サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

野心と放心 「淪落」という倫理について 坂口安吾「風と光と二十の私と」 2

 どうもサラダ坊主です。

 坂口安吾論の後篇を矢継ぎ早にアップします!

 

 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。(「堕落論」)

 この「美しさ」は自然と同化して人間性を喪失し、単なる「けだもの」に堕ちた人間の姿である。坂口の唱える「堕落」とは然し、このような「動物性」への退行を意味するものではない。いや、これは動物性でさえない。純粋に無機的な「自然」と融合することで生じた極限の「空虚」の形態である。それは「死」を限界まで受容した人間が陥る独特の境涯であり、総ては偉大な「放心」によって覆われ、包囲される。だが、人間の倫理と尊厳は寧ろ「野心」の側にあり、俗情と欲望の渦巻く巷間に存在すると言うべきなのだ。

 自然との交歓によって得られる超越的=脱俗的な「満足」を反倫理的な存在の様式として位置付けること、それが坂口安吾の「倫理」である。言い換えれば、「淪落」こそ「倫理」なのだ。このような反転と逆説は、なぜ生み出されたのか。俗世の不毛な諍いから遠ざかり、様々な感情に囚われることなく、平穏と安寧を打ち立てることが、なぜ「倫理」に反すると看做されるのか。それは、倫理的であることが、常に生きることの実相に向き合うもの、生きることの実相を肯定するものでなければならないからだ。もっと言えば、それは無邪気に生きること、動物的に生きること、自然の一部と化して生きること、その純粋な即自的実存の否定である。「私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ」という文言は、この問題を解き明かす上で重要な鍵となる。戦争は、人間を追い詰める巨大な「自然」の形態であり、或る意味では、様々な災害と同質の、外在的な暴力である。その暴力に打ち拉がれ、屈従することは「虚しい美しさ」を齎す。そこには「考える必要」がない。自然に対する絶対的な受動性を生きる存在に、考えるという対象的な努力は要らない。自然から独立し、自然を対象化し、自然を外在化すること、言い換えれば「主客」の距離を形成すること、それが倫理的な営為として称揚される。主客の疎隔を踏み潰し、内部と外部との境界線を解体して、渾然たる「一者」として溶け合うことは、突き詰めるならば、大いなる自閉性に帰着するのみだ。それは他者を抹消することであり、自己を絶対的に拡張することと、構造的には同質である。だが、倫理は常に他者との関係の中で生成される論理であり、自己完結的な閉域の破れ目にしか成り立ち得ない。

 自分を苦しめることが「人間の尊さ」に繋がるのは、あらゆる倫理が、自閉的な満足の排斥という原理を内包しているからである。倫理の役割は、自己の輪郭を他者に向かって開放することに存する。言い換えれば、倫理は他者との関係の中にしか存在しない。他者との関係を断ち切ることで得られる「安心」=「放心」は、如何に道徳的な潔癖さと清廉さに鎧われていようとも、自閉的な欺瞞性の所産でしかなく、そこから本来的な意味での「倫理性」を抽出することは不可能なのだ。

 私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、

「先生、叱っちゃ、いや」

 彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。

「ああ、叱らない」

「かんべんしてくれる」

「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」

 彼はいつもウンウンと言って、きいているのである。

 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。 

 このような「お説教」を清新な教育論のように受け止めて、肯定してはならない。坂口自身、このような「お説教」は「空虚」だと述べているのだから。「善いことも悪いことも自分一人でやる」のが、倫理的だと考えるのは見当違いである。善悪の基準というものは常に、他者との関係性において流動的に定位される。「善いことも悪いことも自分一人でやる」のが尊いなどと考えて満足していられるのは、その当時の彼が「太陽の讃歌」に惑溺し、倫理的なものの本質を誤解していたからである。「善悪」の結果を総て個人で引き受けろと命じるのは、確かに道徳的かも知れない。道徳の本義は、他者に迷惑を掛けず、総てを自己完結的に処理することに存するからだ。その究極的な結論が、自閉的な超越性に至るのは、時間の問題に過ぎない。他者と関わりを持たないこと、それによって自他の相剋という醜悪な現場を免かれ、高潔と清廉を保つこと、それが道徳の本質である限り、坂口の「倫理」は絶えず道徳的頽廃としての「淪落」に傾斜せざるを得ない。倫理とは、道徳性に背馳してでも、他者との関わりを維持しようとする志向性である。

 教員時代の「私」が「道徳」に傾いていたのは、その内面において、外的な現実と交渉することを拒絶するような「絶望」が、重要な地位を占めていたからである。つまり、彼の内面で「野心」の挫折というドラマが演じられた為に、その反動的な屈折が「行雲流水」に象徴される道徳的観念への執着に転化したのである。何事にも囚われず、無感動であること、女性に惚れても、その幻影を抱き締めるだけで満たされてしまうこと、それらの傾向性に共通するのは「現実に対する蔑視」である。現実は常に自己と他者との共同性の上に成り立つものであり、それに対する蔑視は「他者性の消去」という捨象を伴う。こうした自閉性は、他者を傷つけること、他者から傷つけられることへの過度の怯えに基づいている。その繊細な感受性は、未成熟な人間性の反映である。嘗て、その未成熟な人間性に基づいた生活を送っていた「私」に、もう一人の「私」が語り掛け、伝えようとするメッセージは、そのような繊細さ、苦痛を逃れようとする動物的な傾向性に対する否定である。「不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから」という言葉は、無痛的な満足への執着を排撃している。この無痛性に対する執着が、道徳性の本質的機能である。「私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ」。現実によって魂を制約されることは、無痛的欲望の原理に背反する。無痛的満足を追求すれば、「現実」は否定されるべき低次の境涯に貶められざるを得ない。坂口の「淪落」は、そのような道徳的潔癖からの「逸脱」を意味しており、道徳性からの逸脱を経由して「倫理」に到達することを目指しているのだ。

 「私」は嘗ての自分の道徳的清廉を、肉体的生活の未熟という点に結び付けている。言うまでもなく、肉体は「私」の精神にとって外在的な領野であり、快楽と苦痛の混交する世界である。肉体的な摂理は、無痛的な満足に対する過度の執着を、極めて現実的且つ物理的な経過を通じて破壊する。自然との交歓、例えば「太陽の讃歌」のような感覚は、一見すると肉体的な現象のように思われるが、実際には肉体的原理の解体の上に成り立っている。自律的な肉体=生命を、無機的な自然へ還元することで、人間性=倫理性の構図を棄却しようと試みているのだ。「麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた」。このような「幸福」は、自然との融合を通じて、自己の個体性を消去することで確保される「歓喜」であり、無痛的充足の典型的な様態に他ならない。現実的な問題として、自己の個体性を消去するのは不可能な夢想に過ぎないが、道徳性という理念は常に、自己の抑制と縮減、そして抹殺を要求する。「滅私」という観念ほど、道徳的な臭気に覆われた思想は他に考えられない。道徳は、自己の個体性を否定することによって、同時に他者の個体性さえも否定してしまう思考の形式である。それは根本的に「死」の思想なのだ。生きようとする力の亢進と拡大、端的に言えば肉体的成長は、そのような「死」の思想を、自己の消滅という精神的擬制を、容易く破綻させる。そこに「私」は倫理的成熟への契機を見出しているのである。