サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

自己解体への欲望 古井由吉「雪の下の蟹」

 どうもサラダ坊主です。

 先日、古井由吉の「雪の下の蟹」という小説を読みました。

 作者の金沢時代の体験に題材を取った小品で、取り立ててダイナミックな筋書きがある訳でもない短い小説ですが、独特の読み応えがあり、文章も地味に富んでいます。

 金沢という街には北陸新幹線開業の春に行った経験があり、出てくる地名になんとなく心当たりもあったので、そこはかとない親近感を抱いて読みました。だから何だって感じですけどね。

 この作品において特徴的なのは、「自分」というものの輪郭が曖昧に霞んでいく感覚、だと言えるでしょう。金沢の市街地を襲う記録的な大雪と、それによってもたらされる心身の根底的な閉塞感は、日常的な「わたし」という個物の輪郭を少しずつ削り落とし、薄弱なものに変えていきます。

 自分という輪郭/存在の消滅という感覚は、いわば「死」への衝動であり、「未生」の状態への憧憬であると言い換えることが出来ます。あるいは、「母胎回帰」への願望という言い方も出来るでしょう。それは外在的な現実からの切断を望むということであり、作中で描かれる金沢の豪雪の風景は、自己という機能の停止によって外界との連関が失われていく危険な状態を象徴する為の舞台装置のような役割を果たしています。

 この奇妙な閉塞的欲望は、何によって齎されるものなのでしょうか? 作中では「大雪」が引き金となっています。その特徴は「抗いがたい自然の猛威」ということです。人間の力ではどうすることも出来ない圧倒的な事象に覆われ、取り囲まれることによって、語り手である「私」も周囲の人々も奇妙な幻想的状態に追い込まれていきます。「私」の大学の同僚は「私」の幻影を見かけますし、交通が遮断されることで人々は独特の「呆けたような状態」へ居着き始めます。もっとシンプルな言い方をすれば、人間の心身は余りにも過剰な「入力」によって内部の情報処理機能を決定的に麻痺させられる生き物だ、文字通り「豪雪」の影響で「フリーズ」させられてしまうのだ、という風にも定義することが可能でしょう。

 圧倒的な「入力過剰」によって「出力不能」に追い込まれた人間の「自己解体」を描いている、という端的な要約をするならば、この作品を様々な現象の「暗喩」として捉えることも困難ではなくなります。それが読解として「正しい」かどうかは存じ上げませんし、関心もありません。例えば過去にこの作品は「戦争」や「大学紛争」の「暗喩」のように尤もらしく語られたことがあります。無論、自己解体という現象は色々な場面で励起され得る事態だと思いますので、話を「戦争」や「大学紛争」に限る必要はありません。そのような一種の「頽落」が、人間を或る夢幻的な境涯へ連れ去っていくということだけが肝心なのです。

 その境涯に落ち込んだ人間は徐々に逞しい「理知」を失って、曖昧に漂う「感覚」の世界へ流れ落ちていきます。それは「甘美」であると同時に「危険」な状態です。例えば坂口安吾は、戦争中の日本がいかに平和であったかを語り、大いなる破壊の前では人間は考えることを忘れた動物に成り下がる、そこには「美」はあっても「倫理」は有り得ない、というような意味合いのことを書いています。私にとって坂口安吾はいつでも頭の鋭い、そして肝の据わった「老師」のような存在に思えるのですが、彼の言っていることはやはり犀利な指摘であると申せましょう。「頽落」は「美的なものへの感動」に似ています。感動したとき、美的な感覚に呑み込まれたとき、やはり人間は「頽落」と同様の「自己解体」の圧力に襲われます。自分を喪失するような「感動」は美的なものであり、言い換えればそれは人間の「理知」に対する自然からの「鉄槌」なのです。

 大雪が去ると、当然のことながら街並みは平凡な日常へと回復していきます。それは同時に「理知」の回復であり、「美」の喪失でもあるのです。例えば三島由紀夫は、平凡な「理知」に堪えかねて極限の「美」に殉じて自ら命を絶ちました。私はあくまでも「平凡な日常生活」に固執する考えであり方針ですが、皆さんはどのようにお考えですか? これって「恋愛=結婚」の二元論的択一にも通じる問題構成ですね。

 以上、船橋サラダ坊主でした!

 

雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)

雪の下の蟹・男たちの円居 (講談社文芸文庫)