読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十 高慢と偏見

創作「ツバメたちの黄昏」

 翌日の午後、商館長の部屋で州侯殿下御下命の大仕事の打ち合わせが行なわれることになり、私は夜明け前に眼が覚めてしまうほどの緊張を強いられながら、辛うじて己の心を奮い立たせて定刻の午前八時に事務室へ出勤した。

 私の暗鬱な心境を物語るように当日は明け方から鬱陶しい氷雨が降り、五月の陽気は何処へ消え去ったのか、賑やかな港町ジャルーアの埠頭から望むスファーノ湾の穏和な眺望も、辛気臭い靄に包まれて見通しは最悪だった。私自身の未来も暗鬱な悲観しか望めないような靄に包まれて、どうなることか全く分からない有様だ。灰色の上衣の袖口を濡らした雨粒の染みを手巾で念入りに擦っていると、例の如く私の敬愛する(無論、字義通りに受け取ってもらっては困る)一等書記官メリスタン・トリファー氏が、口許へ不吉な薄笑いを塗りたくって近付いてきた。

「おはよう、パドマ。顔色が悪いじゃないか。午後の打ち合わせの準備は万端かね」

「厭味なことを言わないで下さいよ。準備も何もありません。こっちとしては、寝耳に水なんですから」

 気分の晴れようもない憂鬱な長雨の朝に顔を合わせるには最悪の相手に絡まれて、私は口を開くことさえ億劫な心境であったが、先輩格の一等書記官を露骨に邪険な態度で扱うのは流石に気が退けた。

「厭味の一つも言いたくなるさ。何でも、州侯殿下は直々にお前を監督官に宛てろと御指名だそうじゃないか」

 何でそんなことをあんたが知ってるんだと問い詰めかけて直ぐに、事務所の隅々に行き渡る不穏な気配に総身を刺されて、私は反射的に口を噤んで息を呑んだ。明らかに敵対的な眼差しが方々から孤独な私の顔へ突き刺さってくる。一体、どういうことなのだ? 先日までの陽気な揶揄も然り気ない配慮も世界の涯へ吹き飛んでしまったかのように、誰もが冷たく白々とした表情で、遠巻きに私たちの遣り取りを眺めていた。

「どんな絡繰を使ったのか知らないが、大層な御身分だな。州侯殿下の御依頼なら、書記官の仕事なんか打っ棄ってでもダドリアへ急ぎたいよなあ」

「何を言ってるんですか、トリファーさん。私が心の底から困惑しているのは御存知でしょう?」

「知らないね。単なる厄介事の標的にされたのかと案じていたら、実は州侯殿下直々の御下命だなんて、率直に言って裏切られた気分だね」

 普段にも況して刺々しい毒気を含んだ先輩の物言いに、私の頭は深刻な混乱へ陥った。此処数日、溜息の出るような出来事ばかりが続くのは何の因果だろうか。私は何時もと同じように生きて、何時もと同じようなことを考えて暢気に過ごしていた筈だ。特別な野心も、崇高な使命感も持たずに、沙漠のように平板極まりない日常の連鎖に呑み込まれて、最早何処に出口があるのか探し出す気力さえ失っていたというのに、突然こんな大袈裟な事件の主人公へ抜擢されるなんて、神々の悪戯を告発してやりたいぐらいだ。

「トリファーさん、何か勘違いしておられるんじゃないですか」

「此れは此れは勘違いと来たか。全く畏れ入るね。州侯殿下に取り入るくらいの策士なら、俺みたいな凡人を欺くのも簡単過ぎて欠伸が出るだろう」

 悪役が得意な俳優のように大袈裟で露悪的な演技を周りへ見せつけながら、メリスタンは不意に私の耳許へ顔を近付けて陰気な迫力の籠った声で囁いた。

「どうなってるんだよ。ルヘラン商会の権威は、ソタルミア卿の宸襟さえも誑かしちまうほど強力なのか」

「何を仰りたいのか量りかねますが、穿った憶測は止して下さい」

 雰囲気と断片的な発言から、私は彼らの悪意の源が那辺に存在するのかを薄らと把握し始めた。内乱に揺れ動く隣国ダドリアへ軍需品を運送するという剣呑な任務に、あられもなく怯え切って尻込みを重ねるばかりの体たらくは、万人に妥当する所作という訳ではないらしい。同僚たちの中には、今回の密命を凡そ類例のない栄達の好機と捉えている者も混じっているようだ。彼らにとっては、書記課事務室の中で最下層の部類に属する冴えないパドマ・ルヘランの頼りない掌に、そのような前代未聞の絶好機が転がり込むだなんて、あってはならない神々の采配のように見えるのかも知れない。たとえ私が困惑と懊悩に苦しめられていたとしても、嫉妬に塗れた瞳にはそんなもの、単なる厭味ったらしい猿芝居としか映らないだろう。

「私としては、こんな密命は返品してしまいたいくらいなんです」

 懸命に言い募っても、メリスタンの栗鼠のように軽快に動き回る二つの瞳は、私の表情の裏側に隠された「幸福な本音」を抉り出すことにしか関心がないらしく、心の底からの困惑という言い分さえ、同僚の嫉視を逃れる為の社交辞令としか思っていない様子だった。

「お前は、飽く迄もそうやって俺たちを遠ざけようという魂胆なのか」

 酔っ払った無頼漢のように荒んだ声音で禍々しい呪いの言葉を紡ぎ出すメリスタンから顔を背けたそのとき、事務室の扉が開いて、仕立ての良い薄手の外套を着込んだ書記課の英雄ジーレム・アステル氏が姿を現し、きびきびとした足取りで壁際の通路を歩きながら、不穏な空気を漂わせる私とメリスタンに鋭い視線を走らせた。

「どうした、何か問題でも起きたのか」

「いいえ何も。問題など起こりようがありません、アステル課長」

 直ちに威儀を正して謹直な部下の物腰を装ってみせるメリスタンの変わり身の鮮やかさに、私は内心で舌打ちを禁じ得なかった。