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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 八 書記課長ジーレム・アステル氏による面談

創作「ツバメたちの黄昏」

 商館長の呼び出しを受けた日の夕刻、日の暮れかかった薄暗い事務室で鞄に荷物を纏めている最中に、再び不吉な呼び出しが掛かって、私は暗澹たる気分で背筋を伸ばした。同僚たちは三々五々、仕事終わりの一杯を傾けようと最近流行りの呑み屋へ繰り出す算段を論じるのに忙しそうであったが、取り残される羽目に陥った私の心境を流石に慮ってやろうという気分になったのか、日頃は囂しいほどの軽口も控えて、声を潜めて商館を出ていった。

 弱々しい灯りの燈った廊下を歩きながら、私は緊張の余り劇しい喉の渇きに苦しめられていた。此度の召集の主は、次期商館長候補の呼び声も高いジーレム・アステル首席書記官である。今日の午後は一度も事務室へ姿を見せることのなかった書記課長から応接室へ招かれて以来、心臓の不吉な高鳴りは一度も止むことがなかった。

 アステル氏は生まれついての書記官という訳ではない。若年の頃は腕利きの外交員として鳴らし、一時期は「運び屋」と呼ばれる輸送課員として働いていたこともある。法律や財務の知識も豊富で、物静かだが精悍な面差しと引き締まった頑丈な体躯で周囲の信頼も篤い。コスター商会の飼い主であるラーヘル商会へ出向して、ジャルーアから遥か東方へ一二〇〇里離れたフェレーン皇国の皇都テレス・フェリンカの支店へ勤めたこともあったという生粋の有望株である。出向を終えてジャルーアへ帰還すると直ぐに首席書記官へ昇進して書記課長を拝命して以来、その地位は盤石極まりない状態を堅持している。

 だが、そのような騒々しいほどに輝かしい肩書を頭に刻めば刻むほど、緊張が高ぶっていくことは如何ともしがたく、年季の入った応接室の扉を小刻みに顫える手の甲で叩いて直ぐに「入りなさい」という落ち着いた応えがあった瞬間には、知らぬ間に失禁していないかと己の理性を疑って股座へ手を伸ばして確かめたほどであった。

「掛けたまえ」

 落ち着き払った声音で勧められ、革張りの椅子へ腰を下ろすと、アステル書記課長は私の顔をじっと見凝めて暫くの間、険しい表情を浮かべたまま動かなかった。此方としては堪ったものではない息苦しい対応であり、滲み始める冷汗をどうすることも出来ない。綺麗に撫でつけられた黒髪、鋭く吊り上がった眦、商館長の脂ぎった巨体とは対蹠的に引き締まった牡鹿のような四肢。書記課長という事務職へ転じてから既に十年近く経つというのに、四十代半ばの肉体は逞しい隆起を端々に窺わせて現役の輸送課員のように鍛え抜かれた状態を保っている。

「そんなに緊張する必要はない。商館長から仔細は聞かされたんだろう?」

 書記課長専属の秘書であり、涼やかな美貌で評判の高いシアナ・エルミアン嬢が湯気の立つ珈琲を盆に載せて運んできた。情けないほど震え上がり強張っている私の横顔をちらりと確かめてから物も言わずに立ち去っていく。引き締まった尻の輪郭が衣服を通して浮き上がるように見える。全く、こんなときでも劣情というのは涼しい顔で平常運転をするのだから馬鹿馬鹿しい。

「君にはダドリアまでの弾薬輸送計画に、実務責任者として関わってもらう。詳細は明日の午後に館内で打ち合わせをするときに話す積りだ。顔合わせを兼ねて、具体的な項目を確認する」

「もうそこまで話は具体化しているんですか」

 若しかしたら何かの間違いかも知れないという私の手前勝手な一縷の希望は、真剣極まりない書記課長の冷淡な反応に忽ち握り潰されて露と消えた。

「無論だ。此れは州侯殿下からの御要望だからな」

「州侯殿下?」

「大物が関わっているということさ。商館長から聞かされただろうが、今回の計画は我がコスター商会へ課せられた王家の勅命だ。のんびりと計画を練っている暇はない。ダドリアの政情は、刻々と悪化しつつある」

 州侯殿下。その言葉の含意を舌先で転がすうちに、私の絶望は更なる深化を瞬く間に遂げた。我が祖国フェレーンは、十二の州と二つの天領(王家直轄の版図)で構成されており、州を統治する最高責任者に当たるのが、王家の血を引いた州侯の一族である。ジャルーアの属するスファーナレア州は、フェレノ王家の分家であるソタルミア家の人々によって支配されており、その当主である州侯の地位には現在、三十九歳という異例の若さでアウェレイト・ソタルミア卿が君臨していた。

「君も知っているだろうが、ソタルミア卿は非常に若く情熱的で、他人の不幸や窮迫を捨て置けない慈悲深い御方だ」

 書記課長は眉間に底知れぬ海溝のような皺を寄せて、淡々とした口調で言葉を紡いだ。本当に思っているのかどうか怪しい讃嘆の科白に、背筋を嫌な汗が伝っていく。

「殿下は此度のダドリアの政治的混乱に深く心を痛めておられる。セルガータ王家は、ソタルミア家にとっても遠縁の親戚だ。その窮境を放置することなど出来ないと奮起され、州内の商会に弾薬輸送の大号令を発せられたのだ」

「ですから、その監督官に何故私のような素人が迎えられるのですか」

 背後の事情など、私のように地位の低い人間の関知すべき事柄には到底思えなかった。何より重要なのは私自身の命運であり、ダドリアの治安の劣化具合なのだ。

「治安は悪い。それは無論だ。ダドリアは建国以来、未曽有の危機に瀕している」

 恐ろしく不吉な内容の言葉を、書記課長は絹のように滑らかな口跡で辿ってみせた。

「いいかい、パドマ。君は選ばれたんだ。州侯殿下によって」

「州侯殿下によって?」

「そうだ」

 書記課長は愚かな道化のように何度も同じ科白を繰り返した。

「君は選ばれたんだ、パドマ。アウェレイト・ソタルミア卿直々に、君を御指名なのだ」

 意味が分からないよと呟いて私は天井を仰ぎ、心の底から嘆息せざるを得なかった。