サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

なぜ青年はナイフを欲するか 村上春樹「ハンティング・ナイフ」について 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 数日間更新をサボっておりましたが、皆様いかが御過ごしでしょうか。

 明日は台風の影響で大雨とのこと、御出勤される予定の方々はさぞかし気鬱でございましょう。私も気鬱です。

 さて、今回のエントリーから数回にわたって、以前に個人的に書き上げたつたない村上春樹論をアップロードさせていただこうと考えております。

 ブログというのは非常に気軽なメディアで、低コストの思いつきだけの文章を垂れ流そうと思えば幾らでも垂れ流すことが可能なわけですが、最近それに飽きてきまして、もう少し小難しい屁理屈な文章をあえてウェブの大洋に投じてみるのも一興かと思い、このたび小論を投稿することを決めた次第です。

 退屈極まりないかもしれませんが、こういうタイプの文章に御興味のある方は是非ご一読をお願いいたします。

それでは、開幕開幕。

 

一 なぜ青年はナイフを欲するか

 

 村上春樹の「ハンティング・ナイフ」という短い小説について語ろうと思う。そのとき、中心的な命題として導入されるのは「なぜ青年はナイフを欲するのか」という問いである。表題が示す通り、この平坦な筋書きの、挿話とも呼ぶべき作品の中で、ナイフという物体が担う役割は重要である。

 車椅子の青年が、ハンティング・ナイフに魅せられる理由とは何か。それは、このナイフが如何なる象徴性を負っているかという点から、導き出されねばならない。ナイフは、ある種の「暴力」に課せられた比喩的な形象である。ナイフは何かを斬り裂き、解体し、破壊する。使用目的は様々であろうが、共通しているのは、その破壊性、攻撃性、侵襲性である。そうした暴力に憧れる理由を、青年の境遇から引き出そうとするならば、第一に着目すべきは、脚が悪く、車椅子での生活を強いられているという身体的条件であろう。車椅子の青年という一つの形象が、この作品に導入された背景に、作品の内在的な構造=論理が齎す運動の必然性を想定するならば、ナイフを欲する青年が、車椅子での生活を強いられているという設定は、何らかの偶然ではなく、任意の描写でもない。そこには作者の意図と関わりなく、そうでなければならなかった内在的な構造が備わっている。その構造を図式的に解釈し、その奥底に秘められ、伏流している「欲望」の性格を解き明かすことが、本稿の主たる目的である。

 青年が暴力性の象徴たるナイフに惹かれるのは、彼が強いられている肉体の支障、或いは制限が、彼にナイフに象徴されるべき世界への介入を禁じるからである。言い換えれば、彼は肉体的な制限の為に、暴力的な世界への介入を抑止されている。彼は、主体的な行動を通じて、外界に関与する権利を著しく毀損されているのだ。この毀損が齎す劇しい実存の飢渇が、彼の内面に、ナイフに対する奇妙な欲望を喚起するのである。この場合、暴力性という観念は広い意味で解釈されねばならない。それは人を傷つけたり、自分を傷つけたりする「悪」の行為、「負性」の行為であると、狭義に捉えられるべき境涯ではない。それは広い意味で、世界に関わり、影響を与え、操作を加え、秩序の生成と解体の両方を実行するような、或る「力」なのだ。それ自体は絶対値のように、正負の符号を持たない純粋な強度であり、エネルギーである。良くも悪くも、青年の肉体的支障は、彼から世界に関わる主体的な行動性を奪っており、その絶対値は限りなく小さい。正負を問わず、外界への影響力を矮小なものに留められている青年の実存は、空虚なものである。そうなのだ。彼は「空虚」であることを強いられ、世界に対する「不能」を生きている。この「不能」は正しく「暴力」と対比されるべき何かである。空虚=不能を充填しようとする内なる衝動が、彼にナイフへの欲望を、しかもブラッド・ガターのついた高級な狩猟用ナイフへの渇望を植え付けるのだ。

 然し、此れだけの分析では未だ、問題の認識は皮相な次元に留まる。ナイフを「主体性」と見ることも、或る「暴力」と見ることも、読者の勝手な権利だが、このような図式だけでは解き明かせない細部が、この作品には豊饒である。例えば、結末部分の次のような「夢」の記述を、無視することは出来ないであろう。

「僕の頭の内側で、記憶の柔らかな肉に、ナイフが斜めに突き刺さっています。とても深く刺さっています。でもべつに痛くはありません。重みもありません。ただ突き刺さっているだけです。僕はそれをどこかべつの場所から、他人事のように眺めています。そして誰かにそのナイフを抜いてもらいたいと望んでいます。でも誰もそんなナイフが僕の頭に刺さっていることを知りません。僕は自分でそれを抜こうと思うのですが、僕は自分の頭の中に手を入れることができません。それは不思議な話です。突き刺すことはできたのに、抜くことはできないんです。やがてそのうちに、いろんなものがだんだん消え失せていきます。僕自身も薄らいで消えていきます。そしてあとにはナイフだけが残ります。ナイフはいつも最後まで残るのです。まるで波打ち際に白く残された古代生物の骨のように……。そういう夢です」

  車椅子の青年が語るこの夢の内容は、多義的な解釈を許容すると同時に、複雑な意味の反響を宿していると言える。この文章を、作品の内在的な論理を示すものとして理解するならば、先刻述べた「ナイフ」に関する象徴性の定義は、修正を強いられるであろう。重要なポイントを幾つか挙げよう。

① ナイフは、記憶に突き刺さっていること。

② ナイフは、いつも最後まで残るということ。

③ ナイフは、突き刺すことはできても、抜くことはできないということ。

 これらの特徴は、ナイフ=暴力性という図式に新たな角度から照明を当てる言明である。ナイフは、単なる主体的な行動性のようなものではない。何故なら、それは「僕自身」の存在が消滅した後も残り続ける、或る奇怪な外在性と永遠性を伴う「何か」であるからだ。ナイフの象徴する侵襲性に、こうした「外在性」と「永遠性」という二つの要素が付け加えられるとき、前述した不能=主体性の二元論的構図は破綻すると言わざるを得ない。若しくは、そこには重大な変容が加えられる。それは人間が取捨選択できる、任意の何かではない。ナイフは、外在的な暴力性の象徴であり、しかもその効果は総てが消え去った後も永続する、尋常ならざる強度を有しているのだ。

 ここまで敷衍すると、或る一つの可能性が閃かないだろうか。突き刺すことはできても、抜くことはできず、いつも最後まで残り続ける、人間のコントロールを越えた或る野蛮な暴力性の形象。私はそれを「原子力」若しくは「核兵器」の暗喩ではないかと考える。それは取り返しのつかない絶対的な暴力の形象化された表現である。そして、ナイフを核兵器と看做す立論に則るならば、最初に挙げたポイント、即ち「記憶に突き刺さったナイフ」という表現を、例えば広島・長崎の原爆の記憶に読み替えることもできるし、或いはチェルノブイリや福島などの原発事故の記憶にも読み替え得る。そして、この読解は、日本とアメリカとの関係性にまで、その視野を波及させることが可能になる。

 この短い小説の中に登場する地名は、アメリカと日本に属するものに限られる。登場する人物の国籍も、恐らくはその何れかに属するであろう。米軍に関する記述も見られる。これも、単なる任意の、偶然の選択の結果であると看做すのは、却って不自然であろう。何故なら小説というものは、作者の意識=無意識の何れから発現したものであろうと、必ず誰かの手で「作られたもの」であり、自動的に生成された単なるプログラムのようなものではないからだ。つまり、アメリカ人の太った元スチュワーデスが登場することも、語り手の「僕」が東京から来た旅行者であることも、米軍のヘリコプターが低空飛行していることも、総て必然的な記述であり、それが記述された背景には何らかの主体的な意図が介在していると、判断すべきなのである。それが小説を読み解くという作業の要請する前提的な条件なのだ。

 この作品の基層に、広島・長崎への原爆投下と敗戦の記憶が埋め込まれているとしたら、青年が欲するハンティング・ナイフの解釈も、単なる脚の悪い青年の実存的苦悩の一例に留まるべきではない。それさえも、何かを暗示する象徴的な、作品に埋め込まれたシグナルのような「棘」なのだ。つまり、我々は更なる読み替えによって、この作品の基層に踏み込むべきなのである。そこまで潜行しなければ、この作品を読むという経験は、単なる奇妙な味わいの短篇を読んだという以上の感想には昇華されないであろう。

 青年が「核兵器」を望み、それによって何かを「切る」ことを望むという、その名状し難い衝動が、アメリカに敗北した日本の抑圧された反動的欲望であると考えるのは、それほど突飛なものではないと思う。少なくとも、そのような衝動を現実に生きて、核保有に至っている国家は世界に幾つも存在し、その数は増えつつある。核兵器は単なる兵器でも武力でもなく、総てを壊滅させ、その負性の災禍を半永久的に大地に刻み続ける超越的な「暴力」である。その暴力を記憶に刻まれた青年が「車椅子の青年」として形象化されているのは、核兵器の投下と主体性の制限との間に明確な因果関係が措定されているからだ。そして、青年の語る「家族」というシステムの論理も、これらの核兵器を巡る負性の記憶と少なからず関わり合っている。

 端的に言って、青年の「不能」は「核兵器」が齎した禍根なのであろうか。彼の記憶の柔らかな肉に突き刺さったナイフは、過去に投下され、国土に深甚な被害を齎した核兵器の象徴なのか。そして、なぜ彼は、嘗て自分の記憶に突き立てられた「ナイフ」を入手することに、奇怪な情熱と執着を燃やしたのか。ナイフを得ることは、ナイフを突き立てられた青年の実存を救済する鍵となるのか。これらの問題を解き明かす為には、別の角度から改めて作品世界の内在的な構造を探り、見通しを立てる必要があるだろう。