読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「幽霊」の政治学 映画「桐島、部活やめるってよ」

映画

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今夜は2011年に公開された映画「桐島、部活やめるってよ」について書きます。

 この作品は元々、朝井リョウの書いた小説が原作ですが、映画化された作品は原作のニュアンスを残しつつも、遥かに上質な芸術作品へ昇華されています。というか、この作品の本質的な生命というものが、映画という「寡黙」なジャンルに適しているということなのかもしれません。これはあくまでも私の個人的な感想に過ぎないので、万人に妥当する感覚とは言い難いと思いますが、この作品の主題は、小説という実に「饒舌」なジャンルで描き出すには適していないものなのではないかと思うのです。

 映画が「寡黙」で小説が「饒舌」ってどういうことやねん、と思われた方は、下記の過去エントリーを参照してみていただけると嬉しいです。

 

saladboze.hatenablog.com

 この作品の構造的な「キー」は、繰り返し言及される「桐島」の正体が不明であるということ、にもかかわらず「桐島」の存在によって多くの人々たちが翻弄され、深刻な影響を蒙らずにいられないということ、この二点に集約されます。まず、こうしたドラマツルギーの構造を作り出したことが、この作品の美質なのですが、それは「映画」という寡黙な表現形式を得ることによって更に際立った効果を上げています。なぜなら、小説という饒舌なジャンルにおいては「不在者」である「桐島」への言及が幾らでも積み上げられ得るからです。無論、映画でも「桐島」への言及は繰り返し行われるのですが、それは小説的な言及とは根本的に異質な響きを帯びています。

 小説というメディアは徹頭徹尾「言葉」の力で構造化されており、一から十まで「言葉」に語らせる以外に方法がありません。たとえ沈黙や省略によって「言外の意味」「行間の意味」を読者に悟らせるような手法を選んだとしても、それはあくまでも「言葉」の余白なのです。言い換えれば「小説」というジャンルは根本的に「描写すること」と無縁のメディアなのではないかと思います(それについては後日改めて別の記事で触れます)。それはあくまでも「言葉」によって語るのであり、従って根本的には「音声的」なメディアなのではないでしょうか。

 映画版の「桐島」の場合、多くの人々によって幾度も言及される存在でありながら、一度も具体的な姿を画面上に現さない「桐島」の独特な存在感は、画面そのものの表現力によって観客に伝わります。言い換えれば、言葉によって語られながら姿を現さない、言葉の上でしか存在しない「桐島」という幽霊めいた表象が、より生々しくリアルに感じられるのです。本質的に「言葉」という次元しか有り得ない「小説」の場合、この「言葉の上でしか存在しない幽霊性」というものが、克明な像を結びません。なぜなら、小説においては「語られること」と「現れること」は同一の次元に属する事柄だからです。映画だからこそ、「語られること」と「現れること」の断層が鮮明に浮かび上がるのであり、「現れるのか現れないのか」という物語的な緊張も一層強まるのです。

 さて、こうした前置きを踏まえた上で、なぜ「桐島」は姿を現さないのか、という問題について少し考えてみたいと思います。もっと厳密に言えば、なぜ、この作品において「桐島」は「語られるばかりで現れない」という「幽霊性」を刻印されているのか、それが物語の構造に対してどのような作用を及ぼしているのか、ということについて書いてみたいと思います。

 この作品が、最近流行りの「スクールカースト」という概念と馴染み深い性質を有していることは歴然としています。「学校」という閉鎖された環境には、色々な要素を基準とした独特の「生態系」が存在し、そこには階級的な差別があります。頻発する「イジメ」の問題も、それが自殺という致命的な悲劇に行き着くことさえ稀ではないのも、この「スクールカースト」という政治的構造が実に根深く、堅牢であるからでしょう。 

 「桐島」は「スクールカースト」の頂点に位置する存在です。その頂点が「幽霊」と化して観客や登場人物の視界から排除されているというのが、この作品に固有の物語的な「条件」です。というか、この作品の独自性は殆ど、「桐島が登場しない」という条件によってのみ支えられていると評しても過言ではありません。

 物語の中心的な存在として現れる四人組の女子グループ(橋本愛、清水くるみ、山本美月松岡茉優)は、明白にスクールカーストの上層に位置する存在として描かれており、そのうちの一人(山本美月)は「桐島」の彼女であることによって、重要な「政治力」を有しています。彼女たちは学校という閉鎖された密室的な世界における「貴族」であり、そのような「貴族」に属するということを享楽しています。もしも「桐島」が姿を現したならば、この作品におけるスクールカースト的な秩序は「完成」されるでしょう。しかし監督の吉田大八氏は、断固たる決意の下に「桐島」の幽霊性を貫徹させます。「桐島」が「幽霊」に転じてしまったことによって、それまで堅牢であったスクールカーストは俄に揺らぎ始め、混乱の窮みに陥ります。この揺らぎの中で、冴えない映画部の面々がクローズアップされ、橋本愛神木隆之介との間に束の間の交歓さえ生じるようになります。

 この揺らぎはしかし、虐げられた者たちの栄光の恢復というような単純明快なカタルシスには断じて帰結しません。「桐島」が幽霊と化したことで崩壊した秩序の中で、胸の空くような下剋上が成し遂げられる訳ではないのです。「桐島」が幽霊と化したことで生じた秩序の奇妙な「宙吊り状態」に、異様なリアリティが発酵するのです。

 言い換えれば、「桐島」というのは「結論」であり「最終的な審級」なのです。それが徹底的に「不在化」されることによって、彼ら/彼女らの明確極まりない「政治的秩序」は曖昧な中間的状態へ閉じ込められてしまいます。その束の間の「宙吊り」が、私たちの心に或る生々しい「現実感」を喚起します。常識的に考えれば、全く連絡のつかなくなった「桐島」が永遠に姿を現さないということはないでしょう。生きているにせよ死んでいるにせよ、「桐島」が「不在」であることを止めた途端、揺らいでいた秩序には何らかの「結論」が与えられ、歪んでいた日常は瞬く間に復旧するでしょう。そうならないギリギリの「政治的空白」を徹底的に描き出したことによって、私たち観客は恐らく「現実の可能性」に触れるのです。「可能的な現実」、つまり目の前の現実とは異なる「別の現実」への想像力が、引鉄を絞られるのです。

 サスペンディッドな現実が何故、私たちに強烈なリアリティを感じさせるのかは分かりません。でも想像してみる限り、桐島が登場する「桐島、部活やめるってよ」には、ステレオタイプな感触しか見出せないのではないかと思います。桐島が登場した瞬間、総ての不安定な「揺らぎ」は統一的な秩序によって回収されてしまうからです。俗な言葉を用いるなら「日常の裂け目」を感じさせるからこそ、私たちはこの作品に惹かれ、魅了され、その独特な胸騒ぎの感覚を誰かに語りたくなるのではないでしょうか。

 例になく長文となってしまいました。

 以上です、船橋からサラダ坊主がお届けしました!