サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

融通無碍の文体 夏目漱石について

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 数日間更新をサボっておりました。

 本日は私の敬愛する夏目漱石について書きます。

 夏目漱石って、何だか堅苦しいイメージをお持ちの方も多いと思いますが、実際に読んでみると決してそんなことはありません。何しろ明治時代から大正初期にかけて生きた方ですから、綴られる措辞には現在の感覚からすれば幾分古めかしいものも混じっているのは当然ですが、しかしその文章の大半は充分に今でも読みこなせて、なおかつ一向に旧弊でないもので占められています。これって凄いことだと思いませんか?

 夏目漱石が生まれたのは1867年2月9日(慶応3年1月5日)、つまり今から150年近く昔の話です。一般に処女作として扱われる「吾輩は猫である」が雑誌「ホトトギス」で連載を開始したのが1905年(明治38年)、今から110年前ですね。110年前に綴られた文章が現代にも通用するポテンシャルを備えているのは、すさまじいことです。単純に考えて、昨今の世の中で流通している小説やマンガや映画の中で、100年先にも通用するレベルのものがどれくらいあるでしょうか?

 何より素晴らしいのは、その文章の自由闊達、融通無碍な躍動感です。散文の御手本というのか、色々な知識を引用敷衍して日本語の文章にまとめていく手際の鮮やかさは、下手なリアリズム小説とは桁が違います。なんというか、これは私の個人的な嗜好に属する問題なのですが、映画的な写実性を模倣したような小説って、小説の本道ではない気がするのです。映画的って評言は、小説でもマンガでも、所謂「物語的なジャンル」を批評解剖するときにはよく用いられる手垢まみれのクリシェですが、映画的であることと小説的であることとの間には、絶対的な断層がある筈だと思います。

 私は小説投稿サイトに「刃皇紀」という小説をアップしているのですが(刃皇紀(じんのうき))、この小説を書きながら思うのは、単なる客観的な描写というのは小説の本務ではないということです。言い換えるなら、言葉というツールには、固有のメカニズムとアーカイブが備わっており、それは必然的に映画で用いられているビジュアルな文法とは全く異質な原理で動いています。その至極当然の原理が、現代のようにビジュアルな表現が極めて大きなシェアを掴みとり、メディアの枢軸として運用されている環境においては容易く忘れられがちです。それは無論、小説を読んだり書いたりする現代の日本人の「物語的な経験知」が、実に多くのビジュアルな作品の成果に影響され、涵養されていることの反映だと思います。小説を読むことから小説を書くことへ転じるだけでなく、例えばマンガにインスパイアされて何かを書きたい、創造したい、表現したいという衝動に駆られたのだけども、絵は描けないので小説を書きました、みたいなキャリアの動線が形成されやすい時代なのだと思います。

 話が少し逸れ気味ですが、大事なので続けます。要は小説を書くのって、実に間口の広い営為であるように思われがちだということです。それ自体は悪いことじゃなく、どんな業界であれ分野であれ、参入障壁が低いというのは健全なことです。ですが、参入障壁の低さと、その分野で何らかの有為な達成を遂げ得るかという問題は、全く別の次元に属します。当たり前の話ですが、どんな分野であれ、世間を驚かせるような達成、或いは百年先も語り継がれるような業績を上げる為には、優れた才能と膨大な努力が必要です。絵が描けないから文字を書くというのは、単なる「転籍」の問題ではありません。要は絵を描くことには一定の技倆が必要ですが、文字を書くならそんなに難しくないという「常識」が広く共有されているということです。

 確かに日本は識字率が高い国ですが、だからと言って誰でも「小説」を書ける訳ではありません。厳密に言えば、「小説」を書くというのは実に骨の折れる作業であり、ましてや「面白い小説」を書くなんて至難の業です。この凡庸な認識すら、世の中には欠けているように見えます。そもそも「小説」を書くというのは一つの病気です。万年筆を握って原稿用紙に向かったり、パソコンを開いてキーボードをパチパチ叩いたりしながら、延々と何万字も何十万字も「嘘」を書き連ねていく訳ですから、こんなのは常識的な人間のやるべきことではないのです。しかも、その「嘘」は単なる「デタラメ」ではなく、「整合性のある嘘」として構築されねばなりません。こうなってくると、生半可な気分で取り組める作業ではなくなってきますね。

 さて、どんどん本題から逸れてしまいつつあるのですが、夏目漱石の書き綴る文章には「映画的リアリズム」或いは「ビジュアル・リアリズム」の呪縛がありません。おそらく漱石は、漢籍などに深く親しんでいた影響もあるのでしょうが、「言語を言語として扱う」ことへの意識が非常に強くあります。「言語」は単なる代替物ではなく、ましてやビジュアルな文法の「置換」として存在するものではありません。「言語」には「言語固有の生理」というものがあり、その「生理」を追求していくことが小説や詩歌の本領であり、醍醐味なのです。カメラで撮れば済むものを、カメラがないから仕方無く言葉で書き表しています、というようなレベルでは「小説」は書けません。「小説」において「描写」は単なる視覚の模写ではなく、それはあくまでも「語ること」の材料に過ぎないのです。

 無論、私は漱石が、正岡子規の提唱した「写生文」の理念を共有していたという史的な事実を踏まえたうえで、彼の文章が「ビジュアル・リアリズム」の弊害を免かれていると申し上げています。もっと言えば、正岡子規の「写生文」の理念は「現実の客観的な模写」などではなく、「現実を深く捉えるための方法論」のようなものであったのではないかと推察します。それは極度に様式化された口承文芸のような語りへの反発を原動力として創成されたのでしょうが、だからと言って口承文芸の語りが持つ活力を否定することにはなりません。「現実を新たな角度から照明する」ために「散文」の雑駁な力が求められたのであり、それは確かにリアリズムですが、「事物の精細な描写」などとは根本的に異質な話です。どんなに克明な描写も、それが旧来の「認識のパターン」を更新するものでなければ、マニエリスム以上の効果を期待することは出来ません。

 つまり、夏目漱石のような「散文の呼吸」は「小説」という言語的作劇ジャンルの本質に関わるものだということを申し上げて、この辺で擱筆いたします。

 真昼の船橋サラダ坊主でした!