サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

思索

Cahier(アルベール・カミュ、ミラン・クンデラ、新入社員、ドラゴンクエスト)

*フランスの作家アルベール・カミュの小説「ペスト」(新潮文庫)を読んでいる。未だ200ページ弱の段階なので、纏まった感想を綴れる状態ではない。翻訳が、日本語として熟していなくて、意味を追うのに難儀するが、余りに滑らかな日本語であっても、却…

「勇気」に就いて

勇気を持つことは、誰にとっても簡単な行為ではない。勇敢であること、様々な艱難を懼れないこと、不安や絶望に呑み込まれないこと、あらゆる先入観を信じないこと、これらの崇高な資質は、万人によってその意義を承認されながらも、実践の現場においては様…

芸術と「quality」

芸術というジャンルが特殊であるのは、それが如何なる意味でも「クオリティ」(quality)が総てであるという苛烈な構造的条件に貫かれているからではないかと、私は思う。 芸術という人間にとって根源的な営為が、商業的な原理に巻き込まれることが何ら珍し…

「苦悩」に就いて

幼い頃、私は真面目な優等生というタイプの人間であった。幼稚園に上がるか上がらないかという頃から、公文式へ通わされていた御蔭で、小学校に上がってから暫くの間は、勉強に躓くということがなかった。テストは満点を取るのが当たり前で、先生や級友の保…

「個人的な辞書」に就いて

生きることは思い出すことに似ている。生きているだけで人間の頭脳には重油のように記憶が溜まり、時に醗酵し、時に蒸発する。生きることは記憶を積み重ね、その網目を複雑な紋様にまで高めていくことだ。そうやって人間は生きることに慣れ親しんでいき、一…

「孤独」に就いて

世の中には「孤独を懼れるな」という激励に満ちた言説が飛び交っている。実際、孤独そのものを懼れても無益であることは確かな事実であり、多かれ少なかれ、人間が孤独という止むを得ない状況に呑み込まれることは少しも奇態な現実ではないと言うべきだろう…

「プライド」に就いて

「自信を持てない人ほど、プライドが高くなる」というのが私の個人的な見解である。自信というのは文字通り「自分で自分を信じること」を意味するが、自分で自分を信じられない性格の人間は往々にして「他人の評価に基づいて自分自身を信頼する」という迂遠…

「決断」に就いて

決断することは常に難しく、多くの危険を孕んでいるものだ。決断するとき、私たちは綿密な熟考を経ている場合もあるし、単なる素朴な思い付きだけを足掛かりに選んでいる場合もあるが、何れにせよ、決断が困難であることには変わりがない。綿密な検討を積み…

「卑屈」に就いて

自分で自分の人生に責任を持つことを拒むと、人間は必ず「卑屈」になるか、或いは「虚勢」を張るようになる。自分で自分を信頼することが出来ないという精神的状態は、自分の人生に自分自身の判断で責任を取ろうとせず、総てを外在的事象の結果として捉えよ…

「正論」に就いて

「正論」は凶器のようなものである。無論、これは一種の極論に等しい命題だ。如何なる正しさとも無関係に、己の実存を歩み続けることは簡単ではない。如何なる正しさも肯わないままに、自分の人生を切り拓いたり、苛酷な試練に挑戦したりすることは不可能で…

「コミュニケーション」に就いて

現代は「コミュニケーション」という理念が異常に重視され、魔法の言葉として濫用される時代である。多くの人々が「コミュ力」(コミュニケーション力)の多寡を競い合い、自分は「コミュ障」(コミュニケーション障碍)であるという奇怪な卑下を用いて、不…

「悼むこと」に就いて

余り具体的なことを書くと差し障りがあるので、詳細は省くが、今日、勤め先の店舗の固定電話に、常連の御客様(仮に「Sさん」としておこう)から、私宛てに電話が掛かってきた。 最近、余り顔を見なかったので一頻り久闊を叙した後に、Sさんは今度の日曜日…

「自信を持つこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 昨春から約一年間、一緒に働いてきた部下の女性社員が今月で異動になり、後任の女性社員が配属されてきて、三日間の引き継ぎ期間に入っています。 新たに着任した彼女の働きぶりを見ていて、最も強く感じたのは、根本的…

「赦すこと」に就いて

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 今日、昔の部下(男性です)と電話で話す機会を持ちました。今は転職して、別の会社で働いているのですが、久々に逢いましょうという連絡が届いたのです。何かあったのかと思い、メールで「そろそろ結婚の報告か?」と冷…

私たちは、誰も答えを知らぬままに生きている

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 世間はゴールデンウィーク真っ盛りですが、小売業の陣頭に立つ私は本日も仕事で、家に帰り着いたのは午後11時近くでした。 昨春の人事異動で、家が幕張、職場が千葉という関係性になって以来、10時過ぎには帰宅する…

shimomurayoshiko氏への応答(私信のようなもの)

以前、私は「ブギーポップ」という小説に就いて、次のような記事を投稿した。 saladboze.hatenablog.com この記事は、私の運営する零細ブログにおいては珍しく、ツイッターを通じて拡散され、幾つかの批判的なコメントを頂戴する仕儀と相成った。 saladboze.…

ドリトル先生の想い出

どうもこんばんは、サラダ坊主です。 最近、一歳になった娘が、リビングに置いてある数冊の絵本に、以前よりも関心を示すようになりました。 その日の気分で、関心を示す対象となる絵本は異なるのですが、気に入ったものは熱心にページを開いたり閉じたりし…

間もなく、春が来る

何処の世界でも似たり寄ったりだろうが、三月から四月にかけての季節というのは、出会いと別れが目紛しく混じり合う時期で、何だか頭の中が遽しく煮え立つような心持がする。私の勤め先でも大幅な人事異動の辞令が日夜飛び交う頃合いで、一年間同じ店舗で一…

一歳児のための、記憶の里程標

三月十五日に、娘が一歳の誕生日を迎えた。 saladboze.hatenablog.com 上記の文章を、落ち着かない、ふわふわとした心境の中で一人、自宅の居間でパソコンに向かって打ち込んでから、一瀉千里に、一年間という歳月が流れ去った訳だ。そして生まれたばかりの…

ただ、そこにある道を往くばかり

ミラン・クンデラの「小説の技法」(岩波文庫)を読み終え、次の書物として安部公房の「他人の顔」(新潮文庫)を読み始めた。通読には未だ時間が要るので、内容に関する覚書などは差し控えておくが、滅法面白い。十年以上前、大学に進んだばかりの生温かい…

「愚昧な子供」としての私

読まなければならない、或いは端的に「読んでみたい」と思う本は幾らでもあるのに、いざ取り掛かると案外頭に入らなくて投げ出してしまったり、一冊の読書に長い日月を費やし過ぎて飽きてしまったり、といった経験は日常茶飯事である。昔は、つまり十代の頃…

「存在しないものだけが美しい」という理念 2

「存在しないものだけが美しい」という理念は、あらゆる倫理と対立する、若しくは倫理的なものと無関係に存在する命題である。存在しないものであるからこそ、美しく感じられるという精神的な構造には、絶えず死臭が染み込んでいる。 無論、あらゆる「美しさ…

肉声と省察(それは誰が語っているのか?)

世の中には定説として認められている考え方や、或いは一般的な常識として流布している思想信条などが無数に存在する。だが、それらの多くは主語を欠いていて、誰の発案したものなのか、明確に見定めることが難しい。 だが、どんな考え方にも、具体的な生身の…

「存在しないものだけが美しい」という理念 1

「存在しないものだけが美しい」という理念の形態に就いて書いておきたい。 予め注意を促しておくが、この「存在しないものだけが美しい」という命題は万人に公認され、あらゆる場面に普く該当するものではない。広範な領域において確認し得る強力な思想の様…

己の「無明」を悟るべし

新聞記事やテレビの報道番組などでも、よく見かける慣例の一つに、「破綻」という単語を「破たん」と表記する、というものがある。私はあれを眼にする度に何とも歯痒く、情けないような気分に陥ってしまうのだが、無論、あれは当用漢字という国家の指針を遵…

書くこと、紡ぐこと

世間が寝静まった夜に、こうやってパソコンに向かって当て所もなく文字の列なりを打ち込み続けるという奇特な習慣を己に課すのは、我ながら異様な振舞いだと感じない訳ではない。そもそも、黙々と文章を書き連ねるという行為、具体的な誰かに宛てた私信とい…

徒然なるままに

最近、以前に書き始めて暫く放置していた「ツバメたちの黄昏」という小説の続きを書くことに熱中している。いや、熱中と呼ぶには程遠い水準の熱量で書き綴っているのだが、その背景には、当て所もなく寄る辺ない雑文を草するばかりでは満たされない「己の内…

年の瀬雑感

年末商戦の山場の一つ、クリスマス商戦が終わった。今年は金土日の三連休という曜日並びの効果で、私が配属されているような百貨店立地の店舗には多くの集客があり、特に24日のクリスマスイブは昨年と比べて、爆発的な売り上げの伸び方であった。 毎日始発…

希望の代名詞としての「こども」

間もなく生後九箇月を迎えようとしている娘の挙動を日々眺めていると、色々な感情や想念が去来する。上機嫌に遊んでいるときの笑顔は格別で、天使のように愛らしく思えるが、機嫌が悪くて、口に銜えたおしゃぶりを寝室に充てている和室の暗がりへ投げ捨てる…

「歴史」は「未来」を証明する

古文書や絵巻物といった歴史的遺産には、当時の人々の暮らしや習俗、思想や信仰が断片的に刻みつけられている。それらの古びた世界の「常識」は、現代に暮らす私たちの信奉する凡庸な「常識」とは随分、隔たっているように見える。同じ土地に住み、同じ人類…