サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

創作「刃皇紀」

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 5

「気を付けるんだよ。足許は滑り易いし、尖った岩が天井から突き出してるからね」 老婆の翳す古びた啌気燈の光が、湿っぽい洞穴を灰色に染める。林の小径よりも更に不安定な足場に苦労しながら、一行は少しずつ闇を掻き分けて慎重に進んだ。暗い洞窟の奥には…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 4

木蘭亭の胡桃色に汚れた雨曝しの引き戸を開け放つと、退屈そうにガーシュを燻らしていた老婆の瞳が、狡賢い鼠のように此方を一瞥した。弛んだ瞼が緞帳のように黒眼へ被さっている。相変わらず、客の気配はしない。 「忘れ物かい」 「あんたに訊きたいことが…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 3

翌朝、窓から射し込む光に瞼を叩かれて目を覚ますと、隣で眠っていたイスナの姿が消えていた。ぼんやりと霞む意識を引き摺って上体を起こし、卓子へ抛り出しておいたガーシュを掴んで銜える。散歩にでも出掛けたのだろうか。自然の神秘に恵まれた片田舎の孤…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 2

静かな夜というのは、危険な時間だ。コントラ湾の穏やかな海に浮かぶハーディラー島は、サルファンが長年暮らしてきた港町イシュマールの喧噪とは比較にならない沈黙に満ちていた。開け放たれた窓辺から聞こえて来るのは単調な潮騒の音、生温い夜風の音、宿…

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 1

サルファンたちがハーディラー島の小さな港に船を停める頃には、豪奢な夕陽は既に海原の彼方へ没し、黒檀色の夜陰が辺りを隈なく領していた。桟橋を伝って陸に上がると、島の中心部に聳え立つレネシーカ山の斜面に、家の灯が疎らに散っているのが見える。観…

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 5

「呪波弾?」 耳慣れぬ単語に当惑するヘイゼルに、マスティーヴァは険しい顔で頷いてみせた。 「本庁の兵器開発局にいたマドン帥刀官の発明らしい。咬み砕いて言えば、次世代型の呪合弾だな」 呪合弾とは、帝国軍務庁陸戦院兵器開発局長のマドン帥刀官が創案…

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 4

インヴォルグ中継基地の地上十四階から十六階までの空間は「総務管理階層」と称する。最上階の管理長室を筆頭に、基地の心臓部である要塞総務部室など、管理者たちの執務室が集まる重要な領域である為、立入に厳しい制限が課せられる「甲種機密区域」に指定…

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 3

インヴォルグ中継基地は、エレドール沙漠の曠野に聳え立つ巨大な軍事要塞である。エレドール沙漠管理軍の管轄下にあり、日夜、軍事演習や新型兵器の性能試験に明け暮れている。外部との往来は専ら地下に敷設された軍用軌道に支えられており、地上を行き交う…

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 2

軍用特別急行列車「ウルムグラン号」は、東部地方の基幹都市であるキグナシアを発ってから、一度も太陽の光を浴びずに闇に閉ざされた線路を轟音と共に走り続けた。不慮の軍事的攻撃から車両と兵員を守る為に、地下へ敷設することが原則とされている軍用軌道…

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 1

市域西部のエルディンス地区に位置するキグナシア駅は、東部地方有数の鉄路の要衝である。リーダネンを経由して帝都地方へ向かう列車、東のヴォルト・アクシア方面へ向かう列車、南のイシュマールやカリスタへ向かう列車が乗り入れる合流地点であり、取り扱…

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 4

「日没まで時間がない。夜更けの海を、こんな小さな船で動き回るのは危険だ。何処かの島に船を停めて、夜を明かすのが一番だろう」 艫に陣取り、呪動機の調整と操舵に当たっていたエトルースが、行く手に広がる壮麗な落日に眼を細めて言った。穏やかな夕凪の…

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 3

西日の射し込む部屋に座り込んだイスナは、肌を蒼白に染めて顫えていた。扉が開き、サルファンと眼が合った瞬間、堰を切ったように大粒の涙が頬を伝い、襟首へ染み入る。覚束ない足取りで立ち上がり、恋人の胸に顔を埋めて嗚咽する華奢な背中を、彼は励ます…

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 2

水底に潜ったような息苦しさが、胸から下腹を覆っていた。痺れるような痛みが、頬に蟠っている。ゆっくりと瞼を開くと、剥き出しの無骨な梁が橙色に染まっているのが見えた。 (此処は何処だ) 起き上がろうにも、躰に力が入らない。鉛を鋳込まれたように筋…

「刃皇紀」 第四章 平穏の終わり 1

夏祭りを終えたイシュマールの街は、三日間の「黙祷節」に入る。祭礼の為に地上へ降臨した神々が、無事に天宮へ戻れるように、敬虔な祈りを捧げるのだ。黙祷節の間は漁師も商人も仕事を休む。最大の書き入れ時を乗り切った「海鮮のラシルド」の従業員たちも…

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 5

「俺が貰ってよかったのかな」 ティルダ地区の軍用鉄道管理隊庁舎へ引き返す途次、ファジルは腰に帯びた呪刀の重さを持て余すように呟いた。 「貰ったんじゃない。借りてるだけだ。友人の形見だと言ってただろう」 「そうだけどさ。大事なものなのに、本当に…

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 4

キグナシア市内を南北に縦断するインフェザー大路は、貴瑪公インフェザー・キグナスの時代に整備された幹道である。貴瑪公は猛将として知られ、麾下の騎兵隊は敗北の二字と無縁であった。捷報の度、人々は大路に集い、歓呼を以て凱旋する勇士の戦列を出迎え…

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 3

「此処が、私の研究室だ」 呪工学部棟の一階、歩廊の最も奥まった場所にある扉に、リケイムの名を記した銘板が掲げられている。扉の上部に刻まれた鉄鎚とアレスワシ(キグナシア地方の固有種である鷲の名)の紋章は、この大学がキグナス公家の肝煎りで建設さ…

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 2

「ちゃんと前を見て歩かないと、怪我するぞ。気位の高い庁務官様に肩でもぶつけたら、どんな言いがかりをつけられるか、分かったもんじゃないんだ」 軍用鉄道管理隊の庁舎を出て、昼餉の為に手頃な食堂を見繕って歩きながら、パレミダは栗色の髪を揺らしてフ…

「刃皇紀」 第三章 追跡の始まり 1

キグナシアは、アレス盆地に築かれた古都であり、建国戦争以前は、キグナシア公国の首府として栄華を極めた。太祖アルヴァ・グリイスの時代に、緑邦帝国はキグナシアに侵攻し、星璞公(せいはくこう)フェノゼヴェ・キグナスを降伏させ、その領地を併呑した。…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 6

「警事局の者だ。全員動くな」 威圧的な怒号に頬を叩かれたように、人々は口を噤んで動きを止めた。誰もが怯えた瞳で警務官から眼を逸らし、救いを求めるようにラシルドの顔を見凝める。 「昨夜、港で起きた大量殺人の事案に就いて訊ねたいことがある。店主…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 5

「治安維持を担う軍務庁の外局。表向きは帝都の公安を担っているけれど、実際には野犬の塒みたいなものよ」 壁に凭れたまま、フェロシュが紅髪を掻き揚げて無造作に口を開いた。 「戦後、帝国辺境管理軍のアルファゲルは軍務庁掌に、帝都治安本部紫衣隊のメ…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 4

「突然、呼び出して悪いな」 夜明けを僅かに過ぎたばかりの仄暗い厨房で、ラシルドは集まった従業員の顔触れを確かめるように睥睨した。中には昨夜の酒が抜けないまま、不精髭の伸びた蒼白い顔を携えて更衣室から這い出してきた者もいた。誰もが唐突な召集に…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 3

「隊長は、帝都になんか行きたくないでしょう。色々と思い出してしまうから」 白桃酎を二口ほど啜った後で、フェロシュが問い質すように口を開いた。 「行きたくないとは言わない。少し時間が欲しいだけだ」 「嘘ですね。あたしには分かります」 淡々と語る…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 2

イシュマール聖堂では毎年七月下旬に、航海の安全や水産の豊饒を願う例祭が催される。正規の名称は「海神祭」であるが、地元では慣習として「夏祭り」と呼ぶ。同時期に、エルナ島でも神子エルレジュの祭礼が行なわれる為、イシュマールは観光客を乗せた船便…

「刃皇紀」 第二章 夏祭りの夜 1

揚物屋「海鮮のラシルド」は正午の書き入れ時で、風通しの悪い厨房に閉じ込められたサルファンは、引切り無しに滴る汗を拭いながら、油鍋と熾烈な格闘を演じていた。幾ら揚げても、品物は瞬く間に大皿から消えていく。注文する順番を巡って店先で気の荒い客…

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 5

篝火が消え、黒衣隊が残らず立ち去った後で、ファジルは茂みから這い出した。葉叢の蔭から見た光景が、無限に繰り返される悪趣味な芝居のように、強張った眼裏から消えてくれない。呪刀を納めた黒衣隊士の冷え切った瞳。硬い軍靴の先でジェリハスの頬を蹴り…

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 4

木切れの爆ぜる音が聞こえた。燃え盛る篝火を囲んで、軍服に身を固めた男たちが、ガーシュを喫んでいる。 (六人か) 帝都治安本部黒衣隊。本来は、帝都アルヴァ・グリイスの治安維持に携わる軍務庁の外局だが、雷声帝の御世に、その職権を大きく拡大されて…

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 3

古びた家は、劇しい焔に巻かれていた。紅蓮の牙が轟々と荒れ狂い、下生えにまで燃え移っている。誰かの喚き散らす獰猛な声が、夥しい黒煙と、火の粉の爆ぜる音に紛れて、鼓膜を貫いた。 「親父!」 猛然と駆け寄ったものの、焔の勢いが強過ぎて近づけない。…

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 2

火の燈った居間に入ると、ファジルは仏頂面でガーシュを吹かしていた。開け放たれた窓から流れ込む夜風が、卓上の古びた油燈の灯影を漣のように揺らして通り過ぎていく。 「膨れっ面はよさないか、ファジル。客の前だぞ」 宥める為に発した言葉は、鋭い眼差…

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 1

猛々しく迸った己の悲鳴に驚いて、ファジルは不穏な夢から眼を覚ました。見えない指先に心臓を押え付けられているかのように、胸底へ重苦しい痼りが沈み込んでいる。じっとりと汗ばんだ総身に、開け放した窓から忍び入る夜風が柔らかく触れる。起き上がり、…

「刃皇紀」 序章 月夜の夢告

それは、いやに明瞭な夢であった。 群衆の騒めきが、街路を往く彼の鼓膜を聾した。夏の光が洪水のように氾濫し、視界を白く暈かす。人々は、異様な興奮に呑まれている。歓声、怒号、悲鳴、絶叫が入り混じり、勇壮な旋律の歌声が方々から聞こえる。何か大きな…