サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「モノ」と「コト」の幸福論 無常観の反復

 どうもこんばんは、毎度おなじみサラダ坊主です。

 今回は「天職」という幻想的な概念について書きます。

 私は小学生の頃から小説家になりたいと思っていて、三十歳の誕生日を迎えた今もその夢を諦めきれずに、個人的な趣味として創作活動を続けているのですが、実際に生きていくために日々やっている仕事は食品の小売業で、なんだかんだ十年間もやっていると、それなりに知識や経験も身についてくるもので、知らぬ間に部下の教育やら何やら、要求される仕事の水準も自ずと高まってきています。そもそも、私が現在の勤め先に拾ってもらったのは二十歳の時で、当時大学を辞めて無目的なフリーター生活に埋没していた私は、付き合っていた女性を妊娠させてしまい、慌てて正業に就かねばならなくなったのでした。それでハローワークに通い詰め、世間という大海原の右も左も分からぬまま、紆余曲折を経て何の適性もない小売業へ足を踏み入れ、何度も辞めてしまおうと思いながら辛うじて踏み止まり、現在に至るという訳です。

 最初の五年間くらいは、家族を養う為に働かざるを得ないという「背水の陣」に尻を叩かれて労働の苦しみに堪えていたのですが、二十五歳で離婚したときは、その具体的な拘束が消え去ったせいで働くことへのモチベーションを見失い、煩悶する日々を過ごしました。その後、家族を失った空虚を埋めるかのように仕事へ打ち込むようになり、そのモチベーションの問題は解決したのですが、一方で小説家への憧れを捨てられなかった私は常々、人生の大半の時間を費やしている現在の生業と、夢見ている仕事との疎隔に鬱々たる感情をずっと抱き続けてきました。

 そういう私ですから、何度も「天職」とか「適性」とか「才能」とか「努力」とか「自由」とかに関して頭を悩ませてきましたし、何のために生きるべきか、自分が求める「充足」や「幸福」とは何なのか、ということにも思考を巡らせてきました。働くということは、誰にとっても重要な問題ですし、生きることと働くことを切り分けて捉えることは、貴族制度の存在しないこの国では殆ど不可能に近いと言えます。誰しも何某かの働きをして生きる為の糧を稼いでこなければ、路頭に迷い、行き倒れることになりますし、そもそも働いて口銭を稼がねば、これだけ貨幣経済の発達した社会では、やりたいことが何も出来ないということになりかねません。良くも悪くもそれが現代日本の平均的、一般的な光景なのです。

 小売りの現場で責任者として働いていると、色々な立場の人々と接することになります。当然、学生のアルバイトと一緒に働く機会も多い訳で、彼らは時が満ちれば所謂「就活」というものに血道を上げ始めます。新卒定期採用というものが伝統行事のように毎年繰り返されるこの国で、学生が「就活」に費やす熱情と労力というものは並大抵のものではありません。生涯に一度しかないチャンスを掴み取れるかどうかで、その後の総てが決まるとでも言わんばかりに就活へ精励する彼らの姿を見ながら、私は複雑な気分になります。彼らは「自分に向いている職業」を探すのですが、恐らく世の中の学生の大半は、特別な才能など持たずに生まれ育っている筈で、たかだか二十余年の短い日月の蓄積だけで「天職」に巡り逢える訳がないでしょう。殆どの人間には、特別な才能などなく、多少の個性があるだけで、その個性も編集したり加工したりせず、原石のままで通用することなど稀です。

 という風に書きながら、でも最近の学生を見ていると、余り「天職」という概念を信じているようにも見えなくなってきました。昔は「就職」や「労働」を「自己実現」として捉える風潮が積極的に奨励されていたように思いますが、最近は潮目が変わったのでしょうか? もっと言えば、「労働」と「幸福」を結び付けて捉えるようなパースペクティブ自体が既に現在では時代錯誤の「遺物」なのかもしれません。「天職」という幻想が死んだというよりも、「労働」に対する疑念が一層亢進しているのかもしれません。

 若い女性社員でも「結婚したい」「出産したい」という願望を口にする人が増えています。これは若しかしたら旧時代の「揺り戻し」であり「反動」なのかもしれません。専業主婦が当たり前であった時代、敢えて女性が働くことに生き甲斐を見出すことは輝かしい「先進的なライフスタイル」だったのでしょうが、現代のように女性が仕事を持つことが常態化してくると、却って「労働」の幸福よりも「家庭」の幸福の方が輝いて見えるのかもしれません。

 しかし、実際には世の中は「晩婚化」「未婚化」「少子化」「出産の高齢化」という時代の趨勢に押し流されています。多くの若者が「結婚」に憧れながら、しかし「結婚」に手が届かないでいるという現状、これは一体何を意味するのでしょうか? 昔のように、バリバリ働いて稼ぎまくって物質的な幸福に包まれたいという情熱が稀薄化しているということは、よく聞かれる話です。物質が飽和している今、もっと「精神的な幸福」に人々の関心が移行しているのだとしたら、それって長期的なスパンで眺めると「皮肉な逆行」だと思いませんか?

 例えば1950年代の日本は、敗戦後の困難な復興の途上にあり、現代では考えられないような物質的窮乏が世間の「常態」であったと考えられます。以前話題になった「3丁目の夕日」などが典型的な例ですが、物質的な貧困が当たり前だからこそ、弱者同士で身を寄せ合い、助け合う「連帯」や「相互扶助」が社会の一般常識であった訳です。そういう「連帯」への憧憬が再び現代において勃興しつつあるのは、物質的な欲望が人々の主要な関心として選択され得ない時代の「構造的特質」なのかもしれません。「物質的幸福」が望めないとき、人々がその代償のように「精神的幸福」の確保へ奔走するというのは、筋の通った反応である気がします。

 「物質的幸福」とか「精神的幸福」とか、当たり前のように使っていますが、これらの言葉の「語釈」を厳密に考えてみると、何を指しているのか分からなくなってきますね。端的に言えば「物質的幸福」というのは「形あるもの」によって充足されるということです。お金、不動産、車、家具、書物、楽器、要するに何でもいいのですが、そういう「有形的な対象」によって幸福が得られる時代というのは、或る意味で話が簡単です。あらゆる問題が「物質的に」語られ、追究され、解決される訳ですから、話は実に「技術的に」なります。技術的な問題、いわば「物をどう動かすか」ということが、議論の総体となる訳です。そこでは曖昧な理屈より、具体的な行動と技術的な追求だけが、人々の主要な関心事となります。

 しかし「有形的な対象」が人々の幸福を支えられないときには、話が実に曖昧模糊とし始めます。「物質的な幸福」では満たされないとき、私たちが思い悩むべき対象は「無形的」になるからです。「無形的なもの」を相手に論じるとき、私たちは「具体的な議論」を重ねることが途端に難しくなります。客観的な測定も、自分の五感で確かめることも出来ない「夢幻」のような観念を巡って、幸福の追求に舵を切らねばならないのです。

 そういう「有形的なものから無形的なものへの移行」が、何を端緒として始まったのか、それを実証的にトレースすることは出来ませんが、例えばバブル経済崩壊後の長期的不況、リーマン・ショック阪神淡路と東日本の二度の「大震災」などが、そういう時代的な気分を跡付けていると言うことは出来るかもしれません。要するに「モノは当てにならない」という感覚が強く瀰漫すればするほど、物質的幸福から精神的幸福への焦点の移動は促進されるということです。「形あるものは何れ必ず滅びる」という日本古来の「無常観」が召喚される訳です。太平洋戦争直後の日本人もきっと「形あるものは頼りにならない。いつ根こそぎ滅びてしまうか知れたものではない」という感覚を、その魂に否応なしに刻み込まれていただろうと私は思います。その傾向が亢進すれば、人々はもっと「頼りがいのある幸福」「滅びない幸福」を求めるでしょう。それが「精神的幸福の希求」というムーブメントに帰結するのは当然です。

 振り返ってみれば「労働」に「自己実現」を求めるという潮流も、「労働」によって「報酬」を得るという物質的幸福の方程式では満たされなくなった時代の所産だったのかもしれません。労働を通じて確保される「有形的資産」に幸福を見出すのではなく、「労働」そのものを通じて獲得される「無形的資産」こそ、滅びることのない「真の幸福」だと、人々が考えるようになったことの表れかもしれません。それが今日では更に一歩進んで、「労働」という目標達成の喜びから、「家族である」ということ、いわば「共に存在している」というだけの条件から「幸福」を引き出そうとする態度へ進化しているのかもしれません。

 こうした傾向は、日本という国家の「成熟」を意味しているのでしょうが、それは言い換えるならば「老衰の徴候」であるとも言えるかも知れません。反発を招きかねない表現であることは承知の上で敢えて述べるなら、そういう「無形的幸福」は「老人の幸福」であって、本来ならば自由闊達な若者が求めるべきものではない筈です。「最近の若者は、恋人も車も欲しがらない」とか、「草食系男子」や「腐女子」が増えているとか、巷間では騒がれていますが、そういう「観念的幸福」へアクセルを踏み込む若者が増えているという現実は、単に「成熟」とばかり喜んでもいられないのではないか、と思います。多かれ少なかれ、無常観に立脚した幸福は「現実に対する蔑視」を含んでいるものです。「現実が信じられない」→「空想の幸福に溺れよう」という若者が増加すれば、日本の「現実」は過疎化していく一方だからです。確かに物質的な現実は絶えず「崩壊の予兆」に覆われていますが、だから「不壊の内面」へ逃げ込んで遣り過ごそうというのは、短絡的な反動です。

 でも、歴史的な潮流を見れば、敗戦後の貧しい日本は、朝鮮戦争による特需以降、高度経済成長の時代に突入して「物質的幸福」への狂奔に突入していきました。現代の日本でも同様の「揺り戻し」が起こる可能性は常にあります。どっちが正しいのかは分かりません。いずれにせよ、私たちは物質の「永遠」にも「無常」にも拘泥し過ぎない、何れか一方に偏り過ぎないという「中庸」を肝に銘じなければなりません。

 以上、長くなりました。

 船橋からサラダ坊主が御送りしました!