サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

学習・模倣・創造

今週のお題「いま学んでみたいこと」

 

どうもサラダ坊主です。

昨晩から神戸へ出張しておりました。

夜の8時に新大阪を出て、東京へ着いたのが10時半。遠いといえば遠いことは間違いありませんが、それでもたった2時間半で大阪から東京へ自分の肉体が移動しているというのは、冷静に考えてみると凄いことですよね。これを突き詰めたら、限りなく時間を超越できるようになっていく訳ですから。現状の新幹線の速度水準でも、例えば江戸時代の弥次喜多が見たら「ワープ」だと感じるんじゃないでしょうか、彼らが「ワープ」という概念を持ち合わせていないとしても。

さて、今週のお題というものに初めて挑戦してみることにしました。学びたいこと、それが実際に学べるかどうか、そういう環境にアクセスできるか、時間が与えられているかなど、あんまり現実的な条件は考慮せずに考えてみたいと思います。そうでなければ、すごくつまらないテーマになっちゃいますよね。

たとえば「英語」。実際に学びに行くかと言ったら、学ばないですよ。だってそんな時間も労力もありませんし。でも、「英語」に限らず外国語にアクセスする力って、とても得難い能力だと思います。それは仕事に役立つとか、外国人の方々に道案内ができるとか、そういった実用的な次元の有効性があるから、という意味ではありません。重要なのは、それが「世界」の幅を広げるという点です。

だって、英語の話者って3億人以上いるんです。3億人の人間が共有しているコミュニケーションと思考のための体系に足を踏み入れることが出来るようになったら、確実に視野は広がりますし、世界の見え方も変わります。もちろん、それは英語に限った話ではなくて、中国語(話者13億!!)、スペイン語(話者4億以上)なども加えれば、世界が広がる速度って半端じゃないですよね。

でも、本当に私が学びたいのは「日本語」です。日本語の話者は概ね1億2000万、 英語や中国語やスペイン語に比べれば、そのネットワークの規模は見劣りします。しかし、それでも1億人以上の規模があり、なおかつ長い歴史と伝統があり、様々な語彙の中に日本列島の文化が凝縮されています。

母国語って当たり前に使いこなせるような錯覚に陥りがちですが、厳密な意味で日本人の日本語能力を測定していったら、かなり水準の低い人も出てくるでしょう。識字率が高く、一定の読み書き能力を誰でも当たり前のように備えている環境だから、自覚することが難しいですが、言語というのはたとえ母国語であっても「外部から到来するもの」です。それはナチュラルに刻み込まれている臓器のようなシステムではなく、人間にとって本来的に「異物」なのです。「異物」ですから、体系的な学習のステップを踏まずにその能力を高めていくことは出来ません。

新しい言葉、新しい単語、新しい言い回しを学ぶということは認識を拡張します。認識が拡張されれば、思考の回路が変容します。言葉を学ぶというのは常に認識の書き換えを伴うということ、これが最も重要なポイントで、言語の実用性というものに眼を奪われていると、そんなの記号や符号でいいじゃないかという話になります。たとえば英語は話者の存在する範囲が世界中に拡散しているために、もともと正統とされているイギリス英語(でも、言語に正統って概念を適用することは可能なんですかね?)とは語彙も文法も異質な「方言」みたいなものが続々と派生しています。それ自体は良いも悪いもなく、単純に現実からの要求が強いた条件でしょう。強引に意思の疎通を図るために英語を捻じ曲げていく、そのカスタマイズの手順や結果にも、その土地のオリジナリティは息づくものです。

しかし、言語のグローバリゼーションが進んで普遍性を高めれば高めるほど、機能的になればなるほど、言語が本来持ち合わせている歴史性や地域性は削ぎ落とされ、明快であること、伝わることが総てという具合にロジックが進んでいきます。しかし、言葉が認識や情報の共有のための媒介物としての性質を持つことは疑い得ないにしても、それが言葉の機能の総てであると結論付けるのは早計です。言葉は、単に情報伝達の役割だけを担うのではなく、思考を深め、内省を促す媒介物としても働きます。

誰が読んでもわかりやすい、通じやすいということは今日、言語の運用に関す最大の「美徳」の一つです。しかし、誰にでも通じるという状態へ達するために言語が被る「透明化」あるいは「洗浄」は、例えば言語に染みついたローカルな歴史性を「漂白」する手続きを避けることが出来ません。それは言語が限りなく「符号」に接近していくという意味でもあります。しかし、単なる符号は伝達に特化しているがゆえに、高度な思索を組み立てる媒体としては余りに脆弱で、無力です。そこには個人の主観的な思念が付着する余地がなく、従ってあらゆる思考が平板化された一般論へ傾斜していってしまいます。分かりやすく伝えることの重要性はもちろん社会的美徳に違いありませんが、それだけでは言葉が言葉であることの意義が失われてしまうのです。

古臭く黴の生えた死語、それが分かりやすい伝達の実現に資することがないからと言って遺棄してしまうのは、言語の本来的な創造性、ハイブリッドで雑食的な活力を枯渇させる結果に繋がります。英語が世界的な共通語の地位を高めていくにつれて、地域的な風土、つまりローカリズムによる汚染(悪い意味じゃなくて、洗浄に対する対義語としてのチョイスですからご承知ください)を避けられない状態になりつつあるというのは、言語という現象を考える上では興味深い事実ではないでしょうか。つまり、言語は原理的に「符号」ではいられない、もっと余分な多義性をどうしても孕んでしまう不透明な「何か」なんだ、ということが見えて面白いのです。

そういう言葉の奥行きを学ぶことは、間違いなく世界を愉しくします。なんだか強引な屁理屈ばかりの文章ですが、要はもっと「コトバ」を学びたいなと考えていますということです。そんなこんなで、真夜中のサラダ坊主でした!