サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

世捨て人の受難 車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 すっかり千葉は天気が良くなりましたが、鬼怒川の決壊に続いて、宮城県でも豪雨の影響で渋井川の決壊が発生したとのこと、背筋の凍るような話です。

 東日本大震災で発生した大津波からの復興も十分でないのに、東北地方に更なる災禍が襲い掛かるというのは、惨たらしいことです。私は個人として何の支援もしていない完全なる傍観者に過ぎませんが、一日も早い復旧を御祈り申し上げます。

 本日二つ目のエントリーでは、車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」という小説を取り上げます。今は文春文庫から出ておりまして、直木賞を受賞したこともあり、割と有名な作品ではないかと思います。

 以前、この作品についても私は個人的な評論を草したことがありますが、原稿のデータはとっくに消去してしまって現存しておりません。だから何だという話ですが、評論を書きたくなるくらい、私にとってこの作品は魅力的で、重要な価値を帯びていると言いたいだけです。

 作品の粗筋などはあまり重要ではない、というか粗筋だけを聞いてもこの小説の価値は伝わらないと思いますので、まず読んでみていただきたいと思うのですが、この作品の重要なテーマの一つが「世捨ての欺瞞性」ということではないかと、私は考えています。これは坂口安吾の「風と光と二十の私と」にも通じる主題で、要するに「聖俗」の境目に立ってどちらを選ぶべきかというような問題設定だと捉えていただければ概ね間違いありません。

 語り手の「私」は俗世間の暮らしに倦んで、あるいは強迫観念的に堪えかねて自ら安定した職業を抛り出し、こういう言い方が適切かどうか分かりませんが、社会の底辺へ身を沈めようと試みます。作中では尼崎へ辿り着き、焼鳥屋の下働きとして暮らし始めます。名の通った大学を出て、日本橋の広告代理店へ勤めていた彼が、なぜ焼鳥屋の下働きに転身したのか、その理由は誰でも頷ける単純明快なものではなく、あくまでも「私」の自意識の閉域で展開される観念的な煩悶の過程として、描かれることになります。これだけでは何のことやら分からないと思うので、原文を引用します。

「ま、ま、ええ、チンケに負ける豚もある。」

 私にはこの女の怒りが何であるかよく分かっていた。さぞや魂の抜けた腑抜けに見えるのだろう。「世間の人はみな、銭がつかみとうて血まなこになっとんのに。あんた、可哀そうに。」と言いたいのだ。東京で無一物になり、播州飾磨の在所の家へ逃げて帰った時、母が私に言うた言葉である。私はそこで自分には逃げて帰るところはない、ということを思い知らされた。 

 「私」の「無一物」への執着を簡単に要約するのは難しいのですが、とにかく強引に捻じ伏せるように言ってしまえば「物質的欲望」への嫌悪ということになるでしょうか。物質的欲望とは、分かりやすく言えば「目に見えるもの」「形あるもの」への欲望ということです。形あるものを欲することで所謂「俗世」は回っています。代表的なものは「銭」であり、あるいは「土地」や「酒」や「女」かもしれません。それに対して語り手が欲するのはあくまでも「無一物」であり、すべてを投げ出すような自己破壊的欲望に取り憑かれていると言えるでしょう。「エロス=タナトス」という対比で図式化すると、少しはイメージが掴みやすいかもしれません。

 「エロス」に支配される「俗世」に逆らって「タナトス」的な欲望のままに社会の下層へ赴こうとする「私」を、焼鳥屋の女主人は怒りと憐れみを伴って見凝めます。それは「私」のタナトス的欲望によって見凝められた底辺の世界と、エロスに駆り立てられて必死にもがきながら生きている人々の目に映る底辺の世界とは、全く異質なものであるからです。言い換えるなら、底辺の世界で必死にもがきながら生きている人々にとって、無一物に対する憧れから自己破壊的に底辺の世界へ降りてきた「私」という存在は決定的に「贋物」であるほかないのです(実際、車谷長吉には「贋世捨人」と題された小説もあります)。

作品の結末で、語り手の「私」は心中を約束した「アヤちゃん」から決別の通告を受けます。とても鮮やかな印象を残す場面ですので、下記引用します。

 アヤちゃんがプラットフォームへ飛び出した。咄嗟に私も起ち上がろうとした。併し片足の指が、下駄の前鼻緒に掛かっていなかった。起った時、ドアが閉まった。アヤちゃんと目が合った。何か恐ろしいものを呑み込んだ、静止した目だった。電車は動き出した。私はドアのガラスにへばり付いた。手のひらが冷たかった。アヤちゃんがフォームを五、六歩、駆けて来た。見えなくなった。

  「片足の指が、下駄の前鼻緒に掛かっていなかった」のは単なる偶然でしょうか。少なくともこの小説空間において、この些細な「偶然」は「私」の観念的な決意を示す「必然」のように見えます。アヤちゃんの「覚悟」は、無一物への観念的な憧憬に衝き動かされる「私」の死への「覚悟」とは桁が違います。「恐ろしいもの」とは、俗世でボロボロに魂を損なわれながらもなお生きようとする人間の抱える「闇」です。その「闇」に虐げられて社会の下層へ釘付けにされた人々にとっては、「私」の「世捨て」など「インテリの戯言」に過ぎません。つまり、「私」は自らの「贋物性」を極めて痛烈な形で思い知らされたのです。それは坂口安吾が代用教員時代の満ち足りた幸福を「老成の実際の空虚」と呼んだことと相通じる認識であると言えましょう。

  出屋敷へ歩いて行った。アパートの露地口の荒物屋は閉まっていた。露地を入って、アパートへ入った。一階には人の住んでいる気配がしたが、二階へ上がると、真ッ暗だった。空気が冷え冷えと死んでいた。廊下の闇を奥へ進んだ。女が来ていた部屋も、彫眉さんが仕事をしていた部屋も、扉が閉ざされていた。私が臓物をさばいていた部屋の扉には、蝶番が付けられ、南京錠が掛かっていた。物音はまったく聞こえなかった。私は闇の中に立っていた。

 この静謐なラストシーンに、私は打ちのめされるような衝撃を受けました。 ここには物質的な現実を蔑視して、精神的=観念的な高みへ至ろうとする人間の「自意識」に対する強烈な告白の旋律が響き渡っています。生半可な覚悟で、生きることの闇に触れることなど出来ない、そんな覚悟で「無一物」に憧れているなどアホらしい、本当の「無一物」とはこれほど過酷なものなのだ、と訴えているように聞こえるのです。

 物質的な原理に呑み込まれないようにすること自体を、批判したり侮蔑したりする訳ではありません。それでも、ここまで自らの内奥を抉り出して、己の「贋物」ぶりに光を当てようとする作者の苛烈な自意識に、私は感銘を受けました。物質的な現実を、さかしらな観念で切り貼りすることはできないのだ、という力強い罵声を浴びて、寧ろ清々しい気分でした。

 単に安楽な読書を求める方には不向きな作品でしょうが、ぜひとも多くの方々に読んでいただきたい作品です。こんな風に小説に「叩きのめされる」ことなんて、滅多に味わえない経験ですから。以上、船橋サラダ坊主でした!

 

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂