サラダ坊主日記

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匿名化する世界 安部公房「燃えつきた地図」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今回取り上げるのは、安部公房の「燃えつきた地図」です。

 作者の経歴については例によってウィキペディアを抜粋。

安部 公房(あべ こうぼう、1924年大正13年)3月7日 - 1993年平成5年)1月22日)は、日本小説家劇作家演出家。本名は公房(きみふさ)[1]

東京府で生まれ、少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。

主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)『砂の女』(読売文学賞受賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の候補と目された。[2]

 この概要を御覧頂ければ分かる通り、安部公房は日本語で書く日本人の作家としては例外的に「国際的な文学者」です。メジャーなところでは「砂の女」が知られています。所謂正統的な日本文学の本流とは少し離れた、奇抜な着想をアイロニカルな口調の文体で具体化する作風で、今も熱心な読者を数多く抱えておられます。

 「燃えつきた地図」は表面的には探偵小説の形式を取っていますが、謎解きが主眼という訳ではなく、あくまでも探偵は「手段」として採用された設定です。アクロバティックな比喩を多用したり、時制を様々に切り替えたりと、癖のある文体ですので、小説を読み慣れていない読者には少し敷居が高いかもしれませんが、その鮮烈な感性と明晰な理性のアマルガムを是非皆様にも堪能していただきたいと思います。

 この作品の主題は「匿名性」です。匿名性とは、誰も彼もが画一的な存在に成り下がり、名前を持たない曖昧な存在に溶解していくということで、それは近代日本における「都市化」の進行と同期しています。ネット社会=情報化社会は、そのような都市化の更に現代的な表現であり、「症状」であると言えるかも知れません。血縁=地縁で強固に結び付けられた「集落」の解体は、東京や大阪のような「異邦人の社会」の発展へと繋がってきました。その過程で、個々の人間が強いられている「存在の様態の変容」を描くに際して、「匿名性」という概念は重要な意義を担います。

 安部公房の作品に「固有名」が余り出てこない、或いは出ても重要な意味を持たないということは、予てから指摘されてきた特徴です。登場人物たちは、明確な個性を備えた実体的な存在ではなく、名前を剥ぎ取られた曖昧な存在として描かれます。名前を持たないということは、その個体の存在を「不透明なもの」に変えていきます。そのような「不透明化された個体」の愛憎を、極めてドライな文章で綴っていくところに、安部公房の個性があります。

 なんというのか、安部公房という人は常に文学作品というものを「実験場」のように見ている気がします。或る特殊な状況を設定して、そこに抛り込まれた人間がどのような行動を選び、どのような思想を醸成するに至るのか、それを極めて冷徹に観察しているように見えるのです。その意味で、氏の想像力の性質は「理系的」で「SF的」です。人間の「哀歓」を描くといった分かりやすく湿潤な想像力と、氏の想像力は明確に異質です。

 センチメンタリズムとは最も遠く隔てられた世界で、作者の生み出した登場人物たちは喜怒哀楽を様々に表現します。しかしそれは読者の心を打つような単純明快な「情念」ではありません。言い換えれば、それは極めて「観念的な反応」なのです。動物実験のレポートを読んでいるような感覚というのでしょうか。無論、それは学術的なレポートのように無味乾燥なものではなく、読者の感覚に強烈に訴求する高度な「文学的表現力」によって肉付けされています。

 観念的な実験でありながら、それをリアルな「経験」として結晶化させられるところに、安部公房の文学的才能の「凄み」があるのでしょう。「砂の女」なども、設定自体は奇妙で人工的でありながら、流れ落ち、堆積する砂の奇怪な圧迫感や、何を考えているのか分からない村人たちの怖さ、徐々に追い詰められていく「私」の心理的様態などが、恐るべき生々しさで伝わってきます。そこには「固有名」が必要とされていません。彼らはあくまでも、物語が要請した或る「虚構」の内部で、或るポジションを演じることに徹するよう定められているのです。「文学的な実験場」で、被験者となる存在の個性は寧ろ、分析の障害となるでしょう。個性によっては左右されない人間存在の「普遍的な構造」を剔抉する為には、キャラクターの恣意的な主観は厳密に除去されねばならないのです。

 設定を決めて、そこに或るキャラクターを投じて動向を確かめてみるという手法は、氏が重要視していたもう一つのジャンル「演劇」にも通底するものです。そこでは演者の「個性」の表現よりも「個性」の沈潜が要求されます。役者はあくまでも一つの「ポジション」を担う為にそこに存在するのであり、彼自身の私的な「主観性」は演劇という「実験」の妨げとなります。

 このような想像力を「寓話的なもの」と捉えるのであれば、安部氏の文学的才能は、同時代の優れた作家である大江健三郎の才能と共通する特質を有しているとも言えます。いずれも「寓話的な想像力」によって、人間という存在の本質に迫ろうとした作家であり、その才能の部分的な近似性は「時代の影響」ということになるのでしょうか。生憎、私にはそこまで論じる力がありませんが。

 とにかく、試しに読んでみて下さい。初期の大江健三郎の文体には「みずみずしい少年の感受性」が漲っていますが、安部公房のそれは完全に「疲弊した大人の達観」です。それは悪い意味ではなくて、そのクールでアイロニカルな口調が堪らなく魅力的なのです。この「燃えつきた地図」も、ハードボイルドのように読むことだって出来ます。安部公房の多面的な魅力は、新潮文庫で手軽に味わえるので是非どうぞ。

 以上、船橋サラダ坊主でした!

 

燃えつきた地図 (新潮文庫)

燃えつきた地図 (新潮文庫)