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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「絵」で「物語」を表現するということ 井上雄彦「スラムダンク」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今夜は言わずと知れた国民的大ヒットマンガ「スラムダンク」(累計売上部数は国内のみでも1億2000万部を優に突破しています)について書きます。

 既に無数の読者が熱い思いをこめて、この作品に言及しておられると思いますので、内容などについては割愛。私が書きたいポイントは、山王工業戦の終盤、最後の1ポイントをめぐる苛烈な攻防のシーンについてです。

 逆転を懸けた劇しい戦いのシーンで、作者は一切のセリフを省いて物語を描きました。まるで失語したかのような沈黙、非言語的な静寂の中で、キャラクターたちは死力を尽くして勝利のために躍動します。

 ここには「絵」で「物語」を表現することへの究極的な形態があります。何というのか、「言葉」が「絵」の圧倒的な速度と密度に振り切られ、沈黙を強いられているように見えるのです。このビジュアルなスピード感は、いわば「絵画の言語化」とでも称すべき現象の産物です。

 そもそも「マンガ」というのは実にハイブリッドなメディアです。それは「言葉」と「絵画」と「記号」によって構成され、複数のメディアによって「意味の生成」が為されるカオスのような表現領域であり、従ってそこで語られる「噺」の形態にも爆発的な多様性がもたらされています。語る方法が多様化すれば、語られる内容も多彩に変化するのは当然です。

 したがってマンガにおける「絵」の表現力は、例えば古典的な画家が作り出す古典的な絵画のような意味での表現力とは異質です。日本でマンガという表象文化が爆発的な発達を遂げた背景には、古来の絵巻物の伝統が関与しているなどという説もありますが、実際、日本の絵画的な土壌と、海外の絵画的な土壌との間には、かなり大きな径庭があるように感じられます。

 古典的な意味での「絵画」とマンガ的な意味での「絵画」との間にある重要な異質性は、マンガ的な絵画性が「時間」というファクターを取り込んでいる点にあると、私は考えます。もっと言えば、それは「物語」という時間であり、単なる時系列の構造ではありません。マンガは様々な形で「時間」と「空間」の秩序を超越し、語られるべき出来事に多角的な表現を授けます。

 いずれにせよ、マンガに含まれている物語的な時間性は、マンガにおける絵画的な表現力に大きな可能性をもたらしています。そして、その物語的な時間性が「映画的表現力」から極めて莫大な活力を引き出し、その深刻な影響下に置かれていることも付言しておかねばなりません。

 しかし、映画的な表現力が、どれほどCG技術が発達したとしてもビジュアルなリアリズムに呪縛されているのとは異なり、マンガにおける絵画は「写実性」の引力から解き放たれています。それは映画的な「現実」に主観的な解釈を加え、「濾過」することが出来ます。その点では、小説的な表現力にも近しい要素を含んでいると言えましょう。

 マンガも小説も、映画のようにビジュアルな現実の堅固な物質性に囚われる必要がありません。もっと言えば、映画がアナログな視覚性を捨て去れないのに対し、マンガや小説は遥かに「デジタルな表現力」を備えた文化的ジャンルなのです。それはデジタルであるがゆえに、人間のイマジネーションという機能を踏み台として、恐るべき空想の高みまで飛躍することが可能です。ですから、マンガや小説が素朴な「リアリズム」の誘惑に屈するのは、実に愚かしい「敗北」であると言わざるを得ません。

 さてさて、今夜も話がとっちらかってしまいましたが、以上で終わります。

 船橋サラダ坊主でした!

 

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