読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 四 隣国ダドリアの苦境

「ダドリアへ? 私が?」

 思わず素っ頓狂な声で返事をした私の間抜け面を、商館長は大して面白くもなさそうに眺めて頷いた。

「そうだ。君にはダドリアへ行ってもらう」

「モラドールさん。幾ら私が世間知らずだとは言っても、流石にダドリアが内乱状態であることぐらいは存じ上げてますよ」

「君の知識を見縊る積りはない。こんな話は、誰にでも持ち掛けられるものじゃない」

 商館長の飽く迄も沈着な口調に私の顔は蒼褪めた。鏡に映して確かめた訳ではないが、間違いなく血の気は引いていただろう。

「何故、選りにも選って私が? そもそも、何の為にダドリアなんかへ」

「届けたいものがある。それだけでは、納得しかねるかね?」

「納得なんか出来る訳ないじゃありませんか。私に限らず、誰だって命は惜しいですよ」

 断じて丸め込まれてはならないという不退転の決意を以て私は、商館長の誑かすような言い回しに抗い、眼を見開いて絶望の淵に踏み止まった。ダドリアだって? あの国が今、最悪の治安に苦しみ、王党派と革命派の血腥い啀み合いに疲労困憊していることぐらい、曲がりなりにも商館員の末席に連なる私だって心得ている。親から受け継いだ大切な一つだけの命を態々暗渠へ投げ捨てるような真似に、二の足を踏まない訳がないじゃないか。

 ダドリア王国は、我が親愛なる祖国フェレーン皇国の西方に位置する王制の国家で、元々はフェレーン皇国の帝室から分家した一族が築いた国である。長年、セルガータ王家の善政に恵まれて穏やかな繁栄の時代を過ごしてきたが、昨年暮れの先王の歿後に始まった後継者争いが思いのほか大きな揉め事に発展して国政は混乱を極めており、それに伴う秩序の弛緩が臣民の憤懣を煽り立てた結果、昨今ではセルガータ王家による支配の正統性を信じて疑わない保守的な王党派と、王制を廃して共和制を導入しようとする一部の貴族たちが旗揚げした急進的な革命派との間で、武力を交えた衝突が頻発していた。乱暴な諍いが日常的に巻き起こるようになれば当然のことながら人心は荒廃するし、道徳や倫理といった観念も昔日の輝きを失ってしまうのは此世の摂理であろう。無論、私たち商館員にとっても、重要な貿易の相手であったダドリアの政治的不安定化は好ましい現象ではなく、本来なら得られる筈であった巨額の利益が日毎に目減りしていく現状に切歯扼腕する者も少なくなかった。

 内乱が深刻化するに連れて家を焼かれた人が増え、ダドリアと国境を接するビアムルテ州では駆け込んでくる夥しい数の難民への対処に苦慮しているとの噂も聞こえていた。既に述べた通り、元々ダドリアはフェレーン皇国の帝室の傍系であるから、我が祖国の首脳たちも、それらの窮迫した哀れな流氓をあからさまに虐げたり見殺しにしたりする訳にはいかず、何とかしてダドリアの政府へ解決の目処を立ててもらおうと腕利きの外交官などを派遣して内乱の収拾に尽力しているとの話であったが、実際にはダドリアの平和が恢復される見込みは極めて稀薄であった。王党派は先王の長子フランタネルと末子コロディットによる熾烈な後継者争いに終止符を打つべく、愚昧な皇太子であったフランタネルの暗殺を試みたが失敗し、それが原因で猶更王党派内部の勢力争いが活発化して、革命派の急激な伸張を許す結果となってしまった。現在は毒を呑まされて死の淵を彷徨した長子フランタネルが周囲の同情票を集めて臨時に摂政の地位へ推戴されて、辛うじて国政の舵取りを担っているが、軍部の強い支持を有する末子コロディットの勢力を抑え込むのは容易ではないらしい。

 それらの詳しい情報は総て、地元で発行されているジャルーア日報という新聞の記事から拾い集めた知識を組み立てたものであった。言い換えれば、隣国ダドリアの大地を席捲している悲惨な内紛の報道は、文字を読める者なら誰でも弁えている話で、読み書きを知らない貧しい階級の人々でさえ、酒場の話題にダドリアの政情不安を選ぶ者は珍しくなかった。ジャルーアはスファーノ湾から夕映えの美しい錦繍海峡(きんしゅうかいきょう)を通じてダドリア南西の賑やかな港町エレスターと廻船で結ばれており、私たちコスター商会の収支にとっても隣国の紛争は看過し難い痛手であった。モラドール商館長がそのような現状を憂えて、売上高への深刻な打撃を少しでも緩和する為の方策を彼是と練っているという話は、私も小耳に挟んでいた。実際、商館の損益計算などにも携わる書記官にとって、そのような資金繰りに関わる不吉な噂は極めて重要な問題であり、外回りで眼の前の契約を掴み取ることばかりに夢中になっている野人めいた外交員たち以上に、危機の切実さを生々しい実感として悟らずにはいられない側面があった。

「いいかね、ルヘラン君。此れは非常に重要な密命なのだ」

 商館長は態とらしく声を潜めて身を乗り出し、囁きかけるように言った。

「フェレーン皇国としては、ダドリアの内乱を王党派の勝利に導きたいという考えだ。君も分かっているだろう? 当然のことながら、革命派が勝利すればダドリアは共和制を受け容れることになる。絶対的な君主制を信奉するフェレーンの歴史的正統性に疑問符を突き付けるような真似は、断じて控えてもらわねばならん」

「それは勿論分かりますが」

 我らの親愛なるフェレノ王家が隣国ダドリアの共和制移行を危惧するのは自然な感情であるが、それと私のダドリア行きという驚嘆すべき無謀な命令との間に如何なる繋がりが存在するのか、そのときの私の混乱し切った脳味噌の力では、老獪な商館長閣下の陰謀を解き明かすことは不可能に等しかった。