サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

なぜ青年はナイフを欲するか 村上春樹「ハンティング・ナイフ」について 3

 サラダ坊主です。

 これで完結です!

 

三 「家族」というシステム

 

 この作中で最も理解の難渋する箇所は、青年の語る「システム」に就いての科白であろう。それは抽象的で、観念的で、具体的に如何なる事実を物語る言葉なのかが、不明確に示されている。言い換えれば、それは或る具体的な事実に仮託された暗喩的な、象徴的な現実の表現なのであろう。それは何かを語ることによって、別の何かを暗示するという有り触れた手法に則っている。それを私は暗喩という言葉で指し示している訳だが、この暗喩的な語り口は、如何なる「象徴的な現実」を読者に教えようとしているのであろうか。

「さっき分業システムと言いましたが」と彼は続けた。「分業というからには、僕らにも僕らなりの役割みたいなものがあります。ただ与えられるだけの一方的な関係ではない。何と言えばいいのかな、僕らは、何もしないことによって、彼らの過剰さを補完しています。バランスをとっているんです。彼らの過剰さが生み出すものを、言うなれば、癒しているわけです。それが僕らの側の存在理由です。僕の言っていることがわかりますか?」

 なんとなくわかるような気はするが、自信はあまりない、と僕は答えた。彼は小さな声を出して笑った。

「家族というのは不思議なものですね」と彼は言った。「家族というのは、それ自体が前提でなくてはならないんです。そうじゃないと、システムとしてうまく機能しない。そういう意味では、僕の動かない脚は、僕の家族にとってのひとつの旗じるしのようになっています。多くのものごとが、僕の死んだ脚を中心にして動いています」

  この一節が作品の内在的な構造と原理を解き明かす上で、重要な符牒として象嵌されていることは間違いない。だが、その仕組みを一般化し、様々な事象に適用し得る明晰な論理として摘出するのは、容易な作業ではない。例えば、なぜ家族というシステムは、それ自体が前提でなければ機能しないのであろうか。あらゆるシステムには、そのシステムの諸機能が遂行すべき役割と使命を背負っているものだ。然し、青年の言い分に従うのならば、少なくとも家族というシステムに限っては、それ自体の存続が目的でなければ、その諸機能に何らかの異変や誤作動が生じるということになる。これは考えてみれば、不思議なことではないだろうか。人間が作り出したあらゆるシステムには目的があり、遂行すべき課題がある。然し、家族というシステムは、目的を持つことによって機能不全を惹起するような特性を孕んでいる。言い換えれば、家族というシステムを円滑に機能させる為には、システムから目的という観念を、或る総合的な志向性を取り払い、排除しなければならないということだ。

 それが青年に課せられた「役割」であると考えてみたら、見通しは立つであろうか。青年は「何もしない」ことによって「システムの過剰」を補完している。つまり、システムは半ば自動的に「過剰」を生成する構造的な必然性を備えているということである。その「過剰」を補完しなければ、システムは瓦解する。では、システムが形成する「過剰」とは何なのか。それは何に対する「過剰」なのか。

 家族というシステムが抱え込む「過剰」を、青年は「何もしない」ことによって解消している。言い換えれば、この「過剰」と「欠落」の対比は、システムが構造的な均衡を確保しない限り、瓦解する宿命を担っているということだ。

「とにかく彼は日々、タイルを造っています。それからいろんな会社の株を持って、いろんな土地を所有しています。ひとことで言えばやり手なんです。僕の父もそうです。要するに、僕らは――僕の家族はということですが――二種類の人間にはっきりと分かれています。健康な人間と、不健康な人間。効率的な人間と、非効率的な人間。とてもはっきりしている。だからその結果として、それ以外の基準がどうも今ひとつ不明瞭になるきらいがあります。でも、それはまあどうでもいい。僕らはとにかく、それなりにうまく共存しています。健康な方の人間がタイルをせっせと造り、財産をうまく運用し、適当に脱税をして――というのはここだけの話ですが――それで不健康な人間を養っています。いわば分業システムです」

 これがシステムの具体的な実態に関する描写である。このシステムにおいては、一つの明確な規範が総体を支配している。効率性という理念が、明確な隔壁となって、成員を二つの区画に仕分けし、分離しているのだ。健康=不健康の対比も、効率性を基準とした区分けに吸収されると考えて差し支えないであろう。此処には、効率化に対する止み難い衝動が息衝いている。それを経済的な合理化への欲望として読み替えることも可能である。

 青年の家族、即ちクリーブランドで大きなタイル会社を経営している「健康な」眷属たちは、明らかに経済的な勝者であり、その欲望は経済的な成功に紐づけられている。彼らにとって「過剰」という観念は何を意味するか。言い換えれば、彼らの欲望が紐づいている「過剰」とは何か。それを「利潤」と看做すのは、不自然な曲解であろうか。単に金儲けが望みの総てだと言いたいのではない。彼らの衝動が求める対象が、システムから析出された「過剰」であると言いたいだけだ。そうした「過剰」の経済的な表象が「利潤」なのだ。

 システムが作動することによって齎される「過剰」を「何もしない」ことによって補完する「青年」の役割は、いわばシステムに穿たれたブラックホールのようなものである。それは経済的に言うなら「消費する」ことだけを目的=機能として存在するということだ。それによってシステムの「バランス」を保ち、瓦解を回避することが、彼の役割である。このような循環が「それ自体を前提として」存立するということは、発生した「過剰」が内なる存在によって解消されるということ、つまり「外部」に何も齎さないということを意味している。それは閉鎖された循環性を特質とするシステムであり、どれほど外部との間に密接な関係や交流を持とうとも、本質的な意味で外界に開示されることはない。しかも、このシステムは「僕の死んだ脚」を旗印として掲げている。あらゆる過剰が「僕の死んだ脚」に吸い込まれる為にこそ存在する。この譬えようもない不毛さ、あらゆる過剰が永久に解消され続ける仕組みとは、一体何なのか。それを「家族」という現実の社会的制度に適用しても意味がない。このシステムは抽象的に語られた「暗喩」であり、安易な一般化を拒む性質の「暗喩」なのだ。

 総ての過剰を無化する特異点、そこに青年の「動かない脚」は位置している。動かない脚は、不能性の象徴として語られ、描かれている。この特異点が何を意味するのか。その特異点を、前述した論理に基づいて「オキナワ」と読み替えることは可能なのか。

 少なくとも「オキナワ」が、日米関係の矛盾を集約する特異点であることは論を俟たない。在日米軍の基地の過度な偏在、米兵による相次ぐ犯罪、しかもその犯罪者が日本の司直によって裁かれないという不当な現実、市街地を戦闘機が低空飛行し、場合によっては墜落して無辜の市民に死傷を強いるという暴挙。これらの抜き難い不合理は、日米間の特殊な癒着が生み出した悲劇的な現実であり、その現実が悉く「オキナワ」に押しつけられていることは明白である。言い換えれば、そこはシステムの矛盾=過剰を補完する奇怪な聖域のような役割を課せられている。

 経済的な表象に仮託されていた「過剰」を、このように日米同盟というシステムの政治的矛盾と読み替えることは、これまでの論述を踏まえるなら、然して突飛な展開ではないであろう。総ての矛盾を引き受けることで「オキナワ」は或る特殊な象徴にまで高められる。無論、それは飽く迄も象徴化された「オキナワ」であり、現実の沖縄から、その歴史的な固有性を減算することで呼び出され、形作られた象徴の「オキナワ」である。それを「静かで平和な海岸」であると看做すのは、東京から来た「僕」の政治的欺瞞に過ぎない。実際には、彼の視界には「米軍」の影が幾度も現れている。それに直接的な言及を行なえば、作中で描かれている「オキナワ」の幻想的な静寂は直ちに破られるであろう。

 総ての矛盾を無化することで「オキナワ」は「システム」の「バランス」を維持している。然し、そのような欺瞞的役割が、いわば「システム」の生贄たることが、青年に如何なる負担も与えない筈はない。その過重な負担が、残酷な皺寄せが、彼の内面に或る危険な欲望を喚起している。それは慎重に抑制されているが、紛れもない「敵意」である。

 空気を裂きながら、僕はふと、昼間会った太った女のことを思い出した。ユナイティッド・エアラインの元スチュワーデス。彼女の白くむくんだ肉体が、霞のように不定型に僕のまわりに漂っているみたいな気がした。ブイや海や空やヘリコプターや、そのパイロットも、その霞の中に含まれていた。僕は試しに彼らを切り裂いてみようとした。でもそこには適切な遠近感が欠けていて、僕のふるうナイフの刃先は、あと少しのところで、彼らには届かなかった。彼らが架空のものなのか、あるいは僕自身が架空のものなのか、僕には判断ができなかった。でもまあいい、と僕は思った。どちらにせよ、どうせ明日になれば、僕はここにはいない。

 この場面が含んでいる複相的な意味は、作品の核心に触れている。語り手の周りに漂う「霞」が、アメリカ的なものの影響力を暗喩的に示していることは、明白である。そして、青年に頼まれてナイフを振るう「僕」の「刃先」は、そのアメリカ的なものの集合的な表象を切り裂くことができない。この政治的=軍事的無力感に対して、語り手は「どうせ明日になれば、僕はここにはいない」と嘯いてみせる。この然り気ないシニシズムは、沖縄問題に対する日本=本土の政治的姿勢を根本的に剔抉していると言える。結局は「他人事」であり、尚且つ「オキナワ」という特異点の存在を要求しているのは「アメリカ」だけではなく、日本=本土も同様なのだ。両者の利害が一致した、或いは両者の利害の矛盾を隠匿するという点で思惑が一致したからこそ、総ての矛盾を無化する聖域として「オキナワ」は政治的に構築されたのである。しかも、それは厳密な意味では「無化」ではなく、単なる「隠蔽」に他ならない。矛盾が集約される為にこそ、「オキナワ」という領域はあらゆる主体性を捨象した時空として構造化されたのであり、そこに働いている根深い抑圧は、様々な現実を隠蔽してしまう。歴史的な固有性は排除され、表層的な「平和」が形成される。その表層的な「平和」の端々に生じる断裂から見える「アメリカ」の色濃い存在感は、結局のところ、七十年前の敗戦の日から、我々の生活を呪縛し始めたのである。

 青年はナイフを欲するが、それは結局、自力で行使することもできない単なる所有物の次元を超えていかない。東京から来た旅行者にそれを委ねても、ナイフの刃先がアメリカ的なものの集合へ達することは、致命傷を与えることは有り得ない。この究極的な屈従の形式は、たとえそれが意識の上で前景化されていなくとも、我々の生活を拘束する絶対的な摂理として稼働している。繰り返すが、脚の悪い、車椅子の青年という人格的表象は、偶然的に採択された交換可能な表象ではないし、その肉体的な支障は任意に選択された単なる「キャラクター」ではない。我々は、それが先天的な障碍であるかのように思い込まされているが、実際には、彼の脚を不能にした犯人は実在するのだ。アメリカに暴行された日本の青年。そうした現実から何も受け取らず、特別な感慨も懐かずに暮らしていられる我々の切実な不感症の構図を、この作品は控えめに照明していると言えるのではなかろうか。

 

 

 いかがでしたでしょうか?

 私は本職の物書きでも学者の卵でもないので、学術的な理解とかはできません。小説を読んで考えたことをねちねち小難しく書いただけの代物です。

 でも、暇潰しにはなるかな?

 船橋サラダ坊主でした! 明日は台風ですからご用心を!