読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「若者」というマイノリティ / 「高齢化」というライフスタイル

社会

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日も徒然なるままに他愛のない雑感を綴ろうと思います。

 仕事をしていても、テレビや新聞やネットを見ていても、日本は「少子高齢化」の時代であるという言説を耳にすることがよくあります。別に最近になって語られ始めた言葉ではなく、私が社会人になった十年前にも、会議などでこのキーワードを耳にしました。先進国というのは往々にして出生率が下がるものであり(恐らくは選択の自由というものが整備されていくからでしょう。豊かな環境では、必ずしも子孫繁栄だけが個人の生涯における最大の使命とはならないでしょうから)、日本に限らず、少子高齢化というのは成熟した国家においては共通の宿命であり、課題です。

 昭和24年(第一次ベビーブーム)に年間269万人を数えた日本の出生数は、平成23年の時点で年間105万人にまで減少しており、年度によって多少の盛り返しはあるものの、長期的には低落傾向が続いています。それに伴って日本の総人口も2060年には9000万人を割り込むであろうという試算も出ています。

 生まれてくる子供の数が減り、高齢者の数が増えることで、世の中は「生産年齢人口」が減ってしまうことに危機感を募らせているようです。その対策として政府は、高齢者や女性や移民を労働力として活用しようと企てています。企てていると言っても、それ自体に善悪はなく、単に歴史的な趨勢であるに過ぎません。誰かが働かねば、世の中は立ち行かないのですから。今でも地方は過疎化の影響で経済は沈滞し、客もいなけりゃ働き手もいないといったような窮境に追い込まれています。人口の多い首都圏でも、競争が過当であるために人手不足は非常に深刻で、結果的に様々なサービスの品質低下を招きつつあると言えましょう。

 これから社会の中心が「高齢者」に移っていくことは確実であり、社会全体のリソースも高齢者が暮らし易い環境の整備に重点的に振り分けられていくことも確実です。子供の数は減る一方ですから、子供のための産業というのは衰退を避けられません。学習塾や予備校、高校、大学、これらが劇しい再編の荒波に呑まれていくことは分かり切っています。

 先般、安保関連法制の成立を巡って、SEALDs(正式名称は「自由と民主主義のための学生緊急行動」というらしいですね)という学生団体が脚光を浴びました。一連の報道に触れて、再び学生運動の季節が、革命の季節がやってきたのかと感じた方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、実際には今後の日本で、ああいう「若者」と呼ばれる層が巨大な社会的潮流を生み出すことは困難なのではないかと私は考えます。何故なら、彼ら「若者」というのは、議会制民主主義という弱肉強食の原理に基づいて稼働する国家において、少数派であることによって弱体化せざるを得ないと思うからです。

 今のように医学が発達し、健康寿命が延びていくと、高齢者というもののエネルギーはそう簡単には目減りしません。彼らは齢を重ねても隠居することなく、社会の中核に位置し続けるでしょうし、彼らが主導権を握り続けている限り、反体制的な若者の訴えに耳を傾ける必要性は感じないでしょう。端的に言って「高齢の権力者」たちが、マイノリティと化した若者の政治的要求に「脅やかされるような感覚」を抱く見込みは実に薄弱であると考えられます。2060年、高齢者と定義される人々の割合は、日本の総人口の40%に達すると試算されています。持たざる若者がテロリズムに走ったところで、若者の要求に基づいた社会制度が設計される訳ではありませんし、あくまでも穏便な話し合いに基づいて政治的な要求を行なうとしても、老獪な彼らとの交渉に悉く勝利を収めることは困難でしょう。

 さて、私はSEALDsの活動を批判しているのではなく、単にこれからの日本を襲うであろう社会的な変動に着目してみたいと思っただけです。少子高齢化という構造的な趨勢が極限まで行き着けば、社会的なインフラのみならず、文化というもの自体が質的な改変を遂げることになります。別に国民の誰も彼もがゲートボールや盆栽に関心を示すような社会になるだろうと申し上げているのではありません。政治も経済も文化も、その営みの焦点が切り替わっていくなかで、私たちの社会的な資源はどのように用いられるようになるのでしょうか。

 若者が減る一方、医学の発達と社会医療費の爆発的な膨張によって、健康な老人は増えていくでしょう。その結果、老人というもののイメージは大きく塗り替えられることになります。もっと言えば、私たちの社会はこれから「世代」の消滅という現象に覆われていくのではないでしょうか。或いは、平板化と言い換えてもいいかもしれません。若者が減り、生まれてくる子供が減るということは、広い意味での「血」が入れ替わらなくなるということです。「創造」や「更新」ではなく、「延命」とか「修繕」とか「再生」とか、そういった概念が社会的通念の表舞台に迫り上がってくることになるでしょう。例えば経済成長の著しい新興国では、都市の風景や外貌は日進月歩の勢いで目紛しく変容していきます。しかしこれからの日本は、例えばヨーロッパの古い街並みのように「数百年前の建物を修繕しながら今も使っています」みたいな価値観が主流派となるのではないかと思います。これは無論、建物の話をしているのではありません。少子高齢化という絶対的なトレンドの下では、そういう「再利用」とか「修繕」というキータームが、人間のライフスタイルに浸透していくのではないかという意味合いです。

 そういう発想が広い範囲で社会を覆っていけば、国民性というか、国家の性質自体も大きく変貌していくことになるでしょう。厭味とかではなく、子供が減って年寄りが増えれば「新しいものを作ること」より「古いものを維持すること」の方が日常的な規範として登録される可能性は高い筈です。

 なんだか「でしょう」ばっかりで胡散臭い気象予報士みたいな文章になってしまいましたが、結論は特にありません。逆に子供が減れば減るほど、「子宝」の資産価値は上がっていくかもしれませんね。不妊治療というのももっと一般化するでしょう。けれど、社会の主要な価値観は社会の多数派によって定められるのが普通であると考えるなら、やっぱりライフスタイルは「リユース」「リサイクル」に傾いていくことになるでしょう。もっと言えば、日本に限らず、地球環境自体がそういう「少子高齢化」のフェーズへ移行しているとも言い得るかも分かりません。「エコロジー」という観念が日増しに勢力を増大しているのも、少子高齢化の進行と同期しているのかもしれませんね。

 以上です。サラダ坊主でした!