪化に乗じて、アメリカの傲慢な元首に従い、国防の重要性を訴える安倍総理と、本質的な意味で異なるところはない、というのが、現在の輿論の下した判定ではないかと思う。そして、どうせ同じような信条の持ち主ならば、わざわざ不安定な「希望の党」に議席を与えてやる必要もないという醒めた判断が、燎原の火の如く広まったのではないか。小池氏が国政への移行を否定したことも、当初の追い風を鎮める決定打の一つに挙げられるだろう。小池氏が先頭に立たないのならば、一体「希望の党」に如何なる政治的な価値があるというのか。議席を得る為に雪崩を打って党籍を革めた、無節操な政治家たちの「雨宿り」の集団に過ぎないではないか。そうした否定的見解を、巧みに抑圧してきたのが小池氏の手腕である。しかし、肝心の小池氏が首相指名に値する場所へ進出しないのであれば、「希望の党」を国政の場で支援することは破滅的な行為としか受け止められない。誰が若狭氏や細野氏に、国家の首班となることを期待するだろうか。落選した「希望の党」の候補者の中には、戦場に打って出なかった親分への恨み言を並べる者も少なからず存在するようだが、それは見苦しい妄言というものだろう。「希望の党」が、小池百合子という人物の有する魔術的な演技力によって構築された蜃気楼であることを思えば、幻が幻であったことを非難するのは所詮、無様な泣き言に過ぎない。

 だが、俄かに人気が急上昇している「立憲民主党」の人々も、此度の望外の議席増に浮かれていられる状況にはない。リベラルと呼ばれる人々の政治的影響力が、二大保守政党の屹立によって壊滅させられなかったことは、バランスの観点から考えれば素晴らしい結果である。国民の政治的な信条が多様である以上、国政の場においても、様々な考え方を持つ議員が共存することは、デモクラシーの健全な機能を支える重要な礎石となる。

 しかし、リベラルという言葉で彼らの存在を括るのは、余りに粗雑な議論である。自民党に関しても、あの大所帯が悉く一枚岩である筈もない。使い古された図式に頼るだけでは、事態の真相を見究めることは出来ないだろう。

 安倍政権に寄せられる批判の中で最も核心的であると言えるのは、アベノミクスの効果や弊害云々ではなく、その独裁的且つ強権的な政治手法、いや、政治思想を対象としたものである。強硬な手段を用いて、安全保障の大義の下に、特定秘密保護法や安保法制を次々と成立させ、身内や親しい人間には内々に便宜を図る安倍総理の手法は、好意的に眺めるならば、確かに力強いリーダーシップを発揮していると言えるだろう。彼は目的を達成する為ならば、詭弁や強権も辞さないというタイプの人間である。弁舌は達者で、智慧も回るのだろう。第一次安倍内閣の失敗の経験も、今では政治家としての「肥料」として活きているのかも知れない。直接的な因果関係はさておき、世間の景況感は改善し、貿易収支は黒字を続け、足許の株価は高騰の一途を辿っている。良くも悪くも、彼は強固なリーダーシップを発揮して、日本の経済を好転させた政治家、というキャプションに相応しい場所に立っているのである。

 だが、その強引なリーダーシップが、所謂「立憲主義」を軽んじるような独裁のイメージを伴っていることも、厳粛な事実の一つである。与党に抗して枝野氏が創設した「立憲民主党」への追い風が、安倍内閣の強権的で傲慢な手法に対する反発を養分としていることは疑いを容れない。安倍内閣の手法は、立憲民主主義に対する侮辱と冒涜であるという論陣を張ることは、野党の政治的戦略としては自然なものだろう。

 けれども、安倍内閣に対する身も蓋もない「信頼」は侮り難い。彼の風貌が幾ら独裁者の肖像に酷似してきたとしても、景気が回復して雇用が安定するならば文句は言わない、他の政党に託したところで、より良い未来が切り拓かれるとも思えない、と考える人々は少なくない。私も、最優先で考えるのは自身の家庭の幸福と、生活の安定である。そうした庶民の草の根の感情に、野党よりも与党が報いているということも事実なのだ。衆院選の結果は、確かに野党の分裂によって齎されたものだ。だが、仮に野党が一丸となって結集したとしても、与党の優位を覆せたかどうかは分からない。枝野氏は「上からの政治」を「草の根の政治」に変えると大見得を切っている。その理念は美しいが、そうした理念自体が、所詮は「上からの政治」の一環に過ぎないと見限られたからこそ、合衆国ではトランプ旋風が巻き起こったのである。その意味で、立憲民主党の前途は少しも明るくないばかりか、寧ろ茨の道である。

 「希望の党」は、そもそも小池氏の持ち駒の集団のようなものだから、党員たちが代表の責任を問うても無益である。彼らは、小池氏の政治的博打の為に集められた泡銭のような存在に過ぎず、用済みになれば直ぐに離散せざるを得ないだろう。現在に限って言えば、小池氏の悪口を並べていれば気楽かも知れない。だが、仮に小池氏が代表の座を退いたら、あの党の「希望」は直ちに「絶望」に変わり、遠からず解党するに決まっている。そうなったとき、栖を失った議員たちは、何処の軒先へ雨宿りに行くのか。恥知らずにも、自民党の暖簾を潜りたがる人間も現れるに違いない。立憲民主党の急拵えの人気に便乗しようとする風見鶏も現れるだろう。全く馬鹿馬鹿しい限りである。

 小池氏に関しては、政治的パフォーマンスそのものに生き甲斐を見出しているように感じられる。都知事として、築地の移転問題や、オリンピックの事業費問題に無闇に強気な態度で嘴を差し入れたのも、その龍頭蛇尾の成り行きを徴する限りでは、単なる「改革芝居」に過ぎなかったのではないかという風に見える。その点では、安倍総理の方が未だ、筋が通っているように見えないこともない。少なくとも安倍総理は本気で「戦争」に備える為の国政を推し進めているように見える。その為には粗暴な手段も敢えて辞さないと肚を括っているようなところもある。その信念の善悪はさておき、少なくとも単なるパフォーマーではないという点では、小池氏よりも余程信頼に値すると、多くの国民は考えているのではないだろうか。

 因みに、テレビで流れる映像だけを材料に言うのだが、各党の党首たちの中で、最も強かで巧妙な演説を行なっているように見えたのは、公明党の山口氏であった。あの声の響き方、通り方は、如何にも他人の心根に染み込むような、下世話な魅力がある。どうにも絶望的に魅力がなかったのは、社民党の吉田氏であった。あんなに迫力を欠いた声音では、誰も耳を傾ける気になれないだろう。自民党の見窄らしい走狗にしか見えなかったのは「日本のこころ」の中野氏であった。無内容な保守的題目を偉そうに喚き立てるだけの人間に、誰が投票しようと思うのか、彼は本気で政治家を遣る積りなのか、一個の有権者として疑問を覚えた。あんなものは、場末の酒場で垂れ流すだけで充分な内容である。

歪んだ愛の精細な記録 ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」

 九月前半からずっと格闘し続けてきたナボコフの「ロリータ」(新潮文庫)を読了したので、覚書を認めておきたい。

 このペダンティックな文体で織り上げられた稠密な作品を、強いて要約しようと試みるならば、表題に掲げたように「歪んだ愛の精細な記録」ということになるだろう。或いは「両義的な愛情」と呼ぶべきだろうか。だが何れにせよ、そのような言い方で、ハンバートとロリータの関係を手っ取り早く定義してしまうのは、ナボコフの意図を致命的な仕方で裏切ることに帰結すると思う。「ロリータ」という作品に附随するスキャンダラスなイメージも、そのような簡便な要約に類する誤解の一種であると附言しておくべきだろう。

 この作品は発表当初、ポルノグラフィであるという誤解を受け、物議を醸したらしい。確かに、この作品から「ペドフィリア」という主題を抽出することは、如何なる読者によっても容易なことであるし、実際にロリータに対するハンバートの異様な情愛が、作品の中心的な原理として彫琢されていることは事実である。だが、この作品がポルノグラフィであるとするならば、余りにも非効率な構造になっていることに我々は留意すべきだろう。読者の動物的で倒錯的な劣情を喚起し、煽動することが「ロリータ」の主眼であるならば、夥しい隠喩と引用に満ちたペダンティックな文体を殊更に貫徹する理由は生じない。そもそも、ナボコフは「ロリータ」の執筆に際して、露骨な性的描写を殆ど用いていない。彼の文体は常に事態の中心から逸脱するような遠心力に支配されており、直截な描写の代わりに盛り込まれる複雑な暗示は、私たちの精神に対して、素朴な性的興奮を覚える余裕すら与えないほどなのだ。

 英語のみならず、随所にフランス語の表現や、種々の文学的引用が象嵌されている、ナボコフの過度に饒舌な文体は、作者が自ら附した後書きの中で触れているように(同じく巻末の解説で、作家の大江健三郎も触れている)、彼が「英語という言語との情事の記録」を志したことの反映である。ロシア語の揺籃に育まれたナボコフにとって、英語は後天的に習い覚えた異国の言葉に他ならない。その異質な言語との凄まじい格闘=遊戯が、あの独特な文体を産み出す最大の要因となったのであり、ペドフィリアという主題は飽く迄も、その導火線に過ぎない。いや、ペドフィリアという概念そのものが、彼にとっては極めて曖昧で浮薄な代物に過ぎないのである。彼は徹頭徹尾、ハンバートとロリータの関係を書いただけであり、その倒錯的な情愛の形態が、どのような社会的通念によって切り取られるかという問題は、少なくとも作者にとっては、大して重要な論点ではなかっただろうと考えられる。

 この作品の複雑怪奇な両義性は、優れた小説が有している普遍的な特徴と重なり合っている。私たちは、ロリータに対するハンバートの倒錯的な情愛を批判し、蔑視する一方で、その情愛の真摯な側面にも眼を向けるように、作品そのものから迫られている。何れの解釈が適切であるかという議論は、この小説の根源的な両義性の前では、不毛な戯言に過ぎない。「ロリータ」を読むことは、ペドフィリアの甘美な醜悪さを味わうことでもないし、ハンバートの没落を邪悪な歓びを伴って鑑賞することでもない。ロリータの不幸を憐れむことでも、クィルティの血腥い死に様を嘲笑することでもない。重要なのは、ナボコフの綴った文章そのものの目紛しい構造と現象に眼を奪われることなのだ。私にペドフィリアの趣味はないが、少なくとも「ロリータ」を読んでいる間は、ハンバートの歓喜と苦悩を分かち合うことが出来るし、ロリータの絶望的な幸福を理解することも出来る。それらが渾然一体となって、ナボコフの刻みつけた単語の一つ一つに、琥珀のように閉じ込められているのだ。私たちは、その驚嘆すべき魔術をじっくりと咀嚼し、賞味するしかない。無論、それは得難い幸福である。

 詳細な訳注が付されているにも拘らず、それでも未だ私には、理解出来ていない箇所が無数にあり、是非とも再読しなければならないと思う。だが、それはもっと先の話になるだろう。何故なら、再読には読者としての成長が要求されるものだからだ。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

Cahier(期日前投票・パネルクイズ予選会)

*荒天の中、朝から期日前投票に出掛けた。花見川区役所まで、シーサイドバスに揺られていく。同乗者は誰もいない。鬱陶しい長雨が、羽織ったチャコールグレイのコートに少しずつ染み込んでいく。悪天候の休日にわざわざ、バスに揺られて区役所へ向かう物好きなど、そんなに多くはないだろう。

 ところが、バスが区役所に近付くに連れて、事態は異様な変貌を遂げ始めた。普段なら閑散としている区役所沿いの道路が、車列で埋まっている。目的地まであと少しなのに、バスは牛歩戦術を余儀無くされた。ドライバーは苛立っているだろうか。

 週末の区役所は、類を見ない混雑に覆われていた。エントランスの付近には、出口調査を任された報道関係者が屯して、作り笑いを浮かべて有権者たちに挨拶を送っている。二階の投票所から発した列は、既に階段の踊り場まで延びていた。しかも、それは投票を待つ列ではない。投票に先立って行なう宣誓書記入の列なのだ。宣誓書を書いたら、もう一度別の列に並び直さなければならない。聞き耳を立てると、現在30分待ちだという。今回の衆院選はやはり、世間の関心を集めているようだ。

 だが、混雑の理由は投票者の数だけではない。投票を取り仕切る役所側の段取りの悪さが最たる原因であった。狭苦しい階段に、投票待ちと宣誓書待ちの列を両方とも並ばせて、その隙間を投票を済ませた人々が、身を捩りながら降りていく。一体、車椅子の人はどうやって投票すればいいのだろう? 老齢の人々にも、こんな不自由な待機を命じる積りだろうか?

 恐らく、想定を上回る投票者の来館に、全く段取りが追い付いていないのだ。投票所の前の狭い廊下に、折り畳みの長机を壁沿いに並べて、宣誓書の記載台にしているのだが、その配置が全く以て最悪だ。唯でさえ狭い廊下に、投票待ちの行列と、選挙管理のスタッフと、宣誓書の記載台が詰め込まれて、往来も儘ならない。

 この状況を鑑みて、例えば宣誓書の記載台を一階のフロアに移設しようとする気配は微塵もない。ただ謝り倒して、冷汗を掻いているだけだ。このスタッフたちを統率する人間は何処にもいないのだろうか? 方針の変更を号令する気概のある人間は誰もいないのか? 待ち時間の長さと段取りの悪さに苛立ち、捨科白を吐いて帰っていく人も少なからず見受けられた。待たされるなら投票しないという態度も随分と幼稚だが(役所の劣悪なオペレーションと、投票の重要性との間には、何の相関性もないのだから)、苛立つ気持ちは理解出来る。こういう事態が、役所に対する不信と軽蔑を醸成する要因となることは疑いを容れない。

 ところで、今回の衆院選と併せて、最高裁の裁判官の国民審査が行われることは、皆さん御存知だろうか。案内の葉書に、その旨が記載されていることは気付いていたが、事前に予備知識を頭に入れておく手間は省いてしまった。投票所で、罷免したい裁判官の名前の上に罰印を記入しろという注意書きを前に、私は暫し途方に呉れた。記された名前に一つも心当たりがない。こんな状態では、罰印など書ける訳がない。薄っぺらな出来心で、他人の人生に難癖をつける訳にはいかないからだ。己の怠慢を棚上げして言うのだが、政党や政局の話だけではなく、最高裁の国民審査に就いても、もっとマスコミは報道して、情報を周知すべきではないだろうか。無論、最大の難点は、私自身の怠慢に存することは言うまでもないのだが。

 

*午後から、朝日放送の視聴者参加型パネルクイズの予選会に参加した。以前、一念発起してネットで予選会に応募し、音沙汰がないので落選したのだと思い込み、そのまま忘れていたところ、つい先日、案に相違して予選会に当選した旨の葉書が届いたのである。慌てて仕事の段取りを調整し、上司の許可も得て、臨時休業を勝ち取り、午前中に遽しく期日前投票を済ませた次第である。

 会場は朝日放送の東京支社、調べてみると、最寄りの駅は大江戸線築地市場駅、人生で一度も立ち寄ったことのない土地である。地図を眺めてみると、新橋や汐留の直ぐ傍である。私は二十一歳から二十二歳の時期に、新橋の店舗に配属されていたので、漠然たる親しみと懐かしさを覚えた。西船橋から東西線に乗り、門前仲町大江戸線に移る。降り立つと、眼前に朝日新聞社のビルが聳え立っていた(幼少期、実家の両親はずっと朝日新聞を取っていた)。鬱陶しい雨は、少しも止む気配がない。

 予選会の開始時刻まで、未だ一時間を余していた。本館の建物を潜り抜け、小さな喫茶店に入る。パンケーキとアイスコーヒーを注文し、莨を吹かして、静かに気持ちを整える。二十分前に会場のある新館へ入ると、一階の廊下に多数の眼鏡男子(男子と言えるほど、若くはないが)が屯しているところに遭遇した。同じく眼鏡の私も、その集団へ素早く溶け込む。数十人規模の眼鏡の男性が、無言で壁面に沿って並び、一様にスマホの画面を睨みつけているのは、なかなか異様な光景であった。

 定刻になり、係員の案内に導かれ、私たちは列を成してシールタイプの簡易な入館証を受け取り、エレベーターで十階へ運ばれた。殺風景な会議室に通され、やはり無言で席に着く。女性のアシスタントプロデューサーが、控えめな関西訛りで予選会の流れを説明する。最初に自己紹介のシートを三十分かけて各自記入し、その後に八分間全三十問の筆記試験を受けた。ネットに上がっている過去問で修業を積んだ積りではあったが、分かりそうで分からない絶妙な問題が並んでいて、確信を以て答えられた問いは一部に過ぎなかった。それでも空欄は残さなかったので、案外いけるんじゃないかと甘い期待を懐いていたが、十五分間の採点の後、そのぼんやりした自信は見事に殲滅された。合格者は面接の為に別室へ呼ばれ、落第した私たちは即座に解散となった。桜よりも儚く散ったのである。カゲロウよりも短い命だったのである。

 帰り道、築地市場駅の改札を通るとき、ゴムの長靴を履いた短髪の男性を見かけた。風貌から察するに、築地市場にお勤めの方ではないだろうか。私もまた、荒天に備えてコロンビアの長靴を履き、坊主頭である。まるで市場関係者ではないか。

Cahier(反復・学習・詩歌・単一性)

*子供は同じ遊びを執拗に繰り返すことを好む。一度気に入れば、無際限に同じ行為を反復して、嬉しそうに笑い声を立てるのが、小さな子供の普遍的な習性である。そうした行為に付き合わされる大人は、時にうんざりして溜息を吐きたくなるだろうが、子供にとって「反復」は「認識」を生み出す為の大切なプロセスである。

 たった一度の「出来事」が「認識」を形作ることは難しい。「奇蹟」は「認識」を齎すのではなく、寧ろ「認識」の不可能性を告示する現象である。たった一度しか味わうことの出来ない「経験」を「認識」に昇華させることは難しい。だが、繰り返される「経験」は「認識」として組み立てることが可能である。何故なら「認識」は常に「経験」の関係化として営まれるものであるからだ。

 或る感覚的な経験の断片が、反復を通じて記憶の領域に蓄積されていく。反復されることによって、或る経験が他の経験との間に「関係」を持っていることが確認される。その果てしない累積が、人間の思考を形作っていく。子供が同じ遊びを幾度も反復するのは、単にその遊びを気に入ったということだけが理由ではない。それは人間の「知性」に備わった固有の衝動なのである。その衝動が、経験の「反復」を要求するのである。

 

柄谷行人の「坂口安吾論」(インスクリプト)が届いたので、寝る前に少しずつページを繰っている。未だナボコフの「ロリータ」を読み終えていないのに、浮気しているのだ。先日は新たにミハイル・バフチンの著作をAmazonで注文してしまった。無論、現在の正妻は飽く迄もナボコフであって、バフチンではない。

 小説を、様々な性質の「言語的表現」が交錯する「往来」若しくは「広場」として定義すること、柄谷行人の言い方を借りれば「交通」の現場として捉えること、そして、そのような小説的原理に対置されるべきものとして「詩歌」を捉えること。これが先日来、私の脳裡を満腹の鮫のように緩慢な速度で泳ぎ回っている「主題」である。以前にも、このブログで記事に纏めたことのある、普遍的なテーマだ。

 単一的なロゴスの支配を許さないことが「小説」の条件であるという考え方は、少なくとも「小説」の定義を「言語化された虚構」に求めるよりは遙かに建設的な方針であると思う。翻せば「詩歌」を構成する原理は、統一されたロゴスの美しさに基づいていると言えるだろう。小説においては、複数の異質な他者の声が交響曲のように入り混じり、調和したり不協和音を奏でたりすることで、その芸術的価値が構築されていく。だが、詩歌は原則として特定の個人の純然たる「自己」から紡ぎ出されるものである。小説においては、ロゴスの単一性は承認されないが、詩歌においては寧ろ、ロゴスの単一性こそが、その芸術的価値の純度の高さを証明する重要な基準として適用されるのである。

 バフチンの著作を購入したのは、有名なキータームである「ポリフォニー」と「カーニバル」を駆使して、小説の本質に就いて縦横無尽に論じていると小耳に挟んだからである。バフチンの名前自体は随分昔から耳に残っていたが、実地に繙読した経験はない。何れにせよ、ドストエフスキーの小説を殆ど読んでいない私が、いきなりバフチンの著作に着手しても、その魅力は半減してしまうだろうと思われる。暫く二階の物置で熟成されることになるだろう。無駄な買い物だと難じられるかも知れないが、繙読の機が熟したときに、直ちに手を伸ばせる場所に該当する書物を確保しておくのが、案外大事な心掛けなのである。

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

 
小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))

小説の言葉 (平凡社ライブラリー (153))