サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

青年はナイフを求める(極私的村上春樹論)

 どうもサラダ坊主です。

 平日の昼間からこうやってパソコンに向かって下らない駄文を書き連ねようとしているのは、私が毒にも薬にもならない穀潰しだからではありません。ちゃんと世間の皆様と同じように真面目に働いております。単に休みが旗日通りではない職業だというだけの話ですから、無用の誤解はご遠慮願います。

 さて、今日は何をテーマに書こうかとつらつら考えながら、昨晩に引き続いてネットでニュースを漁っておりましたら、下記のような記事を発見致しました。

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング刊)初刷9万冊を買切、全国の書店で発売

 株式会社紀伊國屋書店代表取締役社長 高井昌史)は、株式会社スイッチ・パブリッシング(代表取締役社長 新井敏記)が刊行する村上春樹『職業としての小説家』初刷り10万冊の内、9万冊を買切り、自社店舗および取次店を介して全国の各書店において、9月10日(木)から販売を開始します。

 初刷りの大半を国内書店で販売することで、ネット書店に対抗し、出版流通市場の活性化に向けて、具体的な一歩を踏み出します。この試みは、株式会社紀伊國屋書店が今年4月に大日本印刷株式会社(代表取締役社長 北島義俊)と設立した合弁会社「株式会社出版流通イノベーションジャパン」が検討を進めている買切り・直仕入というビジネスモデルの一つのパターンと言えます。

 今回のビジネスモデルは、村上春樹さんの新刊書を紀伊國屋書店が独占販売するのではなく、大手取次店や各書店の協力を得て、注目の新刊書をリアル書店に広く行きわたらせ、国内の書店が一丸となって販売するという新しいスキームとなります。

村上春樹『職業としての小説家』の概要> 
(スイッチ・パブリッシングのホームページより抜粋)

2015年9月10日発売
四六判 320ページ 本体価 1,800円
株式会社 スイッチ・パブリッシング

村上春樹がはじめて本格的に、自身の小説の現場と、それを支える文学への、世界への考えをめぐって語り尽くした、読者待望の一冊が登場する。その名も『職業としての小説家』──
世界的に高い知名度を誇りながら、これまで多く神秘のヴェールに包まれてきた
<作家・村上春樹>のなりたちを、全12章のバラエティ豊かな構成で、自伝的な挿話も存分に盛り込みつつ、味わい深いユーモアとともに解き明かしていく。
芥川賞ノーベル賞など、時に作家の周辺をいたずらに騒がせてきた「文学賞」の存在について、彼自身はどう考えているのか。なぜ、どのような形で、ある時から日本を出て、いかなる試行錯誤と悪戦苦闘を経ながら、世界へ向かう道を歩みはじめたのか。<3.11>を経たこの国のどこに、問題があると見ているのか。そもそもなぜ、彼は小説家という不思議な職業を選び、以来、40年近くの長きにわたり、衰えぬ創造力で書き続けているのか──
 
それらすべての問いに対する、村上春樹の誠実で力強い思考の軌跡が、ここにある。
 
「MONKEY」大好評連載の<村上春樹私的講演録>に、大幅な書き下ろし150枚を加え、読書界待望の渾身の一冊、ついに発刊!

 

 この本は私もアマゾンでたまたま見つけて予約してあるのですが、紀伊国屋書店も随分と思い切ったことをやりますね。リアル書店の疲弊ということはずっと叫ばれており、これだけインターネットショッピングが普及すれば、何の創意工夫もないリアル店舗はどんどん淘汰されていくのは目に見えています。リアル店舗が仮想現実社会のなかでもしぶとく生き延びていくためには、店舗の機能を「売買」以外の何かに拡張していかなければならないでしょう。村上春樹の新作という、売れるに決まっている優良なコンテンツを買い取ってリアル店舗に流すというのは、はっきり言って単なる嫌がらせに過ぎないのでは? これでアマゾンで買えなくなったら、不利益を被るのは消費者です。それは店舗機能の拡張でも進化でもなんでもない、一過性のプロジェクトでしかありません。今後も同じ手口が通用するのか? 通用しないですよね。

 それはさておき、村上春樹という作家の立ち位置というのは、現代の日本では余人を以て代え難い高みにまで昇り詰めています。バリバリのエンターテイメントという訳でもなく、むしろ「海辺のカフカ」にしても「1Q84」にしても、それほど理解が容易いとは思えない作品を発表しても(文体は平明だから、なんとなく読めている気はしますけど)、突出したセールスを確保できる作家というのは、この国では絶滅危惧種です。しかも、国内のみならず、様々な言語に翻訳されてグローバルな共感を継続的に掴んでいるのも、日本人の作家としては特異な側面です。

 村上春樹の「ハンティング・ナイフ」という小説を読まれた方はいらっしゃいますかね。「回転木馬のデッド・ヒート」という短篇集に収録されており、英訳もされています。この小説、昔から鮮烈な印象が拭えなくてずっと頭の片隅にこびりついているのですが、何とも要約し難い微妙な細部があるのです。

 あらすじと言えば、休暇で南の島(沖縄?)を訪れた語り手の「僕」が、車椅子に乗った青年と「ハンティング・ナイフ」を巡る短い会話を交わすというだけの、本当にセグメントの寄せ集めといった感じの結構なのですが、なんというのか、奥歯に物が挟まっているというか、思い切りサラダを頬張った口の中でアスパラの硬い皮がいつまでも噛み切れずに残っている感じというか、何かが「秘められている」という印象を受ける作品なのです。

 以前、個人的にこの作品の評論を書いていて、ふと思いついたのは、この作品は「日本」と「アメリカ」の関係性を取り扱っているのではないかという突拍子もないアイディアでした。むろん、あらかじめ断っておきますが、作者自身にそういう政治的な意図があって、この作品が綴られたとは思いません。

 これだけでは何の話か分からないと思いますので、一部を引用してみます。底本はすべて「めくらやなぎと眠る女」(新潮社 2009年11月25日発行)です。

 

 ブイの上空は米軍基地に向かう軍用ヘリコプターの通り道になっていた。彼らは沖合からやってきて、ふたつのブイの真ん中あたりを通過し、椰子の木の上を越えて内陸の方へと飛び去っていった。パイロットの表情まで見えそうなほどの低空飛行だった。緑色の鼻先からは、昆虫の触手のようなアンテナがまっすぐ前方に突き出していた。でも軍用ヘリコプターの行き来をべつにすれば、そこは今にも眠り込んでしまいそうな、静かで平和な海岸だった。誰にも邪魔されず、のんびりと休暇を過ごすには、うってつけの場所だ。 

 

  冒頭の部分ですが、この作品は物語の舞台を具体的に明示していません。しかし、わざわざ「米軍基地」という言葉を使うということは、この土地がアメリカの領内ではないということを意味していると考えられます。だって、アメリカを舞台に据えた小説なら、わざわざ「米軍」と明記する必要はありませんよね。

 続いて着目すべきは「でも軍用ヘリコプターの行き来をべつにすれば、そこは今にも眠り込んでしまいそうな、静かで平和な海岸だった」という一文です。これって、何だかわざとらしく聞こえませんか? もっと根本的に言えば、なぜ「米軍の軍用ヘリコプターの往来」という描写を、この場面に挿入する必要があるのか、分からなくないですか? 単に「静かで平和な海岸だった」と言えばいいのに、その空を飛行する軍用ヘリの存在を点描するのは、それが重要な意味を持っているからだと、推察できます。

 私の考えでは、これは「静かで平和な海岸」が「軍用ヘリコプター」と「米軍基地」の存在によって保たれているのだ、ということを言いたいのだと思います。そうなると、沖縄をイメージするのはそんなに的外れな見解ではないですよね。現に沖縄の安全保障は在日米軍の巨大な軍事力によって支えられている訳ですから。別に基地の有難味を感じるべきだとか、そういう政治的な信仰告白をしたい訳ではありません。単に、在日米軍がいなければ沖縄の防衛は難易度を増すだろうという素朴な意見を披歴しているだけです。

 以上の認識を踏まえて、さらに別の箇所を引用してみます。

「ときどき僕は夢を見ます」と車椅子の青年は言った。その声は、どこか深い穴の底から這い上ってくるような奇妙な響き方をした。「僕の頭の内側で、記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さっています。とても深く刺さっています。でもべつに痛くはありません。重みもありません。ただ突き刺さっているだけです。僕はそれをどこかべつの場所から、他人事のように眺めています。そして誰かにそのナイフを抜いてもらいたいと望んでいます。でも誰もそんなナイフが僕の頭に刺さっていることを知りません。僕は自分でそれを抜こうと思うのですが、僕は自分の頭の中に手を入れることができません。それは不思議な話です。突き刺すことはできたのに、抜くことはできないんです。やがてそのうちに、いろんなものがだんだん消え失せていきます。僕自身も薄らいで消えていきます。そしてあとにはナイフだけが残ります。ナイフはいつも最後まで残るのです。まるで波打ち際に白く残された古代生物の骨のように……。そういう夢です」

 

 これは小説の最後の場面、青年の独白です。一旦突き刺さったら、二度と抜くことのできないナイフのイメージ。ここから私は、広島と長崎に投下された原子爆弾を想起しました。すべてが消え去った後の世界にも残り続ける、古代生物の骨のようなナイフ。これほど核兵器の災禍の比喩として的確で、美しいものは類例がありません。車椅子の青年の動かなくなった脚は、この「ナイフ」による攻撃の結果ではないのか? 色々と妄想の膨らむ作品です。

 繰り返し申し上げますが、作者がこのようなイメージを携えて小説を作り上げたなどと強弁するつもりは毛頭ございません。しかし、読者には「誤読する権利」があることを信じるなら、こういう独善的なイメージさえも抽出し得る底の深さが、この短い紙幅の作品の中にまで鏤められていることに、私は村上春樹の本格的な才能を見出します。何だか偉そうですね。サラダ坊主のくせに。要は、どんな解釈も許容し得る幅の深さが、村上春樹の文学的価値のグローバリゼーションを巻き起こす土壌なのではないか、という風に結論する訳であります。

 何はともあれ、村上春樹の作品は一読の価値があります。初期の「風の歌を聴け」の乾き切った抒情とか、スタイリッシュで素敵ですよ。

 以上、平日昼間の穀潰し、サラダ坊主でした。