サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「結婚・子育てはコスパが悪い」という言説について

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 週刊はてなブログのエントリーを見ていたら、こんな特集記事が出ていました。

 

「結婚・子育てのメリット・デメリット」について、ブロガーたちの意見が寄せられています。シルバーウィークに「結婚」について考えてみませんか? - 週刊はてなブログ

 

 最近、「コスパ」(=コストパフォーマンス)という言葉を切り口に結婚や子育てといった人生上の重要な案件を論じる風潮が目立ちます。その是非は百家争鳴の感がありますが、まず前提として確認しておくべきことは、この言説には複数のレベルの論点が混在しているという点です。

 

子供は人生で一番高い買い物だと思う

 

 この方のエントリーについて言えば、論点の一つ目は「子育てはコストが高いのにリターンが少ないので、自分はそれを選ばない」ということ、論点の二つ目は「子供を作らない人の選択を尊重せずに批判するのは止めてほしい」ということであると、私は解釈します。

 二点目の「個人の選択の尊重」については、もちろん言うまでもありません。この国の憲法は「思想・良心の自由」を明確に是認していますから、子供を持つべきか、持たざるべきかの選択は個人の思想・良心に基づいて選択すればよいことであり、社会はその個人的選択を尊重せねばなりません。

 しかし、一つ目の「コストパフォーマンス」という観点から論じられた「子育て」に関する価値判断は、そのまま尊重されるべきものではないと、私は考えます。無論、日本国憲法は「表現の自由」も認めていますから、そのような見解が公的に呈出されること自体に、異を唱える積りは毛頭ありません。 ですから、これはあくまでも私の個人的な違和感と疑義の表明ということになります。

 まず、子育て、或いは単純に端的に申し上げてしまえば「生殖」という行為の意義は、それによって何らかの報酬を「親」である自分自身が享受することを目的としていません。それは人類という一つの巨大な種族を生き延びさせる為に要求される営みであって、それ自体に「個人の幸福」という観念が入り込む余地は存在しないと考えるべきでしょう。老後に備えて年金を積み立てたり、あるいは事故死に備えて生保を掛けたり、といった感覚で論じられるべき案件ではありませんし、投資=利益の経済的タームで語るのに相応しい案件でもありません。

 無論、個人がそのような文脈で「生殖」の問題を捉えること自体は、咎められるべき姿勢ではありませんし、その意味では第三者が余計な誹謗や中傷を加えるのは筋違いと申すべきでしょう。ただ、「子供は人生で一番高い買い物」だという考え方には、少なくとも私個人は、違和感を覚えざるを得ません。子供は消費財ではありませんし、親に附属する「資産」でもありません。それはひたすらに「親」の有形無形の「資産」を食いつぶして成長していく寄生的な存在です。言い換えるなら、生殖=育児というのは、コスパが悪いどころか、大赤字確定の「儲からない事業」に決まっているのです。しかし、それは「育児=生殖」を直ちに忌避する理由にはなりません。

 「育児=生殖」は原則として「無償の営為」であり、もっと端的に言えば「奉仕」です。 親と子供、どちらが権力を握っているのか、お子さんをお持ちの方でしたら訳が分からなくなるときもあるのではないでしょうか。子育てというのは、子供に合わせて大人が「節を曲げる」営みであり、その意味でも非常に多大な犠牲を払うものです。

 にもかかわらず、「育児=生殖」が必要とされるのは、種族全体の存続の為という大前提を除外して申せば、「与える」という行為が人間の精神には必要だから、ということになります。それは言い換えるなら「愛する」ということで、こうした問題を損益計算書の分析みたいな口調で論じることはそもそも、間違いなのです。

 「与えることの快楽」というものは確かに実在します。何かを与え、それによって相手を「幸福にしたい」と願うこと、相手の成長を願うこと、そうした「愛することの喜び」というのは経験的な事実として存在しています。もちろん、そんなの知らないよと言われてしまえば、この話は成り立たなくなる訳ですが。

 愛することは見返りを求めません。結果として見返りが得られるとしても、愛するという行為は、それ自体で完結する喜びとして構成されています。ですから、愛するという感情(厳密には「意志」)は「コスパ」というタームと根本的に疎遠です。愛することにおいて、「相手の成長と幸福を願う」という命題によって構成された「愛」において、それがいかなるベネフィットを齎すか心許ないという「判断」は、愛さないことの根拠にはなりません。それが根拠になりうるとしたら、それは「愛」ではなく「利益追求」の枠組みで問題を捉えているからでしょう。

 誤解を招かないように申し上げておきますが、私は「利益追求」の枠組みを批判している訳ではありません。私自身、会社員として日々「利益追求」に全力を傾注することによって給料を貰い、自分と妻の生活を支えている訳ですから。「利益追求」=「悪」という過度に清貧なストイシズムは、私の信奉するものではありません。あくまでも私が申し上げたいのは、「利益追求」のパースペクティブでは「生殖=育児」の問題は適切に取り扱うことが難しいのだ、ということに尽きます。

 子供を作り、育てる行為は「買い物」の類義語ではありません。「買い物」は対価交換を原則としていますが、「子育て」はあくまでも「贈与」であり、将来的にもたらされるベネフィットの「不確実性」を考慮する必要性のないものです。

 むろん、世の中には「子供」を「資産」のように捉える解釈が横行しています。老後の「安全保障」の手段として育児の辛苦を忍んでいる方もおられるでしょう。それ自体の是非を論じるのは無益なことですが、あえて申し上げれば、それは危険な価値観であると言わざるを得ません。たとえば子供に対する虐待は、暗黙裡に子供を「資産」として捉える認識的構図を含んでいます。身銭を切って育てている「子供」が自分の言うことを聞かなければ、それは「不良品」の証であり、返品の対象となります。しかし現実には「子供」は「資産」ではないので、クーリングオフすることは出来ません。そのために逼迫した遣り場のない感情が「暴力」に転化し、結果的に「不良品」を「違法投棄」するような悲劇を招くことにつながるのです。

 断じて私は「コスパ論者」を、このような虐待の加害者と同格に論じている訳ではありません。しかし、「子供」=「資産」のような捉え方の危険性はもっと広く、もっと徹底的に共有されるべき「社会的良識」であると思います。人身売買のような犯罪が、あるいは強姦や殺人や拉致監禁が、「人間」を「物質」として捉える無機的なパースペクティブの所産であることに、私たちは慎重に留意せねばなりません。

 結論として、子供を持つ、持たないは個人の自由な判断に委ねられるべきであると私は思いますが、そのような判断を世間に訴えるにあたって、「子供は人生で一番高い買い物」というような「言説」あるいは「語法」を採用するのは不謹慎であり、少なからぬ生理的反発を招くであろうとも考えます。もちろん、現実的に「生殖=育児」にかかる「巨額のコスト」を、社会的にどうやって分有していくか、どうやって経済的側面から「生殖=育児」という営為を支援していくか、という問題は、これまで述べてきた「倫理的次元」とは別個の領域で、大いに論じられ、改善されるべきでしょう。

 以上、船橋サラダ坊主の愚見でございました。