サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ノベル(小説)」と「ロマンス(物語)」の背反に就いて

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今回も随分と抽象的なテーマを扱うことになります。辛抱してお付き合い頂けると幸いです。

 私は個人的な趣味として昔から小説を書いているのですが、当然のことながら「小説」というのは、そう簡単に書けるものではありません。無論「小説っぽい文章」を書き綴ることは、多少なりとも本を読んだことのある人なら誰でも可能ですし、マンガやアニメや映画やドラマなどを通じて様々なタイプの「物語の類型」に馴染んでいる方ならば、「小説っぽい筋書き」を拵えるのにも、さほど難渋しないかもしれません。

 しかし、そうだとしても「小説」をきちんと書き上げることは容易な業ではなく、その「小説」に何らかのオリジナリティやリアリティを埋め込むことは更に困難です。もっと言えば、そもそも「小説」というのは何なのか、という問いを日頃から真剣に考え抜いている人なんて、世の中には殆ど存在しないのではないかと思います。誰もが「小説っぽいもの」に就いては漠然たるイメージを持っているでしょう。「文字で構成された物語=虚構」程度の素朴な認識ならば、誰しも持ち合わせているでしょう。けれども「小説っぽいもの」と「小説」とは、厳密に考えるならば互いに全く異質な概念です。単なる「物語」を「小説」と混同することは、何故「小説」と呼ばれる特異なジャンルが歴史的に形成されてきたのかという点への本質的な「疑問」を決定的に欠いています。

 よく言われることかもしれませんが、日本語における「小説」という言葉は、英語では「novel」に該当し、形容詞として用いる場合には「新奇な」「奇抜な」という意味合いを含みます。元々は「新奇なもの」を意味する中世イタリア語「novella」が語源であると言われており、そこには神話や民話、歴史的な叙事詩などの古来から存在する物語の様式との「異質性」が暗黙裡に含意されています。

 敢えて小説ではなく「ノベル」(novel)という言い方を用いるなら、英語圏においてその対義語として使われるのが「ロマンス」(romance)という単語です。この使い分けの基準に就いて、英語話者でもない古色蒼然たる日本人の私がしたり顔で語るのは図々しい話ですが、私なりの解釈に基づいて話を進めさせて頂きます。「ノベル」と「ロマンス」との違いは、端的に言って「写実性」です。「ロマンス」は神話や民話などの空想的な物語の系譜に連なるジャンルであり、荒唐無稽なフィクションを包摂しています。歴史上の英雄の大活躍を描いた波瀾万丈の物語も、身を焦がすような大恋愛を描いた壮大な物語も、共に「ロマンス」です。私たちが「ロマンティック」という表現を日常生活で用いるとき、そこには「現実離れした美しさや気高さ」というニュアンスが暗黙裡に含まれていると思いませんか? 「ロマンス」というのは現実には起こり得ない「虚構」であり、そのエネルギーは寧ろ現実から遥か遠くに隔たった空想の高みへ向かえば向かうほど、一層輝きを増すのです。

 しかし「ノベル」というのは、そういう「ロマンティシズム」(romanticism)に対して「リアリズム」(realism)で対抗するジャンルです。言い換えれば「ノベル」というジャンルには「現実の身も蓋もなさ」に対する強固な関心と切実な執着が息衝いています。ノベルの作者たちは、ロマンスの作者たちが好んで描き出すような壮麗で雄大な「御伽噺」の欺瞞性に飽き飽きしています。そんな嘘八百の物語に聞き惚れていられるほど、安閑たる「夢見る自分」を保っていられないのです。寧ろ彼らの狙いは、そのような「ロマンス」の神秘的な虚構性を破壊し、叩き潰す点にあります。かつて評論家の柄谷行人氏は「小説」を「物語の自意識」と呼びました。この表現、実に言い得て妙だと私は感じます。物語が只管にフィクションとしての自己に埋没し続ける限り、そこには即自的で主観的な「体験」しか存在しません。

 言い換えれば、ノベルというのは「批評性」を含んでいることが、ジャンルとして成立する為の最大の要諦なのです。それは現実に様々な角度から照明を当て、多様な解釈を繰り返し、その「真相」に迫る為の迂遠な手続きです。ロマンスという強靭な虚構の装置が隠蔽してしまう「現実」を抉り出す為に、ノベルは「リアリズム」を必要とします。それを極めて皮相な次元で受け止めれば、「リアリズム」とは「写実主義」であるということになるでしょう。しかしそれは実に一面的な見方であって、「リアリズム」を単なる現実の「模写」と混同しては、事態の本質を見誤ることになりかねません。それはあくまでも「批評性」と手を携えたものである必要があります。

 どんどん話が抽象的になりつつありますが、要は巷間に濫れている夥しい数の小説の大半は「物語」であり、娯楽的なフィクションでしかなく、本来の意味での「小説性」を帯びた作品は稀少であるということが言いたいだけです。それが良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そういうことは一概に断定出来ません。再び柄谷行人氏の言葉を借用すれば、例えば中上健次の「地の果て、至上のとき」という長篇小説は、先行して書かれた「枯木灘」に対する批評を含んでいると言えるそうです。どちらも詳細に読み込んでいない私の乏しい文学的知識では、それが正しい見解であるかどうかを論じることは出来ませんが、恐らく小説というのはそれ自体が、既存の物語に対して加えられた批評のフィクショナルな表現なのです。小説は常に物語に対して「遅れて」います。寧ろ「遅れて」いることこそ、小説の小説たる所以であると言えるでしょう。そして、そうした小説的批評性の対象は必ずしも既存の「作品」であるとは限りません。もっと言えば、「物語」というのは決して芸術的な領域に幽閉されている訳ではないのです。安部総理が集団的自衛権特定秘密保護法案を「正当化」する為のロジックも「物語」であり、旧約聖書に基づいて組み立てられた壮麗な宗教的体系も「物語」です。それらの物語を覆す為に敢えてもう一つの物語を語ってみせること、それこそが「小説」に課せられた歴史的な使命なのです。言い換えれば、小説の「小説性」とは、「物語」との間の「距離」にしか存在しないのです。

 相変わらず訳の分からない文章で申し訳ありません。今夜はここまで。船橋からサラダ坊主が御送りしました!