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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十四 旅立つ者の決意

 打ち合わせは日没を過ぎて漸く区切りを迎え、すっかり疲れ果てた私は重たい躰を引き摺るように事務室へ戻った。同僚たちは土気色の顔を携えて現れた私に冷淡な眼差しを向けたものの、朝方のような露骨な敵意を叩きつけようとはしなかった。厭味な先輩メリスタン・トリファーも私のことを幽霊でも見るような眼つきで睨み据えただけで、得意の毒舌は却って不気味なほどに影を潜めていた。

 こういうとき、商館付属の寄宿舎暮らしという境遇は肩身が狭くて遣る瀬ない。否が応でも同僚たちと面を突き合わせて暮らさねばならないというのは、単なる仕事上の付き合いを越えた強靭な紐帯を取り結ぶには適した生活環境だが、自分の評判が下がっているときには単に息苦しさが募るだけで、何の利益もない。彼らが帰りの仕度を済ませて姿を消した後も、私はがらんとした薄暗い書記課事務室の中で、底知れぬ寂寥に脳天まで浸かったまま立ち上がれずにいた。群青の闇が窓の外を覆い、夜空に星屑が疎らに煌き始めても、寄宿舎へ戻る決意は固まる兆しもない。憂鬱な妄想ばかりが頭の中で膨らんで、どんな愉快な考えも枯れ果ててしまう。改めて振り返ってみれば、私の置かれている境遇の果てしない不幸、呪わしさは類例のないものだ。慣れ親しんだ環境から切り離され、知り合いも誰もいない異国の土地へ、血腥い戦争の道具を運ぶ為に様々な労苦を堪え忍ばねばならないのだ。しかもそれは、私自身の希望に基づいた選択ではなかった。

 腑抜けのようにだらしなく全身の力を抜いて椅子に凭れ、抽斗から取り出した葉巻の尖端を燐寸(まっち)で炙っていると、静寂に満ちた事務室の扉が耳障りに軋んで、私は夢から醒めたように虚ろな視線を転じた。誰かが忘れ物を取りに戻ったのかと思ったが、それは的外れな推測で、開け放たれた戸口には、痩せたヒグマの剥製のように傲然と佇むクラム・バエット小隊長の姿があった。

「無断で御邪魔してしまって申し訳ない」

 大して申し訳なさそうにも見えない無愛想な顔つきで言いながら、バエットは私の席へ真直ぐに歩み寄ってきた。

「ルヘランさん。貴方とは此れから力を合わせて、艱難を克服していかねばならない」

 出し抜けに軍隊風の堅苦しい決意を示されて当惑しながらも、私は葉巻を指に挟んだまま深く頷いてみせた。

「勿論、分かっている積りです」

「我々『ツバメ』は、商館員の皆さんの命と、大事な積荷を預かる立場だ」

 急に何を言い出すのか、その発言の真意が何なのか、私の困惑は一層深まり、それでもバエットは異様な確信に満ちた力強い口調で喋ることを止めなかった。間近で見る彼の顔立ちは彫りが深く端整で、苛酷な生活に慣れた者に固有の鋼鉄のような威厳が、その逞しい鼻梁や深く澄んだ藍色の瞳には漲っていた。

「だから、改めて確認しておきたいと思う」

「何をですか?」

「貴方の決心の固さです。目的を遂げる為なら如何なる手段も選ばない、そういう崇高な情熱を、貴方は持っていますか」

 純粋な眼差しを向けられて、私は返すべき言葉を見失い、その奇妙な問い掛けの科白を頭の中で何度も確かめるように反芻した。決心の固さ? 昨日の今日で、そんな堅固な情熱が養われる筈がないじゃないか。そう言い返したくなるが、差し向けられる視線の純粋な輝き、無垢とさえ思える混じり気のない真直ぐな眼光に気圧されて、そんな惰弱な科白は口に出せなかった。そもそも彼はコスター商会にとって部外者であり、監督官に抜擢されたパドマ・ルヘラン三等書記官が事務所の中でどういう位置を占めているかということも全く理解していないのだ。ソタルミア州侯家の勅令に応じて差し出された生贄が、何の取り柄も意気地もない盆暗だとは、まさか思わないだろう。

「私は、怯えています」

「怯えている?」

「ええ。私には到底熟しようのない重大な役目です。無事に遣り遂げられる自信は、恥ずかしながらありません」

 率直な告白を選んだのは、彼の眼差しの目映さの前ではどんな虚勢も見透かされるような気がしたからだった。背の高いバエットは机の傍に佇んだまま、峻険な高峰の頂から見下ろすような迫力で、私の顔を見凝めて言葉を選んだ。

「成程。そうですか」

 失望した訳でもなさそうな、温度の低い反応だった。怒りを買ったのではないかと怯えたが、バエットの顔色は激情に駆られたようには見えず、いきなり凶悪な鉄拳が飛んでくることもなかった。

「私も同じ気持ちです、監督官」

 長い沈黙の後で紡ぎ出された意想外の告白に、私は不意を衝かれて返答しそびれた。

「既に申し上げた通り、私は護送団の異端児と煙たがられています。今回の任務も、要するに面倒な任務を押し付けられたに過ぎません」

「けれど、大役には違いないでしょう」

「州侯家からの勅命は、コスター商会だけに下された訳ではありませんよ、ルヘランさん。殆どの商会に、ソタルミア卿の詔書は届けられています。我々州立護送団は、それら総ての商会との間に警護輸送契約を結んでいるのです」

「ということは」

「ええ。失礼な言い方ですが、私は外れ籤を掴まされたということです。無論、貴方にとっても、私は外れ籤なんですがね」

 予測されたことだとはいえ、バエットの痛切な告白は私の魂にも浅からぬ傷口を花開かせた。要するに落ち零れ同士の婚姻ということだ。私たちが選ばれた理由は、決して前向きで積極的なものではない。誰かが引き受けなければならないものを、他に引き受け手のいない人々の肩へ力尽くで背負い込ませたということなのだ。

「ですが、私は悲観していませんよ、ルヘランさん」

 バエットの瞳には本人の言葉通り、陰気な絶望とは正反対の炯々たる輝きが宿っていた。

「見返してやるには、最高の機会だと思っています。だから、貴方に訊ねたんです。崇高な情熱。それがなければ、この任務は決して成し遂げられない」

 今まで感じたことのない新鮮な感情が躰の奥底から湧き上がってくるのを、私は黙って受け止めながら、深く頷いて彼の双眸を見凝め返した。