サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美=虚無の方程式 三島由紀夫「金閣寺」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。今夜は三島由紀夫の代表作である『金閣寺』(新潮文庫)に就いて書きたいと思います。

 戦後間もない昭和二十五年の夏に起きた鹿苑寺金閣寺)への放火事件に題材を取ったこの作品は、恐らく綿密な取材の上に成り立っているのでしょうが、読後の感想は「金閣寺放火事件」の実相を克明に物語った実録的小説という風な印象とは全く異質なものです。題材は現実の事件から抽出されていても、「金閣寺」という具体的な実作において結晶しているのは、金閣寺へ火を放った僧侶の具体的な姿ではありません。あくまでもこの小説は作者=三島由紀夫の内なる「思想」や「美意識」の発露したものであり、金閣寺放火という事件は単なる「表層」或いは「舞台設定」の域を出ないのです。

 格調高い文体で綴られる実に観念的な「思想」の数々は、三島由紀夫という存在の内部に胚胎したものであり、それは現実の反映であるというよりも、現実を「裁断」する強靭な構造であると言うべきでしょう。その背後には「美」と「虚無」に関する様々な概念が伏流しています。

 写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色にかがやいているなどと語らなかった筈だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。(『金閣寺新潮文庫 p.6)

  三島由紀夫の文業には一貫して「観念の現実に対する優越」が烙印のように焼き付けられています。彼の主観的な宇宙は余りに強靭であり、現実に対する知的な把握力に優れていました。恐らく彼は「直感的なもの」や「本能的なもの」から最も遠く隔てられた人間であり、その精神は「堅牢な言語的秩序」に拘束されていたのではないかと思います。彼はあらゆる現実にその都度「定義」を与えます。架空の世界を生々しい体感として受け取る為には、その「定義」は聊か邪魔臭いような気もします。

 「私」は「現実の金閣」よりも「想像の金閣」に執着します。その執着は「現実への蔑視」に支えられているのです。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。

 さて父は私を導いて、うやうやしく法水院の縁先に上った。私はまず硝子のケースに納められた巧緻な金閣の模型を見た。この模型は私の気に入った。このほうがむしろ、私の夢みていた金閣に近かった。そして大きな金閣の内部にこんなそっくりそのままの小さな金閣が納まっているさまは、大宇宙の中に小宇宙が存在するような、無限の照応を思わせた。はじめて私は夢みることができた。この模型よりもさらにさらに小さい、しかも完全な金閣と、本物の金閣よりも無限に大きい、ほとんど世界を包むような金閣とを。(『金閣寺新潮文庫 pp.33-34)

 「私」は「想像の金閣」を本来的な存在として承認し、「想像の金閣の美しさ」に遥かに及ばない「現実の金閣の醜さ」を「偽りの姿」ではないかと疑います。彼にとって現実は、それ自体の力を持たない「仮象」に過ぎず、総ては隠匿された「真理」の不完全な反映として受け止められています。これは間違いなく倒錯でしょう。何故、彼は「現実」よりも「想像」の方を「本質的なもの」として感受するのでしょうか? 

 その背景に「美しいものへの過大な憧憬」が関与していることは明白であると思われます。「美しいもの」に固執することは、醜悪な現実に対する蔑視を惹起します。なぜなら、「美しいもの」は本来ならば「存在しないもの」であり、端的に言えば「虚無」だからです。「美しさ」に実体はなく、現実に存在する事物がそれ自体で「確固たる美」を所有することは出来ません。

 この美しいものが遠からず灰になるのだ、と私は思った。それによって、心象の金閣と現実の金閣とは、絵絹を透かしてなぞって描いた絵を、元の絵の上に重ね合せるように、徐々にその細部が重なり合い、屋根は屋根に、池に突き出た漱清は漱清に、潮音洞の勾欄は勾欄に、究竟頂の華頭窓は華頭窓に重なって来た。金閣はもはや不動の建築ではなかった。それはいわば現象界のはかなさの象徴に化した。現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものになったのである。(『金閣寺新潮文庫 p.58) 

  ここには「滅びるものこそ美しい」という牢固たる価値観が息衝いています。この価値観の背後にあるのも「現実への憎しみ」だと言えるでしょう。それは彼が「吃り」という一つの身体的条件によって現実から隔てられていたことの反映です。アクセスし難い現実への嫌悪と怨嗟が、「現実でないものの美しさ」を信じることに発展するのは無理からぬことです。彼は「現実の金閣」よりも「心象の金閣」を「美しい」と感じると共に、両者が合致する為の条件として「遠からず灰になる」ことを要求します。それは「現実の金閣」が「灰になる」ことで「現実」の拘束から解き放たれるからです。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした。(『金閣寺新潮文庫 pp.59-60)

  「現実」に対立するのは「滅亡」です。「滅亡」によって「現実」は消去され、破壊と虚無が光り輝きます。「私」は「滅ぶ」ことによって「心象の金閣」の美しさと合致することが出来るのです。

 私は半ば絶望して待ちながら、この早春の空が、丁度きらめいている硝子窓のように内部を見せないが、内部には火と破滅を隠していることを信じようとした。私に人間的関心の稀薄だったことは前にも述べたとおりである。父の死も、母の貧窮も、ほとんど私の内面生活を左右しなかった。私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。ともすると早春の空のただならぬ燦めきは、地上をおおうほど巨きな斧の、すずしい刃の光りのようにも思われた。私はただその落下を待った。考える暇も与えないほどすみやかな落下を。(『金閣寺新潮文庫 p.61)

  しかし現実には空襲は訪れず、金閣は焼き亡ぼされることなく敗戦の日が来ます。そのことが「私」の美意識に深刻な絶望を強いるのは当然です。「現実の金閣」は滅び去ることによって「心象の金閣」と重なり合い、「具体化された美」へと姿を転じる筈であったのですから。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。

 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.86)

  滅びることによって、漸くその本来的な美しさを開示する筈だった「現実の金閣」は、無傷のまま存続し、「私」を絶望させます。その絶望はやがて「現実の金閣」に対する憎悪へと危険な発達を遂げます。

 美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまうのである。(『金閣寺新潮文庫 p.161)

 「私」が求める「心象の金閣」の美しさと、歴史的建築物としての「現実の金閣」の美しさとの関係性は「瞬間=永遠」の対比として描かれています。彼は「現実の金閣」を憎悪することによって「永遠」を憎悪しているのです。そこから「金閣寺への放火」という犯罪が惹起されます。

 おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、 一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.246)

 ここには論理の奇怪な「転回」が生じています。後に出てくる「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」という「私」の言葉は恐らく「仏教的な時間の復活」によって、言い換えれば「滅亡の可能性が絶たれた衝撃」によって「美」から隔絶されてしまったことへの絶望の表明です。「金閣を焼かなければならぬ」という決意は、いわば「反撃」であり「復讐」なのです。空襲を免かれて「永遠の存在」と化してしまった「金閣」を「焼き亡ぼす」ことで、「私」は「美的なもの」を滅ぼそうとします。「美的なもの」が「怨敵」であるのは、それが「現実」に対立する概念だからです。言い換えればこの作品は、「観念の現実に対する優越の破綻」を描いているのです。

 美しいものに憧れて「滅亡」を望んだ青年が、滅亡の不可能性を悟ることによって、美しいものを焼き払い、現実へ帰還する物語だと要約するのは、牽強付会に過ぎるでしょうか? 非常に纏まりのない不可解な文章となりましたが、とりあえず今夜はここまで。船橋からサラダ坊主がお届けしました!

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)