読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「世界」ではなく「社会」のために戦え ゆうきまさみ「機動警察パトレイバー」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日は私が最も愛するマンガと言っても過言ではない、ゆうきまさみの「機動警察パトレイバー」について語りたいと思います。

 この作品はメディアミックスの先駆け的な作品で、マンガ、テレビアニメ、OVA、劇場版アニメなど、複数の媒体を通じて世界観が構築されている作品ですが、私が愛しているのは、ゆうきまさみの手で綴られ、描かれたマンガ版の「機動警察パトレイバー」です。

 詳細はいくらでも調べる手段があると思いますので割愛しますが、ざっくりと申し上げれば、近未来の東京(といっても、作中では1990年代末期が舞台なので、もう現実の方が追い越しちゃってますね)を舞台にしたロボット+警察マンガです。1988年~1994年にかけて「週刊少年サンデー」で連載されました。今は文庫版でも手に入りますので、ぜひご一読いただきたいと思います。

 「ロボット+警察マンガ」と聞くと、何だか他愛のない子供向けのアクションドラマを想像するかもしれませんが(タイトルもいかにもって感じですよね)、実際の内容は結構大人向けで、企業の汚職やら人身売買やら、結構社会派的な重たい主題も登場します。しかし作者の個性なのか、シリアスな物語にもかかわらず、語り口にはどこか達観したようなユーモアが漂っています。良くも悪くも所謂「少年マンガ」とは肌合いの異る作品なのです。

 かつて(いや、今も?)「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメが社会現象を巻き起こしたことがありましたが、この作品は「エヴァ的」なものの対極に位置するような視点と構成で出来上がっています。まず「エヴァ」の場合は、物語のスケールがかなり壮大で、常に主人公の葛藤は「世界」の存亡とリンクしています。よく「セカイ系」という言葉がネット上で聞かれますが、個人の内面的な問題と世界の根源的な問題を一足飛びに繋げて考えようとする思考のスタイルは、「新世紀エヴァンゲリオン」という作品において極限まで先鋭化した表現を得ています。

 そういった作品の魅力を否定する訳ではありませんし、壮大な物語固有の価値というものが存在することも私は明確に認めていますが、それらの前提を踏まえて敢えて申し上げれば、そういう作品って「情緒不安定」になります。当たり前ですよね? 個人の心理的な問題と、世界の根源的な問題がいちいちリンクするなんて、余りに息苦しいと思いませんか? 私が怒り、嘆き、悲しめば「世界」は滅び去る。「光あれ」と唱えれば「世界」は創成される。そういう「神」的な主観性に立脚して物語を綴れば、どうしたってパセティックで余裕のない、オール・オア・ナッシングのトーンが生じるのは避け難い成り行きです。

 しかし「機動警察パトレイバー」(ゆうきまさみ版)について言えば、そのような「自意識」と「世界」との短絡は起こり得ません。パトレイバーは、エヴァンゲリオンのような「最終兵器」ではなく、多足歩行型の「作業用機械 」を警察向けに改良・転用したものに過ぎず、その所属先は「NERV」のような「国連直属の超法規的組織」などではなく、「警視庁警備部」のお荷物的な部署である「特車二課」です。それは言い換えれば、パトレイバーの属する領域が「世界」ではなく「社会」であるということに他なりません。彼らの活躍は「世界の存亡」を左右するどころか、「社会」の局所に発生した矮小な「悪」を一時的に押し留める効果しか持ちません。

 「世界」ではなく「社会」の為に存在する「パトレイバー」は、自意識とのリンクを通じて「覚醒」するような神秘的獣性を拒否した設計です。それはあくまでも人間の手で作られた「機械」であり、超越的な「天使」ではありません。この目線の低さが「パトレイバー」に底流する社会的なリアリズムの手応えを成立させています。「廃棄物13号事件」だって、使徒の襲来に比べれば遥かに規模の小さい話です。しかもその背後には必ず「人間的理由」が控えています。特車二課が戦う相手は、得体の知れぬ「使徒」ではなく、常に「人間」なのです。

 ちゃんと明確な、或いはフィジカルな輪郭を備えた現実的個体としての「人間」を描くことに拘り続ける作者の目線は、「世界」を「自意識」や「内面」の閉域に閉じ込めようとするエヴァンゲリオンの現代的な「宗教性」とは無縁であると言えます。その非宗教的なリアリズムに、私は確かな「現実」の感触を見出すのです。

 「自意識の葛藤」ではなく「自分と他人の社会的な関係」を描いたロボットアクションが読みたければ、ぜひ「機動警察パトレイバー」を繙いてみて下さい。読み応えは抜群ですよ。

 以上、船橋サラダ坊主でした!