サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

思索

「卑屈」に就いて

自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えよ…

「正論」に就いて

「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能で…

「コミュニケーション」に就いて

現代は「コミュニケーション」という理念が異常に重視され、魔法の言葉として濫用される時代である。多くの人々が「コミュ力」(コミュニケーション力)の多寡を競い合い、自分は「コミュ障」(コミュニケーション障碍)であるという奇怪な卑下を用いて、不…

「悼むこと」に就いて

余り具体的なことを書くと差し障りがあるので、詳細は省くが、今日、勤め先の店舗の固定電話に、常連の御客様(仮に「Sさん」としておこう)から、私宛てに電話が掛かってきた。 最近、余り顔を見なかったので一頻り久闊を叙した後に、Sさんは今度の日曜日…

「自信を持つこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 昨春から約一年間、一緒に働いてきた部下の女性社員が今月で異動になり、後任の女性社員が配属されてきて、三日間の引き継ぎ期間に入っています。 新たに着任した彼女の働きぶりを見ていて、最も強く感じたのは、根本的…

「赦すこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 今日、昔の部下(男性です)と電話で話す機会を持ちました。今は転職して、別の会社で働いているのですが、久々に逢いましょうという連絡が届いたのです。何かあったのかと思い、メールで「そろそろ結婚の報告か?」と冷…

私たちは、誰も答えを知らぬままに生きている

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 世間はゴールデンウィーク真っ盛りですが、小売業の陣頭に立つ私は本日も仕事で、家に帰り着いたのは午後11時近くでした。 昨春の人事異動で、家が幕張、職場が千葉という関係性になって以来、10時過ぎには帰宅する…

shimomurayoshiko氏への応答(私信のようなもの)

以前、私は「ブギーポップ」という小説に就いて、次のような記事を投稿した。 saladboze.hatenablog.com この記事は、私の運営する零細ブログにおいては珍しく、ツイッターを通じて拡散され、幾つかの批判的なコメントを頂戴する仕儀と相成った。 saladboze.…

ドリトル先生の想い出

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 最近、一歳になった娘が、リビングに置いてある数冊の絵本に、以前よりも関心を示すようになりました。 その日の気分で、関心を示す対象となる絵本は異なるのですが、気に入ったものは熱心にページを開いたり閉じたりし…

間もなく、春が来る

何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一…

一歳児のための、記憶の里程標

三月十五日に、娘が一歳の誕生日を迎えた。 saladboze.hatenablog.com 上記の文章を、落ち着かない、ふわふわとした心境の中で一人、自宅の居間でパソコンに向かって打ち込んでから、一瀉千里に、一年間という歳月が流れ去った訳だ。そして生まれたばかりの…

ただ、そこにある道を往くばかり

ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読み終え、次の書物として安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を読み始めた。通読には未だ時間が要るので、内容に関する覚書などは差し控えておくが、滅法面白い。十年以上前、大学に進んだばかりの生温かい…

「愚昧な子供」としての私

読まなければならない、或いは端的に「読んでみたい」と思う本は幾らでもあるのに、いざ取り掛かると案外頭に入らなくて投げ出してしまったり、一冊の読書に長い日月を費やし過ぎて飽きてしまったり、といった経験は日常茶飯事である。昔は、つまり十代の頃…

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。 無論、あらゆる「美しさ…

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の…

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様…

己の「無明」を悟るべし

新聞記事やテレビの報道番組などでも、よく見かける慣例の一つに、「破綻」という単語を「破たん」と表記する、というものがある。私はあれを眼にする度に何とも歯痒く、情けないような気分に陥ってしまうのだが、無論、あれは当用漢字という国家の指針を遵…

書くこと、紡ぐこと

世間が寝静まった夜に、こうやってパソコンに向かって当て所もなく文字の列なりを打ち込み続けるという奇特な習慣を己に課すのは、我ながら異様な振舞いだと感じない訳ではない。そもそも、黙々と文章を書き連ねるという行為、具体的な誰かに宛てた私信とい…

徒然なるままに

最近、以前に書き始めて暫く放置していた「ツバメたちの黄昏」という小説の続きを書くことに熱中している。いや、熱中と呼ぶには程遠い水準の熱量で書き綴っているのだが、その背景には、当て所もなく寄る辺ない雑文を草するばかりでは満たされない「己の内…

年の瀬雑感

年末商戦の山場の一つ、クリスマス商戦が終わった。今年は金土日の三連休という曜日並びの効果で、私が配属されているような百貨店立地の店舗には多くの集客があり、特に24日のクリスマスイブは昨年と比べて、爆発的な売り上げの伸び方であった。 毎日始発…

希望の代名詞としての「こども」

間もなく生後九箇月を迎えようとしている娘の挙動を日々眺めていると、色々な感情や想念が去来する。上機嫌に遊んでいるときの笑顔は格別で、天使のように愛らしく思えるが、機嫌が悪くて、口に銜えたおしゃぶりを寝室に充てている和室の暗がりへ投げ捨てる…

「歴史」は「未来」を証明する

古文書や絵巻物といった歴史的遺産には、当時の人々の暮らしや習俗、思想や信仰が断片的に刻みつけられている。それらの古びた世界の「常識」は、現代に暮らす私たちの信奉する凡庸な「常識」とは随分、隔たっているように見える。同じ土地に住み、同じ人類…

理解されること、記憶されること

芸術の目的、或いは「本望」は、理解されることではなく、記憶されることに存するのではないだろうか。 芸術は何かを説明する為に存在するのでもなく、何らかの論説を述べる為の代替的な手段でもない。それは何かを伝えようとするが、その伝えようとする内容…

ギフトとしてのブログ

ブログを運営し、極めて個人的な文章を世間に向かって垂れ流すことに、何の意味があるだろうか。誰に頼まれた訳でもないのに、誰が関心を寄せるかも分からない、身勝手な主題を選んで、身勝手な文章で書き綴る、というのは、腕の悪いストリート・ミュージシ…

詩を書いても何にもならない

また、思い立って詩を書いている。そういう根拠の不確かな思いつきに衝き動かされるのは、私の人生における根本的な慣習である。 詩なんか書いても仕方ない、という想いは昔からあった。そもそも、詩歌というものには、世間的な需要が殆どない。或いは、そう…

「自由」の重圧に堪えかねて

私が生まれ育った社宅には、それなりに大きなベージュの本棚があって、それは今も両親が終の栖として定年後に購入した東松戸のマンションの和室に聳え立っている。母親の本は、料理や裁縫に関する書籍や雑誌が大半を占め、他にはフランス語の小さな辞書、そ…

赤ん坊の頭の中では何が起きているのか?

相変わらず、風邪気味である。手短に書く。 もう直ぐ生後八箇月が経とうとしている私の愛娘を眺めていると、不思議な感慨に囚われることがある。彼女は生まれてから未だ一年も経っていない、つまり彼女の人生は四季の一巡さえ経験していない段階にあるという…

個性的である為には、「自分」というコンテンツを再発見するしかない

どうやら風邪を引いてしまったらしく、体調が芳しくないので、余り入り組んだ記事は書けそうにもない。思い浮かんだことを漠然と綴って、パソコンの画面に待ち針で縫い留めておきたい。 ブログでも小説でも、或いはもっと日常的な次元で、仕事や家事、諸々の…

ブログは作品ではなく、コミュニケーションである

インターネットに象徴される通信技術の爆発的な進歩が、多くの無名の素人の自己表現を強力に後押しする起爆剤として作用していることは、明瞭な事実であると思う。インターネットの契約さえ結んでしまえば、それほど大きな経済的負担も背負わずに、自分の作…

ジュール・ヴェルヌの想像力と、若き日々

母方の祖父母の家は、山口県の下関市にあった。子供の頃は夏と冬に、新下関の駅からタクシーに揺られ、坂道に面した古びた一軒家に運ばれるのが慣例であった。祖父は昔、捕鯨船の機関長を務めていて、時には南氷洋まで遠出して半年以上も家を空けることもあ…