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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

暴力と哀傷 北野武「HANAーBI」

映画

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 長い間更新を怠っておりました。申し訳ありません。

 今日は北野武監督の「HANA-BI」という映画について書きます。

 御存知の通り、北野監督はツービートという漫才コンビから出発して、今では世界的な映画監督の一人として名声をほしいままにしています。その映画の総てを見た訳ではないので、とりあえず今回は「HANA-BI」に話題を絞ります。

 北野監督の映画にはいつも切羽詰まった「暴力」と「切なさ」みたいなものが滲んでいます。何というのか、それは「寡黙」であることと切り離しがたい表象です。暴力も切なさも共に「言葉にならない衝動」の端的な反映ですよね。それを氏はいつも「映画」というジャンルで描き、語ろうとする。それはテレビで饒舌に語る姿とは異質な方針であり、姿勢でしょう。言い換えれば、彼はあれほど口が達者でありながら「言葉」では語り得ないものの領域への親和性を有しているということになります。

 何かを伝えるとき、言葉というのは最も汎用性が高く、明快で手軽で便利なメディアだと言えますが、世の中には「言葉の文法」のほかにも様々な「表現の文法」が存在します。映画、ドラマ、絵画、マンガなど、ビジュアルな表現を通じて物事を伝えようとする人々というのは、いつの時代にも分厚い層として必ず存在しており、特に「近代」の発明品である「映画」(それはカメラという光学的機械の発明によって切り開かれた技術的な産物です)のダイレクトな表現力というのは、絵画のリアリズムとは全く次元の異なる「現実の複写力」を備えて現代の私たちの生活に深々と食い込んでいます。

 「言葉」で伝えることへの非親和性は、彼の作品の多くが「暴力」を重要な主題に据えていることによっても傍証されます。「暴力」は「言葉にならないもの」の肉体的な表出に他ならず、もっと突き詰めて言ってしまえば「言葉に対する不信」によって裏打ちされています。

 「言葉」への不信感を、饒舌な漫才師として自らのキャリアの出発点に選び、しかも充分な成功を収めた人物が拭い難い志向性として孕んでいるというのは、興味深い事象ですね。氏の映画監督としてのキャリアが、バイク事故によって昔のように流暢な喋りが操れなくなった以降に本格化している(すいません、事実関係は正確には検証していませんが、時期的にはそれくらいでしたよね?)ことは、暗示的な符号と言えます。リテラルな表現力に深刻な鉄槌が下されたという氏の「個人的な体験」(©大江健三郎)は、彼の中で「言葉では伝えられないもの」に対する感受性を練磨する契機となったのかもしれません。

 しかし、暴力が言葉よりも直接的な表現であることは確かだとしても、それが言葉よりも優れた伝達手段であり、表現の媒体であると言い切ることには大きな疑問符が付されるべきです。実際、北野武監督の作品の画面に滲み出る独特の「哀傷」は、言葉で伝える力を奪われた者に固有の根源的な「寂寥」に由来しているように見えます。言葉を失い、暴力という強引な自己表出の手段を選ばざるを得なくなった人間の孤独な風景が、氏の映画の画面には拭い難い痕跡として埋め込まれているように思うのです。

 とりあえず、一度御覧になってみて下さい。二発の銃声とともに終幕を迎えるこの作品の「孤立」に向き合うのも、得難い経験だと思います。

 以上、船橋のサラダ坊主でした。