サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二 港町ジャルーアへ流れ着くまでの前段

 それは或る晴れ渡った初夏の一日、すっかり黄ばんで端の曲がり始めた当時の日記を繙いて確かめてみたところ、精確な日付はバレマン暦三六五年五月三日、私は何時ものようにジャルーアの埠頭に程近いコスター商会の事務所へ勤めに出ていた。何時もと同じ、何の変哲もない一日の始まりで、青空は透き通るように晴れ渡って、白雲の欠片が水平線の彼方に僅かに浮かんでいる以外は、視界を遮るものさえ何一つないような素晴らしい日和であった。

 商会の書記官という仕事は、それほど魅力的な職業ではない。次から次へと押し寄せてくる請求書や納品書や契約書、その他あらゆる種類の退屈で煩雑な書類を、馬の口へ飼葉を押し込むような乱暴さで片付けていくのが使命であって、使うのは主に判子と万年筆、それに眼と指で、対外的な業務ならば大抵のことは外交員が引き受けてくれるので終日事務所の卓子に向き合って過ごすことが多い。向いている人間には向いているが、つまり余計な気配りや知恵比べなどが要らないので交渉や売り込みに不熱心な商館員には最適の職務だが、傍目から見ればこんなに陰気で気詰まりな仕事は他に考えられないだろう。私も元々はファルペイア州の山間で生まれ育った野性の出自であるから、慣れるまでは随分と気分の乗らない日々を過ごしたものの、徐々に書類仕事の多様性と奥深さに目覚めていくうちに、朝から日没まで事務所で暮らす毎日も案外居心地の悪いものではないと感じるようになっていった。

 私は商売に巧みで手際良く財産を築き上げていた伯父の支援と、人影の稀な山奥に先祖代々の傾斜した耕地と林を持っていた父親の蓄えに助けられて、十六歳のときに故郷のトレダ村を離れ、ファルペイア州南端の州都サーカンタスの寄宿学校へ通うようになった。文字の読み書きから帳簿の記入、一通りの算術、世間一般の常識(飽く迄もそれはファルペイア州の中で通用する程度の常識であったが)を学校暮らしの五年間で身に着け、無事に卒業を果たすとそのまま郷里には帰らず、サーカンタスに本店を持っていたラーヘル商会へ、伯父の伝手を頼って何とか潜り込むことに成功した。給金は安かったが幸いにも、見習いの分際で羽振りの良い先輩商館員たちの生活を妬むのは驕慢に過ぎると自分で思える程度には、私の社会的良識は熟していた。営業の尖兵である若手の外交員として雇われ、日夜靴底を磨り減らして取引先の事務所を巡礼したり、様々な船主との折衝に携わったりもしたが、いかんせん能弁とは言い難い田舎育ちの私には、それらの狡智と愛想を存分に消費するような任務は向かなかった。

 ラーヘル商会の髭面の神経質な商館長に(彼は商館員の間で「ローソク」の愛称で呼ばれていた。無論、本人には秘密である)何度も雷を落とされ、出来損ないだの何だのと罵られても、私は心の根っこが頑丈に出来ているのか(当時の私の愛称は「馬鈴薯」であった。私の場合は、面と向かってはっきり言い放たれるのが慣例であった)、大して応えなかった。その何処吹く風といった涼しげな顔色が余計に癇に障ったのだろう、私は程なくして子会社であるコスター商会への出向を言い渡され、さっさと荷物を纏めて明日の朝にはサーカンタスから消え失せろと商館長に張り倒された。口の中を切って金物臭い血の味を不快に思いながら、それでもファルペイア州最大の売上高を誇る商会の主人に逆らっては路傍の行き倒れになるのが落ちだと堪え、口答えは一切差し控えて主の言いつけの通り、速やかに荷物を纏めて雨漏りのする商会の寄宿舎を引き払った。同僚たちは新米の哀れな懲罰人事に随分と同情して、餞別の品にも色々と気を遣ってくれたが、当の本人は大して悲観もしていなかった。若い身空で次々と新天地へ盥回しにされるのも新鮮で退屈しないからいいやと前向きに開き直れるくらい、当時の私の未熟な人格は刺激というものに飢えていた。外交員に向いていないことは予てから分かっていたし、分かり切ったことを正々堂々と指摘されたのだから、寧ろ清々しいくらいの心持であった。

 ラーヘル商会の潤沢な資本に支えられたコスター商会の本店は、ファルペイア州の一つ南に位置するロヴァーミア州の州都ユジェットに置かれていた。蛇行する大河アリヤールの豊かな流れに沿って広がるユジェットの街並は、サーカンタスとは比較にならぬほど洗練されていて、ローソク商館長の嫌がらせに似た出向命令に寧ろ誠実な謝辞を述べたくなるほど、当時の私は浮足立ったものだ。東部の山岳地帯から無限に採掘される夥しい量の金銀、銅や水銀、錫、少量の石炭などがロヴァーミア州の繁栄の礎であり、コスター商会の取引の大半も、それらの鉱物資源に関わるものであった。

 生憎、嘗ての主人であるラーヘル商会のローソクから内々に文書で通達が届いていたらしく、新天地であるにも関わらずパドマ・ルヘラン商館員の交渉能力には劣等の烙印が捺されていた。コスター商会本店の鷲鼻の商館長は、敢えて実地に面談や試験を行なってから私の適性を再検討しようとはせず、ラーヘル商会の御偉方の信書を鵜呑みにして、書記官の辞令を発給した。商館長の署名が乱暴に走り書きされた令状を恭しく頂戴した私は直ぐに、コスター商会の所有する赤茶けた煉瓦造りの宿舎で荷物を解き、明日の業務に備えて酒を一献嗜んでから速やかに寝台へ潜り込んだ。