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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。 無論、あらゆる「美しさ…

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の…

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様…

己の「無明」を悟るべし

新聞記事やテレビの報道番組などでも、よく見かける慣例の一つに、「破綻」という単語を「破たん」と表記する、というものがある。私はあれを眼にする度に何とも歯痒く、情けないような気分に陥ってしまうのだが、無論、あれは当用漢字という国家の指針を遵…

書くこと、紡ぐこと

世間が寝静まった夜に、こうやってパソコンに向かって当て所もなく文字の列なりを打ち込み続けるという奇特な習慣を己に課すのは、我ながら異様な振舞いだと感じない訳ではない。そもそも、黙々と文章を書き連ねるという行為、具体的な誰かに宛てた私信とい…

徒然なるままに

最近、以前に書き始めて暫く放置していた「ツバメたちの黄昏」という小説の続きを書くことに熱中している。いや、熱中と呼ぶには程遠い水準の熱量で書き綴っているのだが、その背景には、当て所もなく寄る辺ない雑文を草するばかりでは満たされない「己の内…

年の瀬雑感

年末商戦の山場の一つ、クリスマス商戦が終わった。今年は金土日の三連休という曜日並びの効果で、私が配属されているような百貨店立地の店舗には多くの集客があり、特に24日のクリスマスイブは昨年と比べて、爆発的な売り上げの伸び方であった。 毎日始発…

希望の代名詞としての「こども」

間もなく生後九箇月を迎えようとしている娘の挙動を日々眺めていると、色々な感情や想念が去来する。上機嫌に遊んでいるときの笑顔は格別で、天使のように愛らしく思えるが、機嫌が悪くて、口に銜えたおしゃぶりを寝室に充てている和室の暗がりへ投げ捨てる…

「歴史」は「未来」を証明する

古文書や絵巻物といった歴史的遺産には、当時の人々の暮らしや習俗、思想や信仰が断片的に刻みつけられている。それらの古びた世界の「常識」は、現代に暮らす私たちの信奉する凡庸な「常識」とは随分、隔たっているように見える。同じ土地に住み、同じ人類…

理解されること、記憶されること

芸術の目的、或いは「本望」は、理解されることではなく、記憶されることに存するのではないだろうか。 芸術は何かを説明する為に存在するのでもなく、何らかの論説を述べる為の代替的な手段でもない。それは何かを伝えようとするが、その伝えようとする内容…

ギフトとしてのブログ

ブログを運営し、極めて個人的な文章を世間に向かって垂れ流すことに、何の意味があるだろうか。誰に頼まれた訳でもないのに、誰が関心を寄せるかも分からない、身勝手な主題を選んで、身勝手な文章で書き綴る、というのは、腕の悪いストリート・ミュージシ…

詩を書いても何にもならない

また、思い立って詩を書いている。そういう根拠の不確かな思いつきに衝き動かされるのは、私の人生における根本的な慣習である。 詩なんか書いても仕方ない、という想いは昔からあった。そもそも、詩歌というものには、世間的な需要が殆どない。或いは、そう…

「自由」の重圧に堪えかねて

私が生まれ育った社宅には、それなりに大きなベージュの本棚があって、それは今も両親が終の栖として定年後に購入した東松戸のマンションの和室に聳え立っている。母親の本は、料理や裁縫に関する書籍や雑誌が大半を占め、他にはフランス語の小さな辞書、そ…

赤ん坊の頭の中では何が起きているのか?

相変わらず、風邪気味である。手短に書く。 もう直ぐ生後八箇月が経とうとしている私の愛娘を眺めていると、不思議な感慨に囚われることがある。彼女は生まれてから未だ一年も経っていない、つまり彼女の人生は四季の一巡さえ経験していない段階にあるという…

個性的である為には、「自分」というコンテンツを再発見するしかない

どうやら風邪を引いてしまったらしく、体調が芳しくないので、余り入り組んだ記事は書けそうにもない。思い浮かんだことを漠然と綴って、パソコンの画面に待ち針で縫い留めておきたい。 ブログでも小説でも、或いはもっと日常的な次元で、仕事や家事、諸々の…

ブログは作品ではなく、コミュニケーションである

インターネットに象徴される通信技術の爆発的な進歩が、多くの無名の素人の自己表現を強力に後押しする起爆剤として作用していることは、明瞭な事実であると思う。インターネットの契約さえ結んでしまえば、それほど大きな経済的負担も背負わずに、自分の作…

「知らない=つまらない」は、つまらない

私は読みたくなる本が新たに見つかると直ぐに、今手許に置いてページを捲っている書物を投げ出してまで、そちらへ乗り換えたくなる衝動に強く抗えない質である。移り気というか、浮気性というか、余程熱中して読み進めているものでもない限り、そうした衝動…

未来を切り拓く「追憶」

何かを思い出すという営為は、一歩踏み誤ると、直ちに怠惰な感傷へと姿を変えてしまう。誰しも郷愁の甘美な感覚には、冷淡ではいられないに違いないが、それが過ぎ去った世界の哀惜に留まるどころか、寧ろ二度と復権することのない失われた記憶への異様な愛…

柔軟で可塑的な「時間」の感覚

夕暮れ時、といっても既に夜陰に包まれた時刻であったが、京成幕張の駅前の床屋へ立ち寄って髪を切ってもらった。 私は生まれてこの方、美容院というものに世話になった経験がなく、床屋のことしか分からないのだが、手許に神経を集中せねばならない職業であ…

迷いが生じると、途端にグダグダになる男の弁論

生きていると、自分自身との付き合いも段々と長くなっていく訳で、しかも色々と新しい経験を積んだり、今まで味わったことのない場面に遭遇したりすることを繰り返すうちに、それまで知らなかった自分の側面というものを発見する機会も増えていく。そうやっ…

毎日、少しずつ書くという習慣

今、半月ほど連続でブログの更新を維持している。 毎日更新を連続したからといって、何らかの具体的な御利益が得られる訳でもない。別に意気込んで連続更新を遣り抜こうと思い立って着手した訳ではない。先月来、転職に関する悩みが日々、頭の中で重油のよう…

個人的であること、主観的であること

個人的であることと、主観的であることは、一見すると似通った言葉=観念に思われて、容易く混同されがちな傾向があるけれども、両者の意味合いは本質的に異なっているのではないかと思う。 主観的であるということは、物事を客観的に捉えられないという意味…

赤ん坊は、基本的に「前向き」である

私には生後半年余りになる娘がいる。頗る可愛い女の子である。 saladboze.hatenablog.com 未だ「赤ん坊」の部類に属すると言って差し支えない彼女を見ていると、色々なことを考えさせられる。今日、仕事の帰り道に、彼女の顔を思い浮かべながら考えたのは「…

言葉を汲み上げる日々

明日は朝から晩まで仕事なので、今日は手短に書いておく。 これと言って明確に書きたいことが思い浮かんだ訳でもないのに、こうやって記事を書き起こすのは、こうした作業に関心のない人にとっては変態の所業と感じられるに違いない。別に芸能人でも作家でも…

自由でありたいと願うのは、幼稚だろうか

「自由」という言葉の定義は難しい。「自由」という言葉を巡る議論は、何百年もの間、延々と続けられてきたに違いない。誰もが、手軽に「自由」と口にする。だが、多くの人は「自由」の姿をきちんと目の当たりにしたことさえない。 元々、西洋から発祥した「…

百年先も、古びない言葉を

言葉は、時々刻々と古びていく宿命を背負っている。或いは、言葉は「ナマモノ」であると言い換えることも出来る。単純に語彙や文法が古びて、時代の一般的な通念に合わなくなっていくだけではない。その言葉が発せられた当時には意味のあったことでも、時代…

「情」の問題

引き続き、私の人生において目下、最重要の問題である「転職活動」を通じて考えたことを徒然と書き綴ることにする。 直属の上司に退職の意思を打ち明けたところ、上には報告せずにおくから考え直せと言われ、数日が経過した。今でも退職、転職という基本的な…

言葉の瞬発力・機動力・柔軟性

saladboze.hatenablog.com 先日、上記の記事で「ですます調」の文体で書く決意を表明したばかりなのに、早くも「ですます調」で書くことに歯痒さのようなものを感じ始めて、困っている。困っていると言い出した傍から、こうして「ですます調」を抛棄している…

或る組織の内側でしか通用しない「価値観」

どうも今晩は、サラダ坊主です。 最近、転職活動を始めました。 今の会社には、二十歳のときから十年も御世話になっており、愛着もあるのですが、自分の心の中でどんどん、この会社で働くことへの意欲が失われつつあるのです。その理由は複合的なもので、簡…

書くことで、人の「想い」に触れる

どうも今晩は、サラダ坊主です。 数日間、更新を怠っておりました。 最近、これから自分はどういう人生を送っていきたいのか、或いは送っていきたいと思っているのか、そういうアイデンティティに関わる問題に就いて、考え込む日々が続いています。 これはな…

表現することは、肯定すること

どうも今晩は、サラダ坊主です。 今日の記事の主題は、表題に掲げた通り、「表現することは肯定することではないか」という着想に就いて、考えを巡らせることにあります。 何故、表現することが肯定することと結び付けられるのか、という疑問を、いきなり抽…

信じられないものを信じているように振舞う苦しみ

どうも今晩は、サラダ坊主です。 連日、己の「本心」と向き合うという主題を巡って記事を書いています。これは私にとっては結構重要な問題であり、遡れば少年期の頃からずっと解決し切れないままに持ち越し続けている難問です。 例えば私は中学生の頃、生ま…

「本音」という言葉を、甘く見てはいけない

どうも今晩は、サラダ坊主です。 内容的には、前回の記事と繋がり合うものになりそうです。 saladboze.hatenablog.com 書くことの目的、或いは本質に関して、これまで私は、幾度か記事を認めてきました。無論、書くことの目的などという抽象的な御題目に対し…

確信を持って語れることが、私に幾つあるだろう?

どうも今晩は、サラダ坊主です。 こうしてブログを書いたり、或いは日常の会話の中で意見や感想を交わしたりするとき、私たちは実に多くの「考え」や「認識」を語っていますが、その考えが常に「確信」によって支えられているという方は、いらっしゃいますか…

理解しがたいものへの不寛容 / 「多様性」をめぐって

どうも今晩は、サラダ坊主です。 人間にはそれぞれ、個性というものがあります。無論、遺伝子の配列によって予め定められた生体的な宿命であるとか、或いはそもそも人間という霊長類の一種が集合的に備えている特質であるとか、そういった先験的な条件によっ…

「文学的なもの」への曰く言い難い憧れ

どうも今晩は、サラダ坊主です。 私は小さい頃から本を読むのが好きで、小学校一年生の参観日で「将来の夢」というテーマで一人ずつ簡単な発表をする機会があったときには、幼稚園児の頃から愛読していたヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズ(井…

見知らぬ人に、語り掛けるように

不図思い立って、今日から暫く「ですます調」の文体で記事を書こうと思う。その後付けの理由も、ですます調で書いてみる。 saladboze.hatenablog.com どうも今晩は、サラダ坊主です。 元々、開設当初は、ですます調の文体で書き綴っていた当ブログですが、上…

世界が終わるとしても、私は今日を生きていかねばならないし、会社が潰れても、夜明けはどうしたってやってくる

何とも不可解な表題の記事になる。大して深い理由はない。最近、漠然と考えていることを例によって書き綴るだけだ。 二十歳前後の頃、私は働くことが嫌いだった。幾つか会社を辞めて、当時の家族に迷惑を掛けたこともある。十代の半ばくらいから、所謂社会的…

あらゆるものを語ろうとする欲望の結晶

小説や詩歌、それら一般に「文学」と称されるものの本質は、あらゆる物事を言葉に置き換えようとする偏執的な欲望の衝動に存すると、私は思う。絵画があらゆる色彩と光と形態を描き尽くし、音楽があらゆる旋律と響きを奏でることを試みるのと同じく、文学は…

文学的「悪食」の精神

小説に限らないが、例えば小説に代表されるような芸術的な作物というものに関して勝手な印象を懐くのは個人の自由であろう。或る作品に触れて、どのような感想を持つかは体質によっても趣味によっても異なるのは当然である。だが、たまに出喰わすのが「読み…

何故、私が書いた「昊の棺」が小説として失敗しているのかという問題に関する自問自答・自己批判

二年ほど前に書き上げて文学界新人賞に応募し、一次選考すら通過せずに敢無く落選した私の「昊の棺」という小説について、何故この作品が小説として失敗しているのか考えてみたい。つまり、この記事は純粋に個人的な雑文であり、社会的な価値は一切備わって…

日本語の懐ろに抱かれて

カフカの「変身」を読み終えた後、安部公房の小説でも読もうかと思い立ち、二階の書棚を漁っていたら偶然、トルーマン・カポーティの「遠い声、遠い部屋」(新潮文庫)が眼に留まった。随分と昔に松戸の書店で買ったきり、どうにも巧く馴染めずに放置してあ…

少しずつ、何かが溜まっていくように

去年の春先から断続的に書き継いでいた一〇〇枚ほどの小説を、或る新人賞へ送った。それで一つ区切りがついたような気分になって、新しい小説を起稿した。このブログにアップしているファンタジー的な作品とは毛色の違う内容である。思いつくままに書き進め…

「ゆるキャラ」と八百万の神々

現代の日本には夥しい数の「ゆるキャラ」が存在しており、日々増殖の一途を辿り続けている。私がその片隅に三年ほど暮らしていた船橋市には「ふなっしー」という屈指の有名ゆるキャラが棲息していて、世間には熱狂的な愛好家も少なからず存在しているらしい。…

「芸術」は本質的にビジネスではない

芸術はビジネスとの間に接点を持ち得るが、本来的にはビジネスとは無関係な領域である。芸術がビジネスとして成立し得るのは、あらゆるものを商業的な領域に引き摺り込もうとする資本主義的ドライブの要請であるに過ぎない。 だが、現代のようにあらゆる事象…

「表現」の価値 / 「伝達」の価値

或る事物の価値を、その商業的な効果によって推し量るという習慣は、資本主義の原理に骨の髄まで犯された現代の私たちにとっては、日常的に慣れ親しんだ作法である。糊口を凌ぐために、少なくとも何らかの形で商売に携わる以上は、誰しも「売上」という問題…

推敲は、やればやるほど「普通」になっていく

推敲は、一旦仕上がった文章に後から手を加えていく作業である訳だが、それが果たして芸術的な価値を高めるものであるかどうかは、一概には断定し難い問題である。例えば村上春樹は、自作を繰り返し丹念に推敲し、書き直すことの歓びを様々な場面で力説して…

書き手の論理・保坂和志のコンセプト・分業社会への苛立ちと警鐘

保坂和志という作家は、様々な文章を通じて、小説を完成された外在的な対象として取り扱う評論家的な態度を批判している。彼のコンセプトは、小説という文学的営為を「書き手の側に取り戻すこと」である。何故、書き手の側に取り戻さなければならないのか、…

「小説」の多様な生態系

話は小説に限らないが、小説ということに的を絞って書かせてもらうと、人間がそれぞれの個性というものを不可避的に備えざるを得ないことと相関するように、小説というのは実に多様な形式を取り得るし、それらは一見すると互いに全く異質な原理によって綴ら…

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが…