サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「正義」と「愛情」は相容れない

 

 皆さんは「喧嘩」ってしたことありますか?

 勿論、喧嘩にも様々なパターンがあります。例えば友人との喧嘩、親子喧嘩、客と店員の喧嘩、上司と部下の喧嘩、赤の他人との喧嘩、恋人や夫婦間の喧嘩。

 その中でも私が特に取り上げたいのは「恋人同士の喧嘩」という奴です。

 以前、下記のエントリーで「結婚」と「恋愛」の構造的な異質性について書いたことがあります。

saladboze.hatenablog.com

 ここで書いたことと重複する部分もありますが、改めて思ったことを漠然と書き記しておきたいと思います。

 自分の経験上、異性のパートナー(ここでわざわざ「異性」と付言するのは私が異性愛者だからに過ぎません。同性愛者の方は「同性」のパートナーの姿を思い浮かべてみてください)との間で何らかの「喧嘩」が発生するとき、往々にしてその発端は極めて矮小な「感情的躓き」です。機嫌がいい時なら何とも思わずに遣り過ごせるようなことでも、感情の落ち着かないタイミングでそれを眼にすると無性に腹が立つという経験は、誰しもお持ちでしょう。

 要するに大体の喧嘩というのは「感情的な好き嫌い」の判断から分泌される現象であって、その感情的好悪という基準には原則として「客観性」や「普遍性」がありません。よく言われることですが、「好き」とか「嫌い」という問題には「理由」などないのです。無論、それらしい「理由」を腕ずくで捏造することは簡単ですが、その尤もらしい「理由」が「正しい理由」である場合は稀です。

 それ自体は「良い」とか「悪い」とかの話ではなく、そういう感情的な好悪で人が動くというのは厳然たる地上の摂理と言えるでしょう。そして恋愛におけるパートナーとの喧嘩は、そのような感情的好悪の原理が露骨にむき出される「現場」なのです。

 「喧嘩」というのは本来、「勝ち負け」の問題であり、どちらが「正しいか」を決する為の際限のない泥仕合です。ですから、そこには当然のことながら「一般論」とか「常識」とか「ロジック」とか「正義」とか「客観性」といった社会的な通念が紛れ込んできます。しかし、皆さん御存知の通り、恋愛という「ジャンル」は極めてプライベートで主観的で、外界の見えないナルシシズムが充満する領域です。このような「恋愛の主観性」と「喧嘩の客観性」というのは本来、矛盾する原理で駆動しています。しかし私たちは恋人と喧嘩するとき、両者の矛盾に対する認識を一時的に棚上げして、「好き嫌い」の問題を「正義」の問題に移行させてしまいます。これが「喧嘩」を「対立」へ進化させる最大の要因です。

 それは良くないな、という経験的知見について、私は書きたいと思っています。つまり、「好き嫌い」の問題はあくまでも「好き嫌い」の問題として捉え、それを「正義」の名の下に審判しないというルールが、関係性の継続の為には欠かせない知恵だと、個人的に信じているのです。なぜなら「正義」というのは常に審判される相手を「排除」する為の仕組みとして稼働するからです。「正義を求めること」は「誰かを愛すること」と全く異質な営みであり、両者を完全に合致させることは出来ません。私たちが本当に「正しさ」に固執するとき、個人的な好き嫌い、感情的な好悪の判断は全面的に切り捨てられなければなりません。なぜなら「感情的好悪」は「倫理的善悪」を済崩しに取り潰してしまう問答無用のエネルギーを持っているからです。「痘痕あばた笑窪えくぼ」と古くから言うように、「私情」を通して世界を見れば、正義というのは幾らでも恣意的に変化していきます。だから正義を論じるとき、私たちは自分の内なる「愛情」を暫定的にでも「除外」して考える必要があるのです。

 言い換えれば、恋愛というのは純粋に「感情的な関係」であって、そこでは客観的な「正しさ」など、断じて存在を認められない概念なのです。にもかかわらず、私たちは愚かなことに「恋愛」を「善悪」で論じたがる生き物です。それは常に「意味」というものに引きずられながら生きている私たちの「本能」と言えるかもしれません。「私はあなたが好きだ」という感情に「正当な理由」が必要だと考えるのは、理不尽な欲望の所産です。「私はあなたが好きだ」という感情には、無数の要素が含まれていて、それを善悪の観点から論じても無意味なのです。もっと端的に言えば、「愛情」は無意味なものを無意味なままに承認する力を持っているからこそ尊いのです。仲の良い恋人たちの「睦言」には、何の客観的な価値も含まれていませんが、にもかかわらず、そこには掛け替えのない「価値」があります。それは「無意味であってもよい」という赦しであり、倫理的な規範を超越した純粋な「享楽」です。

 なんか小難しい理屈を並べたてましたが、要するに夫婦や恋人の喧嘩に「何が正しいか」という観点を持ち込むのは不毛だと言いたいのです。感情というのは絶えず移り変わるものです。絶えず移り変わるものに「永遠であれ」と要求するのは僭越な振る舞いだと、私たちはもっと自戒すべきではないでしょうか。