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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

世界は「コトバ」と「ココロ」で出来ている。 津田雅美「彼氏彼女の事情」について

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。一日の労働を終えた後の束の間の休息の時間を使って、今夜も更新させていただこうと思います。

 昨日は「自分の好きなものについて書く」という趣旨の下に、少し古臭いテーマではありましたが「坂口安吾」を取り上げました。文学やら小説やらに関心のある方々にとっては馴染み深い名前ではありましょうが、必ずしも一般的な知名度は高くない作家です。だからこそ、世間の皆様に知ってもらいたくて坂口安吾について書いたという経緯もあるのですが、今回は再び趣向を変えて、もうちょっと現代的な知名度の高いものについて書こうと思います。

 という訳で、津田雅美の「彼氏彼女の事情」です。果たして一般的な知名度がどれだけ高いのか知りませんが、過去には庵野秀明監督の手でアニメ化されたこともあり、結構ファンは多いんじゃないかと思います。所謂「少女マンガ」にカテゴライズされる作品であり、絵柄なども典型的に少女マンガチックと言えますが、まあ、そんなことは重要な問題ではありません。

 私はこの作品を途中までしか読んでいないのですが、その理由については後述します。少なくとも読んだ部分については、まぎれもない傑作であることを疑いません。

 まず、どういう作品なのか、予備知識ということで昨晩に引き続きウィキペディアの記事を参照します。ウィキペディアって、物事を深く掘り下げて理解するには向かないですが、手っ取り早く概略だけを掴むツールとしては極めて優秀ですね。かなり解像度にムラのあるマップという感じですが。

彼氏彼女の事情』(かれしかのじょのじじょう)は、津田雅美による日本少女漫画、およびそれを原作としたテレビアニメなどの総称。『LaLa』(白泉社)において、1996年2月号から4月号までの短期連載(全3話)として掲載されたのち、1996年7月号から2005年4月号まで連載された。単行本は全21巻。2011年6月号には、作者が当時連載中である『ちょっと江戸まで』の舞台に本作主人公が登場する読み切り特別編「ちょっとカレカノ〜『彼氏彼女の事情』世が世ならバージョン〜」が掲載された。

“仮面優等生”の事情を持つ主人公2人の恋愛と成長、コンプレックスとの対峙、そして周りを固める個性豊かなキャラクター達の人間模様が描かれる作品。

 

  これだけ読むと何てことはない作品であるように聞こえますが、なんだって概略だけを聞けば大したことはないように感じられるものです。しかし、この作品はなかなか凄いですよ。

 要約すれば、優等生の仮面を被った高校生の男女が少しずつ自分自身の「本質」に目覚めていき、最終的に「仮面」を脱ぎ捨てて本当の「素顔」を曝け出せるようになる話ということになります。こうした物語の設定自体は、もしかすると陳腐な印象さえ与えるかもしれません。今時、「本当の自分」なんてアイデンティティ固執するような物語は古臭いと笑われるかも。

 しかし古今東西、この「本当の自分」というテーマは人間の実存において、一貫して重要な命題であり続けてきました。誰だって社会に出れば、自分の内なる感情や思考とは裏腹の「言動」を強いられるようになるものですが、それは「学校」という社会においても変わりません。寧ろ「社会の雛型」として設計された諸制度の塊である「学校」では、本当の自分と贋物の自分、内面的な自己と外面的な自己との対立みたいな主題が凝縮され、先鋭的に表現され得るものです。なおかつ思春期という季節は、自己の内外の軋轢が一層激しくなってくる時期ですから、この主題を物語として取り扱う上では、「高校」というのは最適な環境と言えるでしょう。

 もちろん「本物」と「贋物」という対立軸で裁断された自己という問題を取り扱うのは、極めて繊細な作業です。なぜなら自己の真贋という問題は客観的に実在する対象物ではなくて、純粋な「自意識」に関わるものだからです。自意識なんて、目に見えないし手で触ることも出来ない幽霊みたいなものですよね。その自意識の葛藤を抉り出すためには、それを目に見える媒体に託さなければなりません。見えないものを見えるようにするためには、何が必要だと思いますか?

 私の考えでは、それは「コトバ」です。そもそも言葉や文字というのは、もっと厳密に言えば「言語」というものは、その本質として「他の何かを指し示すもの」という機能を担っています。言い換えれば、「コトバ」というのは常に「不在者」を呼び出すものなのです。

 誰だって御存知のように「ココロ」は目で見ることも手で触れることも、腕利きの外科医に解剖してもらうことも出来ません。それは常に私たちの意識にとって「不在である何か」なのです。表情を見れば「ココロ」は読める? それだって結局は、その人の表情を手懸りとして「ココロ」のありようを推察しているに過ぎませんよね? 「ココロ」自体を具体的な対象物として把握することは出来ません。しかし、表情は一種の「コトバ」であり、「ココロ」の何かを反映している鏡のようなものです。「ココロ」を鋭く描くためには、「鏡」のクオリティを向上させ、その取扱いの手順と作法に習熟しなければなりません。それは独特の技術と修練を要求される振る舞いです。鏡を覗き込むことに習熟しなければ、私たちは誰かの「ココロ」を、いや、自分自身の「ココロ」さえも、うまく理解してあげることができないのです。

 その点、この「彼氏彼女の事情」は「ココロ」を描き出し、その内なる屈折を切り取るための「コトバ」の鋭さに満ちています。むろんマンガですから、ビジュアルな表現力も重要ですが、少女マンガというメディアがこれほどまでに犀利な分析力を以て「ココロ」の機微を剔抉し得るのは、ビジュアルな表現さえも「コトバ」の原理に基づいて編成しているからに他ならないでしょう。何気ない表情を描いた一コマも、必ず何らかの「コトバ」を内側に含んでおり、それを読者に手懸りとして投げ与えています。

 壮大な物語とは無縁の、高校生活を舞台にした繊細な描写の積み重ねが、「自己の二重性」あるいは「分裂」に苦しむ人間の過酷な懊悩を、見事に切り出していることに、私は感服しました。そこには必ずしも明確な「論理」が存在しているとは言えません。しかし「ココロ」が常に「論理」に従うものでないことは、常識に決まっています。その「論理」に必ずしも従わないのに、何らかの「論理」に従属しているようにも見える「ココロ」の複雑な「生理」を、作者の「コトバ」は鮮やかにトレースしてみせているのです。

 何だか具体性に欠けた文章ですが、これは筆者の病癖ということでご容赦ください。どうせ物語の内容は一読すれば瞭然とするのですから、細々とした筋書きの説明はバッサリ省かせてもらいます。自意識の繊細な葛藤、ふるえ、痛み、絶望と希望の往復。そういった思春期の哀切な心情を、様々なアングルから捉え直した傑作として、世間の皆様に推薦させていただきます。サラダ坊主の「推薦図書」ということで、何のお墨付きにもなりませんが、読んで損することはないですよ。

 という訳で、今夜もお粗末な文章とともに、船橋の片隅で夜の夢に沈み込みます。サラダ坊主でした。