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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 一 コスター商会の一等書記官ルヘラン氏の回想

 スファーノ湾の穏やかな海原に面した港町ジャルーアは、百年も昔から栄えてきた古色蒼然たる漁業と交易の街で、埠頭に連なる煉瓦造りの重々しい倉庫には、金銀財宝から娼婦の下穿きまで、ありとあらゆる品物が収められていると聞く。実際に倉庫の扉を開け放って、中身を覗き込んでみたことはない。倉庫の所有者たちは押しなべて頑迷で強欲であり、自分の持ち物を誰かに盗み見られることに対してさえ、臆病なほどに吝嗇なのだ。

 私がジャルーアの街に移り住んだのは、今から十五年も昔の話で、その当時から港町に連なる倉庫は今と同じように黴臭く古めかしかったし、スファーノ湾の水面は透き通るような緑柱石の輝きに覆われていたものだ。安っぽい商館の蒼白い顔の書記官として雇い入れられ、三年の下積みを経た後に赴任した先がジャルーアであったことに、特別な恨み言を申し上げる必要はない。此処での暮らしは何時でも穏やかであったし、気の荒い船乗りたちも大抵は魂の奥底に金剛石のような陽性の気質を孕んでいた。新参者の書記官が帳簿の書き入れ間違いをやらかしても、通り一遍の罵声は無論最初に飛んでくるが、それがいつまでも執拗に尾を引くということはなかった。彼らにとって人生は次々に緞帳の捲られる華やかな舞台であり、昨日の演目にしくじったからと言って、その負債を今日の出番にまで引き摺るのは愚かしい話だと心得ておられるのだ。

 ジャルーアの港には日々、様々な国籍の船舶が出入りして、多彩な荷物を揚げ降ろしし、それに応じて様々な国籍の人間が街中の通りを行き交っている。様々な国の言葉、様々な国の衣裳、様々な国の習俗が氾濫するジャルーアの街並は、古き良き時代の面影を残した建物の連なりと、異国的な情緒が共存する不思議な空間で、赴任した当時の私の眼に、それらは極めて新鮮な印象を与えた。私が生まれた街は、ジャルーアから北へ遥かに上った先の、ファルペイア州の外れの山間の僻村で、少年の頃は海を見たことも、平原を流れる滔々たる河川のゆったりとした風景を見たこともなかった。四〇〇里ほど南へ下ったスファーノ湾の沿岸に位置するジャルーアという風変わりな都市の噂は耳にしたことがあり、未だ見ぬ「大洋」の光景をこの肉眼で確かめ、実感してみたいという幼い憧憬は常に絶えたことがなかった。私の父方の親戚であるトラダック伯父さんは若い頃から貿易商として各地を飛び回っていた豪放な人物で、アリヤール河の河口に位置するジャルーアの港にも商売柄幾度も足を運んだ経験もあり、彼が時折土産物として持ち帰る絵葉書や莨やナイフや、或いは壮麗な客船や無骨で格式張った軍艦などの見聞から、私の中の港町の想像は大いに刺激され、膨れ上がる一方であった。

「世界は広いんだよ、パドマ」

 伯父さんは知り合いから貰ったという高価な葉巻を燻らせながら、私の生家の古びた居間でよく、私の頭を撫でながら愉しそうに語って聞かせてくれたものだ。山間の鄙びた村で、野山に混じって鳥や獣と戯れたり、木の実や花々を摘み取って歩いたり、険しい谷川を渡る今にも千切れそうな縄で縛られた吊り橋を走り抜けたり、そういう長閑な暮らしの中で生まれ育った私には、広大な世界という観念がなかった。伯父さんの豊饒な物語、様々な言い伝えや見聞、それらは山村に閉じ込められて澄み切った空を眺めることしか知らなかった少年の私に、無辺の「世界」というものが存在することを、胸の沸き立つような鮮やかな歓びと共に教えてくれたのだ。

 伯父さんはまた、商館員という職業とは切っても切り離し得ない「ツバメ」と呼ばれる屈強な人々に就いても私に語って聞かせた。彼らは船や馬車、鉄道などに同乗して商会の積荷を警護するのが役目の人々で、刀や鑓や弓矢を持ち、強奪を狙う悪党どもと命を懸けて戦うことで、高い報酬と名声を得ている崇高な勇士たちであった。船舶へ乗り込むのは「ツバメ」で、荷馬車などに附き添っていく者は「ハヤブサ」と呼ばれた。何れも俊敏な脚力と鍛え抜かれた腕力だけを頼りに、治安の悪い地域を生き延びていく猛者揃いである。商館員である以上、彼ら「ツバメ」や「ハヤブサ」との信頼関係は非常に重要な意義を帯びていた。彼らと阿吽の呼吸で繋がり合っていなければ、大事な積荷を抱えて茫漠たる曠野を往くことも、質の悪い海賊の徘徊する海原を渡ることも不可能であると言わねばならない。彼らに命を預け、様々な土地へ様々な品物を送り届け、それによって人々の幸福で豊饒な生活を支えることが、我々商館員の使命なのだ。

 今からおおよそ六年前のことになるが、私はジャルーアのコスター商会に所属する商館員として、或る重要な任務を帯びて異国の都まで旅をしたことがある。そのとき知り合い、苦楽を共にした精鋭揃いの「ツバメ」たちの記憶は今後も、私の命が役目を終え、棺に納められて母なる大地へ還るまでは、決してこの眼裏を去ることはないだろうと素直に思えるほど、濃密で生々しい情景の連なりとして魂に刻まれている。此れから私は、その貴重な想い出に就いて、皆さんに語りかけようと思っている。彼らの物語は、私だけでなく、この広大なフェレーン皇国に暮らす総ての民衆にとって興味深い一つの叙事詩であると信じているからだ。