サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

表現の自由という、名状し難い「困難」 映画「図書館戦争 -THE LAST MISSION-」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は、やや旧聞に属するテーマかも知れませんが、10月10日に公開されて大ヒットを記録している実写映画「図書館戦争」の続編について書きたいと思います。

 内容としては前作同様、有川浩の原作小説から大きく逸脱することなく、要点を押さえながら映画の尺に合わせて巧みに構成してあり、制作陣の作品に対する愛情を感じます。ただ、限られた時間の中で目玉のアクションシーンに比重を傾けねばならなかったせいか、原作を読んで理解していないと、もしかすると物語の流れや筋書きが追い辛いかもしれません。

 内容自体は映画館でご覧になるのが一番ですし、また様々なところに情報は転がっていると思いますので触れません。私がこの作品の鑑賞を通じて抱いた感想を徒然と書き綴ろうと思います。

 この作品では一貫して「表現の自由」という問題が追究されています。政府による検閲が合法化された架空の日本を舞台に、検閲から図書を守ることを通じて「思想と表現の自由」を守ろうとする図書隊の面々の苛酷な格闘の日々が、この作品の主題であり、物語の枢軸です。インターネットやSNSの発達で、個人が様々な情報や思想を発信することが実に容易になった現代社会において、「表現の自由」という問題を考えることの切実さは刻々と高まっています。

 以前にも私は下記のエントリーで「図書館戦争」について触れています。

saladboze.hatenablog.com

  「表現の自由」という理念は、人類が誕生したときから存在した訳ではありません。当たり前のことですが、古今東西を問わず、大概の権力者は自分に不都合な情報を握り潰すことに多大なリソースを費やしてきましたし、国家によって編纂される公式な歴史の多くは、政治的弱者に対する偏見と蔑視を暗黙裡に含んでいます。「正史」を編纂する権利は往々にして政治的強者の側にあり、「正史」とは異なる角度から現実を照明する「稗史」の類はしばしば、下等な偽書のような扱いを受けてきました。言い換えれば、「表現」というのは万人に平等に認められた基礎的な権利などではなく、政治的な暗闘の涯に獲得される「褒賞」のようなものだったのです。

 権力者の都合に応じて書き換えられる歴史、或いは権力者の意向に沿わない「反社会的な思想」の弾圧、それらの暴挙は長い人類の歴史を通じて繰り返し演じられてきた「蛮行」です。秦の始皇帝による「焚書坑儒」などの事例を鑑みれば、図書隊の戦っている「敵」が決して荒唐無稽なフィクションの産物などではないことは歴然としています。権力者が「情報」や「思想」を取り締まろうと企てるのは、半ば政治的な「本能」なのです。そして「表現の自由」という理念は、そうした権力者による横暴な弾圧への果てしなく地道なレジスタンスの蓄積を経て、徐々に積み上げられ、築かれてきたのです。

 インターネットの爆発的な発達は、個人による「表現の自由」を物理的に後押しする強力なメディアとして今日、社会的なインフラストラクチャーの根幹を占めつつあります。チュニジア民主化運動「ジャスミン革命」においては、フェイスブックやユーチューブが重要な役割を担ったとも言われています。その一方で、中国などではインターネットに対する政治的な規制が常態と化しており、アメリカのCIAなど各国の諜報機関は世界中で「通信の傍受」に血道を上げているという説もあります。インターネットが「表現の自由」に及ぼした影響は、プラスもマイナスも共に大きいのです。そして、ネットを通じた情報発信が進めば進むほど、その弊害も大きくなり、「何を表現すべきか」という問題が益々切迫した重要性を帯びつつあります。

 そういう時代背景を踏まえると、「図書隊」という着想を優れたエンターテイメントに昇華した有川氏の時事的な嗅覚の鋭さは嘆賞に値すると言えましょう。ただ、その一方で私は、この興行的に華々しい成功を収めている実写映画版の「図書館戦争」が、原作小説の総てを描き出すことは難しいのではないかと思います。

 原作第四巻「図書館革命」は、敦賀原発を舞台に発生したテロリズムの問題を「表現の自由」という理念と絡めて描いています。高名な作家が原発テロを主題に書いた小説の内容と、実際に発生したテロ行為の手順が酷似しているという理由から、著作活動の禁止を言い渡されるという筋書きで、しばしば凶悪殺人犯に対するアニメやゲームの影響が取り沙汰される我が国の実情を思えば、実にリアルなストーリーラインであると言えるでしょう。

 しかし、私たちは2011年に発生した東日本大震災の未曾有の被害と、福島原発の齎した甚大な災禍を忘れていません。たとえフィクションであったとしても、あの克明な表現力で「原発テロ」の顛末を劇場の大画面に描き出したら、不快な思いを抱く人は少なくないでしょう。今でも放射能の影響で住み慣れた故郷に戻れずにいる人々が多数存在するこの国で、「原発テロ」の克明な表現は、社会から寛容な待遇を受けられるでしょうか?

 無論、「図書館戦争」の実写映画化というプロジェクトが商業ベースで営まれている以上、観客たちに「無用の不快と苦痛」を与えるような作品に巨額の投資が行われる見込みは低いでしょうし、そのこと自体を制作陣が息苦しく感じることはないのかもしれません。しかし、もしもこの国でファンダメンタルなほどに「表現の自由」を貫こうとした場合、「原発テロ」を生々しく描写した映画を全国の劇場で大々的に公開することは可能でしょうか? それが思想や宗教の対立への配慮ではなく、傷つけられた人々の「精神」に対する配慮から差し控えられるとき、つまり「自主規制」されるとき、私たちは「表現の自由」を「有害な思想」の名の下に禁圧する良化特務機関の人々と、同一の旗幟を掲げることになるのではないでしょうか。

 「図書館戦争」という映画が「表現の自由」という理念を崇高に物語れば物語るほど、きっと「原発の悲劇」を扱った「娯楽的映画」が続編として制作されることはないのだろうな、という考えが頭を過り、私は何とも名状し難い心境に陥りました。その善悪を、直ちに明晰判明に結論付けることは、とても出来そうにありません。また、こんなことは私の個人的な思い込みに過ぎず、案外「図書館戦争リターンズ」とでも適当に銘打って、克明な原発テロの描写を夥しく含んだアクション大作が上映されるかもしれません。けれど、例えば世界貿易センタービルに旅客機を突入させる「エンターテイメント」や、パリの市街地で同時多発的に自動小銃を乱射する「エンターテイメント」を、その記憶が生々しいときに発表することは社会的に認められるのでしょうか。「表現の自由」という標語自体は勇ましく、凛然と聞こえますが、その「内実」を問い詰めるのは非常に難しいのです。

 以上、長くなりましたが、今夜はこの辺でおさらば。

 サラダ坊主でした!