サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

思索

確信を持って語れることが、私に幾つあるだろう?

どうも今晩は、サラダ坊主です。 こうしてブログを書いたり、或いは日常の会話の中で意見や感想を交わしたりするとき、私たちは実に多くの「考え」や「認識」を語っていますが、その考えが常に「確信」によって支えられているという方は、いらっしゃいますか…

理解しがたいものへの不寛容 / 「多様性」をめぐって

どうも今晩は、サラダ坊主です。 人間にはそれぞれ、個性というものがあります。無論、遺伝子の配列によって予め定められた生体的な宿命であるとか、或いはそもそも人間という霊長類の一種が集合的に備えている特質であるとか、そういった先験的な条件によっ…

「文学的なもの」への曰く言い難い憧れ

どうも今晩は、サラダ坊主です。 私は小さい頃から本を読むのが好きで、小学校一年生の参観日で「将来の夢」というテーマで一人ずつ簡単な発表をする機会があったときには、幼稚園児の頃から愛読していたヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズ(井…

見知らぬ人に、語り掛けるように

不図思い立って、今日から暫く「ですます調」の文体で記事を書こうと思う。その後付けの理由も、ですます調で書いてみる。 saladboze.hatenablog.com どうも今晩は、サラダ坊主です。 元々、開設当初は、ですます調の文体で書き綴っていた当ブログですが、上…

世界が終わるとしても、私は今日を生きていかねばならないし、会社が潰れても、夜明けはどうしたってやってくる

何とも不可解な表題の記事になる。大して深い理由はない。最近、漠然と考えていることを例によって書き綴るだけだ。 二十歳前後の頃、私は働くことが嫌いだった。幾つか会社を辞めて、当時の家族に迷惑を掛けたこともある。十代の半ばくらいから、所謂社会的…

あらゆるものを語ろうとする欲望の結晶

小説や詩歌、それら一般に「文学」と称されるものの本質は、あらゆる物事を言葉に置き換えようとする偏執的な欲望の衝動に存すると、私は思う。絵画があらゆる色彩と光と形態を描き尽くし、音楽があらゆる旋律と響きを奏でることを試みるのと同じく、文学は…

文学的「悪食」の精神

小説に限らないが、例えば小説に代表されるような芸術的な作物というものに関して勝手な印象を懐くのは個人の自由であろう。或る作品に触れて、どのような感想を持つかは体質によっても趣味によっても異なるのは当然である。だが、たまに出喰わすのが「読み…

何故、私が書いた「昊の棺」が小説として失敗しているのかという問題に関する自問自答・自己批判

二年ほど前に書き上げて文学界新人賞に応募し、一次選考すら通過せずに敢無く落選した私の「昊の棺」という小説について、何故この作品が小説として失敗しているのか考えてみたい。つまり、この記事は純粋に個人的な雑文であり、社会的な価値は一切備わって…

日本語の懐ろに抱かれて

カフカの「変身」を読み終えた後、安部公房の小説でも読もうかと思い立ち、二階の書棚を漁っていたら偶然、トルーマン・カポーティの「遠い声、遠い部屋」(新潮文庫)が眼に留まった。随分と昔に松戸の書店で買ったきり、どうにも巧く馴染めずに放置してあ…

少しずつ、何かが溜まっていくように

去年の春先から断続的に書き継いでいた一〇〇枚ほどの小説を、或る新人賞へ送った。それで一つ区切りがついたような気分になって、新しい小説を起稿した。このブログにアップしているファンタジー的な作品とは毛色の違う内容である。思いつくままに書き進め…

「ゆるキャラ」と八百万の神々

現代の日本には夥しい数の「ゆるキャラ」が存在しており、日々増殖の一途を辿り続けている。私がその片隅に三年ほど暮らしていた船橋市には「ふなっしー」という屈指の有名ゆるキャラが棲息していて、世間には熱狂的な愛好家も少なからず存在しているらしい。…

「芸術」は本質的にビジネスではない

芸術はビジネスとの間に接点を持ち得るが、本来的にはビジネスとは無関係な領域である。芸術がビジネスとして成立し得るのは、あらゆるものを商業的な領域に引き摺り込もうとする資本主義的ドライブの要請であるに過ぎない。 だが、現代のようにあらゆる事象…

「表現」の価値 / 「伝達」の価値

或る事物の価値を、その商業的な効果によって推し量るという習慣は、資本主義の原理に骨の髄まで犯された現代の私たちにとっては、日常的に慣れ親しんだ作法である。糊口を凌ぐために、少なくとも何らかの形で商売に携わる以上は、誰しも「売上」という問題…

推敲は、やればやるほど「普通」になっていく

推敲は、一旦仕上がった文章に後から手を加えていく作業である訳だが、それが果たして芸術的な価値を高めるものであるかどうかは、一概には断定し難い問題である。例えば村上春樹は、自作を繰り返し丹念に推敲し、書き直すことの歓びを様々な場面で力説して…

書き手の論理・保坂和志のコンセプト・分業社会への苛立ちと警鐘

保坂和志という作家は、様々な文章を通じて、小説を完成された外在的な対象として取り扱う評論家的な態度を批判している。彼のコンセプトは、小説という文学的営為を「書き手の側に取り戻すこと」である。何故、書き手の側に取り戻さなければならないのか、…

「小説」の多様な生態系

話は小説に限らないが、小説ということに的を絞って書かせてもらうと、人間がそれぞれの個性というものを不可避的に備えざるを得ないことと相関するように、小説というのは実に多様な形式を取り得るし、それらは一見すると互いに全く異質な原理によって綴ら…

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが…

14号原理主義者の告発

昨夜投稿した記事に関して、妻からクレームが入った。 saladboze.hatenablog.com 表題に「幕張」という文字を入れておきながら、実際には海浜幕張のホテルに関する思い出しか綴られていないが、貴方は何か考え違いをしているようだ、海浜幕張というのは幕張…

要するに「被投性」

私は難しい哲学的語彙など分からない。だが、ドイツの哲学者ハイデガーが「被投性」という特殊な造語を用いたという歴史的な事実については聞き齧った覚えがある。無論、その精確な定義を理解した上で今、この言葉をパソコンの電子的な画面上に出現させた訳…

書き留められた思い出

文章を書くということの目的は、人によって様々だろうが、結局のところ、直ぐに空中へ掻き消えてしまう日常的な会話の数々とは異なり、或る出来事なり考えなりを文字に起こして紙やデータに定着させるということは、大袈裟に言えば、生きた証を樹てるという…

作品をつくるということ

暫くブログの更新を怠っていた。昨年の夏頃から「小説家になろう」に投稿している「刃皇紀」(http://ncode.syosetu.com/n8478cu/)という小説の続きに、久々に力を注いでいた為である。 この小説を最初に書き起こしたのは2006年の夏のこと、今から丁度…

「日本的なもの」とは何か

日本的であるということ、日本という国家、社会、風土に固有の特質を表現するということ、それは日本人であり、日本語で思考することしか出来ない私のような島国の保守派には自明の行為であるように見える。わざわざ意識的な努力を積み重ねずとも、普通に暮…

仏教の中国化(「彼岸」ではなく「此岸」を重んじよ)

引き続き、末木文美士の「仏典をよむ」から触発されたことを書く。あくまでも仏教に関するド素人の私が書き綴る主観的な感想であり雑記なので、学術的な信憑性を満たすことは有り得ないが、その点については御寛恕を願いたい。 インドで発祥した仏陀の教義は…

「想像力の革命」としての仏教

引き続き末木文美士の「仏典をよむ」を少しずつ読んでいる。 私の浅墓な理解に基づいて書くのだが、仏教というのは基本的に「生老病死」に集約されるような「苦」の認識に基づいている。もっと大袈裟に断言してしまえば、私たち人間はこの世界に生きている限…

この世に生きる限り、救済は有り得ないというラディカリズム

連日このブログで、以前に投げ出したクンデラの「存在の耐えられない軽さ」を再び読み始めたと書いておきながら、数ページ読んだだけでまた興が乗らなくなってしまった。個人的な読書は社会の為でも他人の為でもなく、純粋に己の関心に基づいて営まれるのだ…

読みながら考えるということ(カフカの斧)

今年に入ってから、私の身辺はずっと慌ただしい状況が続いている。三月に娘が産まれ、四月には幕張へ建てた新居へ引っ越し、五月には人事異動で勤め先が柏市から千葉市へ移った。それらの忙しく落ち着かない状況の渦中に身を置いていると案外自覚し辛いもの…

ナルシシズムとビジネス

ナルシシズム、つまりは自己陶酔の心的機制は、傍目には極めて醜悪なものであり、多くの場合、それは人格的均衡の破綻若しくは未熟を意味するものとして受け止められる。無論、誰しも多少なりとも自己愛という感情を持ち合わせておかなければ、生きていくこ…

物語の快楽(あるいは、温故知新)

物語は、本質的に無人称的な視野から語られ、表象される。それは特定の主観的な視野から、個人の責任に基づいて紡ぎ出されるのではなく、もっと自由で不可解な視点によって統制される対象である。物語には、便宜的な始まりと終わりが設けられるが、原理的に…

「原罪」の齎す平等性の思想(「宗教的なもの」をめぐって)

私の父方の家は浄土真宗、母方は真言宗で、何れも名目的には仏教徒ということになるが、私自身は信仰心というものがほぼ皆無である。母親は宗教的な事柄には全く無関心で、自分の芸術的な趣味に興じることに専念している。一方、父親は定年退職を迎えてから…

「正しい意見」よりも「自分の意見」を語ることの倫理性

こうしてブログに投稿する記事に限らず、何らかの事物に関して私見を書き綴るとき、決して高慢に思い上がっている訳でもないのに、知らず知らず私は「自分の意見」よりも「正しい意見」を書き連ねようと試みている己に気付くことがある。無論、ブログの記事…

近未来・スチームパンク・異なるものを結び合わせること

所謂「SF」というジャンルに関する私の知識は極めて貧相な代物である。ウェルズ、ブラッドベリ、ハインライン、アシモフ、クラーク、ヴォネガットといった御歴々の輝かしい名声だけは聞き齧ったことがあるが、その実作に触れた経験は殆ど皆無と言って差し支…

「根本的解決」というラディカルな教義

仕事をしていても、或いは世間を騒然とさせる深刻で猟奇的な事件に関しても、この国の行く末を左右しかねない重大な社会的問題に関しても、問題を解決する場合には「抜本的な対策」という魔術めいた代物が要求されるのは、世の習いである。上っ面の部分だけ…

「イノベーション主義」への反発(報われることのない愚痴)

ネットに流布する西洋占星術の断片的な情報を徴する限り、私は太陽が蠍座、月が獅子座で、個人のパーソナリティを構成する最も重要なサインが二つとも「不動宮」(Fixed Sign)に属するという筋金入りの頑固者である。子供の頃から癇が強くて強情な気質であ…

俗悪と権威 (ビートたけし・クレヨンしんちゃん・坂口安吾)

ビートたけしの名前は、日本人ならば恐らく誰でも知っているだろう。今ではコメディアンとしてよりも「映画監督」としての声価の方が世界的に高まっているし、致命的なバイク事故以来の滑舌の悪化で持ち味のマシンガントークが精彩を欠いていることもあり、…

結局のところ、人は誰かの言葉を真似るしかない(「オリジナリティ」という幻想)

仕事を終えて眠る直前の僅かなひと時に、柄谷行人の「坂口安吾と中上健次」(講談社文芸文庫)を漫然と拾い読みしていたら、次のような記述に出喰わした。 この時、中上はもはや子の立場から過去を見ているのではない。自分のやっていることは、それまで嫌悪…

「分かり易さ」の功罪(最大公約数の理解力)

分かり易いということ、理解するのに努力を要さないということ、それらの啓蒙主義的な価値観は、私たちの暮らす世界では、節操を欠くほどに猖獗を極めている。その最たるものは、例えば広告収入を当て込んで製作される民放のテレビ番組で、ちょっとでも視聴…

成熟と愛情(雨降る街で)

先日、妻が産科を退院して、搗き立ての餅のように柔らかな頬の娘と共に家へ帰ってきた。束の間の索然たる独居は終わりを迎え、親子三人の新しい生活が始まった訳だ。慣れない母親業にすっかり疲れた様子の妻を見ていると胸が痛むが、娘の天使のような寝顔を…

新しい環境 新しい思想(春に寄せて)

あと数日経てば、関東のソメイヨシノも開花しそうだと、先ほどNHKのキャスターが笑顔で伝えていた。未だ肌寒い日が続いているが、暖かくなり始めれば一挙に桜が咲いて、冬のことなど忘れてしまうだろう。そうやって何度も何度も、季節は何食わぬ顔で私た…

受け継がれる生命(私的な備忘録)

全くの私事なのだが、備忘録というか、思い出の記録として書き遺しておきたいことがある。誰の身にも降り掛かるという意味では平凡な出来事だが、その当事者にとっては極めて重要な意義を有する出来事が今日、起きたのである。 2016年3月15日、娘が産…

運命論の効用について

物事には必ず原因と結果があり、その関係性を正しく緻密に把握することが出来れば、或る条件を入力することで常に同一の結果を出力することが可能である。 このような自然科学的な発想の形式が、明治以来の慌ただしい近代化を遂げた私たちの国家においても自…

時空を超えて / 「読むこと」の秘蹟をめぐって

大岡昇平の「野火」を読み終えたので、今度は以前に購入して数ページ読んだまま放置していたアルベール・カミュの「異邦人」(新潮文庫・窪田啓作訳)を読み始めた。 本国のフランスで「異邦人」が出版されたのは1942年のことで、アルベール・カミュがこ…

自分勝手に書くこと 「一般論」という陥穽に抗して

私がこのブログを運営するに当たって心掛けていることが一つある。誤解され易い表現であることを承知の上で敢えて言わせてもらえば、それは「自分勝手に書く」ということだ。この「自分勝手」というのは、普遍性のある客観的な明快な言葉で書くのではなく、…

「売ること」と「書くこと」の接続(曖昧な思索)

書くことは何のために行われるのか、という問いは極めて古く、射程も長い。その問いに対する答え方は、答える側の人間が何を重んじているか、或いはどのような視点と角度から、この問いに対峙するかによって、様々な「解」へ導かれることになる。例えば、書…

「物語ること」への奇怪な欲望 身も蓋もない「真実」を遮るために

人間が或る纏まった「物語」を語って聞かせようとする奇妙な欲望に取り憑かれたのは、一体いつ頃からの話なのだろうか? 無論、太古の昔から人間が空想的な物語を、恐らくは現実の事件や記憶を材料に、それを空想的な物語へ置き換えて徐々に筋書きを整備して…

「濫読」の他者志向性と「脚下照顧」の主体性

読書は高尚な趣味で、教育上、奨励されるべき習慣であると広く信じられている。無論、そのような取り澄ました考えにアレルギー反応を示す方々も少なからず存在するだろうが、本を読むのは素晴らしいことだという固定観念は、私たちの社会にかなり深々と食い…

「結婚」の要諦に関する省察

先日、部下の女性社員から妊娠と結婚の報告を受けた。相手は同じ会社の、以前に私の直属の部下であった若い男で、女の方は23歳、男が一つ上の24歳である。何れも新卒で入社してから年数の浅い、つまり安月給の身分で、所謂「できちゃった結婚」という奴…

「才能」という異常値 或いは「適職」という不毛な幻想

先日、中上健次の「枯木灘」を無事に読了したので、新たに大岡昇平の「野火」に着手している。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com 暫くの間、中上健次固有の文体のリズムに浸かっていたので、「野火」を読み始めた途端に、がらりと変わった…

「田舎暮らし」への素朴な信仰について

先日来、部下の一人が農業の勉強をやりたいと言って退職を願い出てきている。色々と話し合い、説得も試みたが意志が強固でどうにも覆りそうにない。話を聞いてみると、居候のような立場で月々五万円ほどの金を貰いながら住み込みで農家の仕事を手伝うらしい…

顔が見えないとき、人は幾らでも「残酷」になれる

以前、ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストを背景に、日本人外交官の半生を描いた映画について記事を書いたことがある。 saladboze.hatenablog.com saladboze.hatenablog.com その中で私はユダヤ人哲学者レヴィナスの「顔」という概念について軽く触…

「よそゆき」の言葉 / 「普段着」の言葉 個人的な文体について

昨年の八月下旬にこの「サラダ坊主日記」というブログを開設して以来、私はずっと「ですます調」の文体で記事を書いてきた。特別に深い理由があった訳ではなく、ブログというメディアを生まれて初めて運営するに当たって、見知らぬ人々に語りかけるのに突慳…