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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

創作「刃皇紀」

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 7

開け放たれた出窓から吹き込む夜風が、血腥い喧噪を運び、総身を包んだ。手摺を掴んで身を乗り出した途端、地鳴りのような砲声が耳を打つ。遥か彼方から、アラルファン軍事局の哨戒塔が巨大な啌気燈を紅く閃かせて、耳障りな警鐘を狂ったように打ち鳴らすの…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 6

掌を通じて、熱い水脈のようなものが徐々に流れを強めつつあるのが明瞭に感じられた。慣れ親しんだ感覚であることは間違いないが、今回は特に念を入れて集中力を高めている。指先から爪先に至るまで、濃密な念気の奔流が行き渡り、呪刀に漲る無数の呪子の波…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 5

狭苦しい居室に、無数の見えない斬撃が走っていた。互いに呪刀を抜き放って構えたまま、一歩も動かずに間合いを測り合う二人の視界には、凡そ考え得る限りの刀剣の軌跡が映じている。荒事に慣れた闇守の兵卒たちが悉く捻じ伏せられたという前評判を信じる限…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 4

開かれた扉の隙間から姿を現した若い女の露わな胸許に、ラシルドは面食らって踵を返しかけた。女の頬には涙の筋が羅(うすもの)の切れ端のように浮かび、その眼差しは見知らぬ闖入者への警戒心を漲らせて鋭く引き締まっている。 「誰なの」 尖った声音に滲…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 3

「ペンブロードの連中か」 窓辺を覆う華美な帷帳の端を捲って戸外の様子を確かめた後、ムジークは直ちに総てを了解した。三年に及んだ長い雌伏と播種の努力が、漸く収穫の季節を迎えたという訳だ。ティリアを攫えば、年老いても情欲の滾り立つ焔を御する力を…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 2

四方八方から白刃の咬み合う鋭利な音響が飛び交い、どすの利いた唸り声が犇めき合う敵手を恫喝する為に次々と鼓膜を突き上げてくる中を、三人は息を殺して俊敏な蜘蛛のように音もなく走り抜けた。誰もが乱闘に夢中で、視界に入り込む積年の宿敵を公然と斬り…

「刃皇紀」 第十三章 矜りと祈り 1

日付の変更を告げる闌刻鐘の暗鬱な響きを合図に、それまで暗がりに身を潜めていた夥しい数の武装した悪漢たちが、洞々たる闇を殺意に揺るがせて走り出した。遅かれ早かれ警事局や軍事局の役人に騒擾を悟られるとしても、当面は成る可く周囲の関心を惹かぬよ…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 8

咆哮と共に、地を這う蛇のような俊敏さで駆け出した二人を、滑らかに動き回る砲身が追い掛ける。マドンの唇に不吉な嘲笑が弧を描き、その指先が発射桿を力強く押し込むと、轟音が広がって砲口が火を噴いた。弾頭は爆発的な速度で虚空を劈き、呪草の生い茂る…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 7

帝領ゲルチェンは、パシニア大陸東岸から広大なセゾルニア洋を隔てて、セゾルニア大陸西部の沿海州に位置する緑邦帝国の属州である。元々は土着のコルメイル人が治めるゲルチェン王国の版図であったが、雷声帝の祖父に当たる秋霜帝ゴーヴァ・グリイスの時代…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 6

「ガーシュくらい吸わせてくれよ。逃げも隠れもしないからさ」 手近な葉叢に腰を埋めて胡坐を掻き、不敵な面構えを二人に向けて、サヴァイムは横柄な要求を口に出した。気の荒い警事官の蟀谷に青筋が立つのを視界の端に捉えたが、今更見苦しい命乞いや奴隷紛…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 5

タイリン平原の南東に位置し、エレドール沙漠の西端に接するラルドー湖は、国内屈指の面積と水量を誇る湖沼である。北東のカネシア山系に発するコルミダ河と、グリシオヌス連峰に発するバルクール河の夥しい支流によって形成され、沙漠化の亢進が著しいエレ…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 4

枯れ枝のような痩躯を引き摺って運びながら、ナイラーミーは静まり返った無人の大路を先に立って歩いた。その緩慢な歩行に付き随いつつ、カゲイロンは行く手に聳え立つ石積みの建物へ視線を投じた。 「大昔、あの場所には、湖畔の民の神殿が置かれておった」…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 3

八軒目の民家で漸く、一行は嗜眠症の禍いを免かれて覚醒を保っている人間と邂逅することが出来た。余りに長い歳月を堪え抜いてきた為に損傷の著しい木製の引き戸を開け放つと、不意の物音に弾かれたように顔を上げて、老齢の痩せ衰えた男が、使い古された鏃…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 2

掖門の鉄扉を押し開けると、腐った蝶番が軋んで金属の欠片が木炭の粉のように細かく散った。大柄なカゲイロンが先頭を切って上体を屈め、掖門を潜り抜けると、静まり返った集落の生温い空気が頬を湿らせるように覆い被さった。 「誰も歩いてねえな。影も形も…

「刃皇紀」 第十二章 引き裂かれた人々 1

「分かるか」 接収して間もない雷声宮の一室で、救国の功臣である殉国隊士たちは、春影帝セファド・グリイスの謁見を賜っていた。真新しい錦の帝袍(王族の礼服)を纏った精悍な皇帝は、陣頭に立って軍刀を振り翳し、兵士を鼓舞していた頃の埃っぽい軍服姿と…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 6

ティリアは幼少の砌から、周りの人間に「美しい」と称讃されることに慣れ切っていた。 帝国北部、ジルクラフとの国境に近いミスルカという田舎町から、東の山間へ分け入った傾らかな斜面に、彼女の生まれたトレダ村はあった。山腹を切り拓いて均し、痩せた土…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 5

深沈たる夜気に包まれたアラルファンの街路を、三人は黙々と歩き続けた。疎らな啌気燈に照らされて、漏れ出す吐息が白々と光る。 「後悔はしないな」 低い声で不意に問い掛けられて、フェロシュは鋭い視線をちらりと放った。 「今更、悔やむことなど何もあり…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 4

「凄まじい剣幕だったな」 静まり返った黒い板張りの廊下を別室へ導かれながら、ラシルドは複雑な苦笑を口許に滲ませた。幾らコートフェイドが抗争の忌避を画策したとしても、絶対的な権力を有する家頭が強硬な方針に固執する限り、両家の血塗られた衝突を免…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 3

先に立って歩くコートフェイドの背中を追って、ラシルドとフェロシュは上階へ通じる螺旋階段を登った。大兄の権勢に威圧されて辛うじて暴発を踏み止まったヴィオルたちの敵意に満ちた視線が、背後から幾重にも折り重なって飛んでくる。 「余計な揉め事は避け…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 2

煌々と燈された篝火に、狼の髑髏を模った不吉な紋章が照らし出されていた。界隈に建ち並ぶ豪華な邸宅の数々は総て、ペンブロード家の一門の所有である。その中でも一際大きな屋敷の門前に、間違っても堅気には見えぬ禍々しい気配を纏った男たちが、人影の絶…

「刃皇紀」 第十一章 影蜘蛛 1

闇守の末裔に仕える影蜘蛛たちの栖は地下隧道の中でも一際深く潜った層にあり、水脈に近い所為か、常に濃密な湿気が蟠っている。グルタエに導かれ、ラシルドとフェロシュが足を踏み入れたペンブロード家の蜘蛛孔(くもあな)は、間口の狭さとは裏腹に奥行き…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 6

幌屋根から路地へ身を躍らせたガルウジアの命脈は、幸運なことに未だ尽きていなかった。肋骨が一本砕けた以外には目立った傷もなく、警事局の医務室へ担ぎ込まれ、ミランサ・リャーグから派遣された医者の手当てを受けているうちに、酷使した肉体の疲弊に攫…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 5

「早く野次馬どもを下がらせろ!」 胃の腑から突き上げるような大声で、ヴァルクリフは付き随う騎馬保安部の警事官たちを叱咤した。急報を受けて馳せ参じた彼らの行く手には、すっかり頭に血を上らせたファイサ・リャーグの人々が狭い路地に犇めき合って、口…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 4

「お前はラルダドラドの人間か」 幌屋根の頂から突き出した棟頭(むねがしら)と称する部材に縋りついて、男は懸命に立ち上がった。然し、先刻まで驚異的な脚力を示していた下肢は頼りなく顫え、真直ぐに背筋を伸ばすことさえ難しい様子であった。 「未だ逃…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 3

ボルワンの屋敷を辞去する頃にはもう、辺りは一面の夜陰に覆われていた。頭上には大振りの湾刀のような灰色の三日月が浮かび、寝静まった路地には人影もない。 「なかなか根深い問題のようだな」 エトルースが呟くように投げ掛けた言葉は、不機嫌な表情で口…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 2

ミランサ・リャーグの族長であるプルドムの屋敷は、軒の低い幌屋根の家並が目立つドレイナには珍しい複層の堅牢な建物で、太い門柱には紫の奔馬の紋様を染め抜いた幟が掲げられ、草原を渡る夕刻の涼風にゆったりと靡いていた。 「我々はドレイナ警事局から依…

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 1

市域北端の駅舎と南端の警事局を結ぶイレファバン大路を除けば、ドレイナの街並を縦横に走り抜ける道筋に凡そ計画性といった概念は見当たらない。元々、タイリン平原を転々と移り住む遊牧民であったドラン人たちが、牧草の枯れ果てる厳冬の季節を乗り切る為…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 7

アラルファンで家頭の娘に生まれつくということは、様々な特権に恵まれた高貴な階級の者として生涯を歩むことに他ならない。太祖緑邦帝アルヴァ以来、青雁帝マシヴァ、黄駿帝オルダーリ、黒剣帝クセルーザ、赤蘭帝ヘイルシーと続いた積極的な外征と侵略の時…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 6

鋼鉄の滑車が重々しい音を響かせて回り、樹幹のような太さの縄が張り詰めながら、隧道の暗闇へ少しずつ昇降機を沈めていく。今でこそ滑車の操作には呪動機を用いているが、往古は逞しい闇守の人夫が手動で上げ下ろしの作業に従事していたという。 「この辺り…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 5

「待てと言ってるだろう、フェロシュ」 午刻を迎えたファンセバロ大路は、昼餉の物色に出掛ける人々で酷く混み合っていた。アラルファンにおける行政の中心地であるだけに、行き交う人々の過半は高価な官袍を纏った役人で、肌や瞳の色から察するにグリシオン…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 4

翌朝、アラルファンの市街地は透き通るような秋晴れの蒼穹に恵まれた。ダルメイン地区の安宿に泊まり、黴臭い毛布を被って中綿の薄い蒲団で寝苦しい一夜を過ごした二人の眼に、乾いた光は神々しいほどの目映さで突き刺さった。 「この街にも、聖堂があるのか…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 3

呪刀を握り締める指先が、憎しみに顫えた。殺された父親の、飛び散った鮮血と手足。ペンブロード家の経営する娼館で受けた性的技巧の教育。奴隷として送り込まれた軍務官の邸宅。果てしなく長い夜の反復。血流が劇しい音を立てて逆巻き、今にも血管が破れそ…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 2

警務官に見咎められる前に二人は血腥い喧嘩の現場を離れ、一夜の宿を探して賑やかな通りを歩き回った。酒場や娼館、賭場の犇めくダルメイン地区は、固より東部地方随一の歓楽街として知られ、市域の随所に花街を含むアラルファンの中でも、最も殷賑を極める…

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 1

長く美しい髪を乱して、女は路上へ派手に倒れ込んだ。口の中を切ったのか、唇の端から血が滴っている。その姿を見て、附き添いの若い男が懐から幅広の匕首を取り出して身構えた。溝の底のように暗く濁った瞳には、噎せ返るような屈辱への怒りが閃いている。 …

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 6

「まあ、座ってくれ」 勧められて腰掛けた継ぎ接ぎだらけの布張りの長椅子は、底無し沼のように深く沈み込み、客人の重みに堪えかねて滑稽な悲鳴を上げて軋んだ。局長室とは名ばかりの質素な部屋は、壁の彼方此方に黄ばみが目立ち、天井には雨漏りの汚点が幾…

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 5

帝国における鉄路の発祥は、アレス盆地とヴォルト・アクシアを結ぶクヴォール本線であり、その主要な任務は呪工品の運輸であった。キグナシア同様、呪工業の盛んなヴェロナ半島でも、夥しい貨物と鉱夫を運ぶ為に、ノルダーテンとレウ・ヴェロナを繋ぐヴェロ…

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 4

峻険な連峰を踏み越えると、行く手に広がるのは帝都アルヴァ・グリイスを擁するタイリン平原である。グリシオヌス連峰に発する二つの大河、バルクールとデフォルーの恵みを享けた大地は、乾燥した気候ゆえに大規模な農耕の定着には至らず、古くから遊牧民の…

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 3

「全く年寄りってのは大したもんだぜ。こんなオンボロの泥舟で、最新鋭の軍艦を振り切っちまうんだからな」 不覚にも右肩に蒙ってしまった浅い刀創に繃帯を巻いてもらいながら、カゲイロンは舵輪を握り締める老婆の痩せた背中を眺めた。 「何を言ってるんだ…

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 2

徐々に日の傾き始めたコントラ湾の穏やかな海面に、その巨大な艦影は如何にも不釣り合いな無骨さと威圧感を備え、異彩を放っていた。海神グリーフの遺した旧式の呪鉱船とは比べ物にならない体積を持ち、舳先から船尾までの全周を厳めしい艦載砲で飾り立てた…

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 1

ヴェロヌス警事局の巡視艇が骨董品の呪鉱船を見つけたのは、午後三時十六分であった。不審に思い、追跡を始めると、呪鉱船は瞬く間に速度を上げた。呪動機を全開にして距離を縮めに掛かった巡視艇の乗組員たちは、不審船の甲板に堂々と佇立する帯刀した男の…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 7

鏡に映った自分の顔は、随分と老いて見えた。脂の抜けた髪、皺の寄った眦、乾いた唇。思えば宮中に出入りする帝妾たちのように着飾ることもなければ、市井の女のように日々の身繕いを習慣とすることもない半生を過ごしてきた。仕事に没頭し、手入れを怠って…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 6

巡察士という職業は、緑邦帝国の急激な勃興の所産である。緑邦帝アルヴァの建国戦争から黒剣帝クセルーザの南方戦争に至る百年間は、黎明期の帝国に版図の爆発的な拡大を齎した。創設から間もない警務庁には、旧ボルゼエレ帝国に出没する夥しい罪人を残らず…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 5

西部地方の乾燥した大地には四六時中、砂埃が舞っている。帝国辺境管理軍の本拠地スヴァリカン要塞が立地する広大なカシュート平原も、その大半は茫漠たる曠野であり、樹木の類は、西端のティガル河流域まで足を運ばないと見られない。 「一体、その若造は何…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 4

「パレミダ。無事だったのね」 落ち着いた飴色の長い髪を後ろできつく束ねた女は、穏やかな声で言った。不安と悲観に満ちた長大な時間を堪え続けた痕跡のように、言葉の端々に安堵の響きが籠っている。 「当たり前だろ。課せられた使命を果たすまでは死ねな…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 3

複雑に折れ曲がった廊下を、ファジルとパレミダは黙々と歩き続けた。壁に埋め込まれた啌気燈の白い光は蝋燭よりも仄暗く、視界を確保する助けにはならないが、眼を凝らし、掌で触れる限り、天井も床も壁も液化岩を噴き付けたように滑らかに舗装されている。…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 2

「いらっしゃい」 路地裏に面した見窄らしい居酒屋の扉を開けると、板場で魚を焼いていた髭面の男が顔を上げた。バルリの店に比べると随分狭苦しいが、棚に並んだ酒の種類は眩暈がするほど豊富だ。表の喧噪とは裏腹に、客は一人もいない。 「酒なんか呑んで…

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 1

帝都アルヴァ・グリイスは、六百年に亘り、緑邦帝国の中枢として栄えてきた壮麗な古都である。太祖緑邦帝の名を冠した王城は、幾重にも連なる環状の城壁で仕切られている。最も中心に位置する「シオルダの城壁」はその名の通り、青雁帝シオルダの時代に建設…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 6

沖合に出た船は、黄ばんだ帆を広げ、吹き抜ける潮風を一杯に頬張った。仲間と呼び交わすウミナリツバメの甲高い鳴き声が、青天白日の海原へ響き渡る。 「此処からヴェロヌスまでどれくらい掛かる?」 カゲイロンが訊ねると、老婆は舵輪を握り締めたまま、天…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 5

「気を付けるんだよ。足許は滑り易いし、尖った岩が天井から突き出してるからね」 老婆の翳す古びた啌気燈の光が、湿っぽい洞穴を灰色に染める。林の小径よりも更に不安定な足場に苦労しながら、一行は少しずつ闇を掻き分けて慎重に進んだ。暗い洞窟の奥には…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 4

木蘭亭の胡桃色に汚れた雨曝しの引き戸を開け放つと、退屈そうにガーシュを燻らしていた老婆の瞳が、狡賢い鼠のように此方を一瞥した。弛んだ瞼が緞帳のように黒眼へ被さっている。相変わらず、客の気配はしない。 「忘れ物かい」 「あんたに訊きたいことが…