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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「バケモノの子」は本当にバケモノだったのか(中途半端なパラレルワールド構成)

マンガ・アニメーション

 どうもサラダ坊主です。

 めっきり涼しくなってきて、夏の断末魔のような蝉の声ももうすぐ衰えていくと思うと、嬉しいですね。ええ、夏には何の恩も義理もありません。一刻も早く過ぎ去ればいいのにと思うばかりの、晩夏の午下がり。

 ブログ開設時に「映画」グループを選択したのに「映画」について何も書いていないので、頑張って一本拵えようかと重い腰を上げました。サラダ坊主です。

 映画の選択については、何がいいか考えましたところ、先月だか先々月だかに船橋ららぽーと細田守監督の「バケモノの子」の試写会へ行きましたので、その感想などをたらたらと書き殴ろうかと思います。

 私は以前に同じ監督の「おおかみこどもの雨と雪」というアニメ映画を観覧して、しみじみ素敵な映画だと感傷に耽ったことがあり、今回の作品も楽しみにして見に行きました。結論としては「竜頭蛇尾」の文言が相応しいなという感じの出来栄え。冒頭の百秋坊と多々良の会話に、黒い画面を背景にオレンジ色の姿で描かれた熊徹と猪王山の演武が鮮やかに浮かび上がるシーンなど、これから異世界を取り扱ったファンタジーが開幕するのだというワクワク感を強く煽り立てる導入部で、それこそ宮崎駿の「千と千尋の神隠し」ばりの傑作映画の誕生かと期待したのですが、生憎序盤のテンションは維持されず、楓が出てくるあたりで脱臼しちまった印象がありました。

 この作品は、現実と異世界とを重ね合わせる構造になっており、そのパラレルワールド的な構成自体はファンタジーの常道であり、特別に画期的なアイディアではありません。たとえば中華風ファンタジー小説の傑作である小野不由美の「十二国記」も、その構成を導入していますし、もっと言えば「ドラえもん」の劇場版アニメは多かれ少なかれパラレルワールドの原理を用いて物語にダイナミズムを与えています。

 しかし、この作品におけるパラレルワールド的原理は適切に機能しているとは言い難いな、という感想を持ちました。第一に、異世界へ転移させられた人間の苦悩というのは、現実への帰還が不可能もしくは困難であるがゆえに、独特のパセティックな興味を掻き立てるものなのですが、この作品では二つの異質な世界の行き来が、何の前触れもなく易々と達成されてしまいます。「千と千尋の神隠し」みたいに、現実の世界へ復帰することが最終的な目的に設定されるのではなく、ぼんやりと気ままに戻れるかのような描写になっていて、見ている側の興奮と戦慄を弱めてしまっています。

 この仕組みは映画全体の迫力を著しく弱める根本的な「失陥」として作用しています。長年離れ離れになっていた父親との再会も、楓との関係も、熊徹との別れも、何もかもが厳密な「一期一会」の切なさを持たない、単なる平坦な描写に堕してしまっているのです。これでは、何のために異世界を舞台に選び、バケモノの子という筋書きを組んだのか分かりません。渋天街のイメージなど、非常にワクワクさせるシーンもあったのに、異世界の「異質性」が現実との往還の容易さによって削り取られ、何だかバケモノがバケモノでないような、単なる扮装に過ぎないような安っぽさを孕んでしまったのです。

 どうせこういう話になるなら、楓との関係なんかはバッサリ削除して、ひたすらに渋天街の内部を舞台に絞って、強くなるための成長物語として話の筋を組んだ方がよかったのではないかと思います。途中、各地の宗師に会いに行くくだりも、せっかく美麗な書き込みで描いてあるんだから、もっと敷衍して活用すべきでは? あのシーンを拡幅するだけでも、現実のパートを切り取った分を補填するにはお釣りが返ってくるほどだと思います。

 あと、一郎太のキャラクター描写の薄さ、杜撰さも気になります。あんな描き方でいったい誰が彼の境遇に共感を覚えるのですか? せっかく終盤であれだけマイナスの活躍をする人物なのに、あれじゃ何のために現実の渋谷へ白鯨を泳がせたのか分かりません。

  発想も素材もよかったのに、それを物語として組み立てる手順を誤った印象のある映画でした。一度は見ておくべきクオリティはありますが、もう一度見たいとは思わないかも。少なくとも、前半に限って言えば傑作だったと思います。

 

以上、口先ばかりのサラダ坊主の戯言でした。