サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

創作「夏と女とチェリーの私と」

小説「夏と女とチェリーの私と」 10

長谷川が退職してから、予備校の内部では知らぬ間に水道管の継ぎ目が地中深くで不意に破れるように、何処からか紗環子先輩との後ろ暗い噂が無数の背鰭や尾鰭を伴って流れるようになった。それなりに年齢の進んだ冴えない男が俄かに職業を鞍替えするのは、世…

小説「夏と女とチェリーの私と」 9

思わず振り上げた拳を間抜けな顔で眺める長谷川の腑抜けじみた態度が猶更、気に食わなかった。己の犯した罪悪の重大さを少しも理解していない愚か者の醜さが、そのときの長谷川の総身から放射能の如く濫れ出ていた。そのことが、消え残った私の薄弱な理性に…

小説「夏と女とチェリーの私と」 8

「俺は仕事を変えようと思ってるんだ」 一頻り注文して、酒も幾度か注ぎ足してもらった後で、すっかり日に焼けた蛸のような色合いに目許を染め上げた長谷川は、私たちが事前に予想もしなかったことを出し抜けに言い放った。 「仕事を辞めて、実家へ帰る。親…

小説「夏と女とチェリーの私と」 7

至極当然のことながら、先輩は予備校講師のアルバイトを辞めてしまった。本人は病室に幽閉されたままらしく、代わりに先輩の母親が菓子折を持って挨拶に来た。不幸な事故に巻き込まれた立場であるのに、仕事に急に穴を空けて御迷惑を掛けたからと、先輩の母…

小説「夏と女とチェリーの私と」 6

「足首を捻挫したって聞きました。肋骨にも罅が入ったと」 「それは大して重要な問題じゃないわ」 怖々と切り出した私の言葉に向けられた先輩の突き放すような態度は、私の当惑と混乱を益々募らせた。重要な問題ではないと態々断る背景に、重要な問題は別個…

小説「夏と女とチェリーの私と」 5

劇しい蝉時雨が幻聴のように街路樹を濡らし、暑苦しい目映い光の中で総てが溶け合うように息衝いていたあの夏、終戦記念日を過ぎて間も無い或る月曜日に、私は夏期講習の手伝いの為に職場へ赴いた。自転車のチェーンが油切れの所為でぎしぎしと不快な音楽を…

小説「夏と女とチェリーの私と」 4

眠れない夜。堪えられなくなり、訳もなく寝静まった百万遍附近の路地を歩いてみる。夏の生温い夜風が肌を洗い、私はどうにもならない胸底を何処かの工務店に頼んで舗装し直してもらおうかと馬鹿馬鹿しく考えてみるほどに憔悴していた。ボロボロに荒れ果てた…

小説「夏と女とチェリーの私と」 3

「勉強が嫌いな子供たちに、どうやって考えたり、学んだりする歓びを、教えてあげられるか、って、思ったりする?」 不意に投げ付けられた的外れな質問に、唇が自然と乾いて、焦りが血管を駆け巡り、耳障りな音を奏でる。優等生の清々しい香気が隅々まで染み…

小説「夏と女とチェリーの私と」 2

二十歳の私は、蒸し暑く物狂おしい京都の日盛りの道を、黙々と歩いていた。大学を辞めて、空っぽになった身も心も、持て余しながら、耳障りな喧噪、人々の話し声、生温く湿った熱風、熱り立つような陽射し、それら様々な事象の混淆に、打ちのめされるように…

小説「夏と女とチェリーの私と」 1

河原町四条の繁華な通りを、私は黙って歩いていた。夏の日のことである。 塾の講師とは言いながら、要は時給で雇われた使い走りで、何しろ二十歳になったばかりの若造である。鍋底のような、茹だる暑さに全身を苛まれて、とぼとぼと歩きながら、私は無性に闇…