サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十五 国境の街ヘルガンタ、ビアムルテ州

 そして瞬く間に出立の日は近付き、日頃の様々な雑役から解放された私は、その代わりに「ツバメたちの黄昏」と名付けられたダドリアへの弾薬輸送の密命に関する諸々の準備に忙殺されて、這々の体で旅立ちの当日を迎えた。

 書記課事務室の同僚たちは相変わらず本来の業務を離れて無闇に忙しそうに立ち働いている私の姿を遠巻きに眺めていたが、殊更に揶揄や陰口を叩いてきたりはしなかった。いや、陰口は何処かで散々叩かれていたのかも知れないが、少なくとも私の耳には入って来なかったし、そもそも私自身、不慣れな計画の準備に追われて周囲の眼差しを気に病んでいるような余裕もなかったのだ。

 輸送課員や州立護送団のツバメたちも負けず劣らず多忙であったに違いないが、当時の私は本当に眼の回るような忙しさであった。監督官として隣国ダドリアへの輸送を実施する為に整えなければならない書類は無数にあった。何しろ、州軍から受け取った禍々しい弾薬を政情不安の異国へ運び込むのだから、どんな些細な事柄にも「特例」が付き纏う。農作物や鉱石を運び入れるのだって、相手が異国の住人であり異国の土地である場合には、通関の為に夥しい数の書類を用意せねばならないのだから、積荷が武器弾薬の類であっては猶更時間も手間も掛かるのだ。そして基本的に国内貿易よりも海外貿易の方が取り扱う書類の量は多く、外国の言語にも法律の知識にも通暁せねばならず、色々な面で難易度が高いので、冴えない三等書記官の汚名を着せられていた私に過去、そのような海外貿易業務の類が委ねられたことは殆ど皆無に等しかった。だから、書記課長のアステル氏直々の手解きを受けつつ、足りない知識と乏しい経験と回らない脳味噌を残虐なほどに酷使して、出立までの限られた期日の間に総ての準備を完了させるには、昼も夜もない尋常ならざる勤勉な精神が必要であったのだ。

 監督官という仕事は要するに、或る商品輸送契約の総てを管理して取り仕切る中軸的な役割を担うということであり、幾らツバメや運び屋の連中が熟練の玄人であったとしても立場上は、私が彼らの指揮官であり上長であるということになる。契約書や納品書の起草から道中の食糧品の手配など、あらゆる種類の雑務も監督官の掌中に押し付けられることになる。本来であれば、此れほどの業務には助手の一人や二人宛がってくれたってよさそうなものだが、いかんせん私たちは「外れ籤」の面々であり、書記課の同僚たちは誰も積極的に私たちの苦境へ関わろうとはしなかった。迂闊に近づいて忠告やら手伝いやらに軽率にも手を染めてしまえば、そのまま書記課長の一存で苦難に満ちた弾薬輸送計画の人員に取り込まれてしまうかも知れない。しかも誰も、下っ端の三等書記官であるパドマ・ルヘランの助手などという不名誉な役回りを任されることを光栄だとは思わないから、恐らくは水面下の交渉も悉く失敗に終わったに違いない。

 結局、宛がわれたのは今年の春に入社したばかりの初等書記官、つまり右も左も分からない新米のエレファン・ポルジャー君だけで、一応は商務学校卒だから基本的な帳簿の記入などは心得ているものの、兎に角圧倒的に実務経験が足りなくて段取りが悪いし、余り気が利くとも言えない。唯でさえ苛酷で不慣れな任務に埋没しているというのに、商館の御偉方は新人の実戦訓練までも私の痩せて骨張った双肩に背負い込ませたのである。それが煮ても焼いても食えないと評判のモラドール商館長の意向なのか、絶えず部下に高度な要求を突きつけることで腕を磨かせようとするアステル書記課長の粗野な方針の結果なのか、上層部の肚の底を探っている余裕もないほどに、私は追い詰められて、体重もすっかり減ってしまったほどであった。

 そしてバレマン暦三六五年五月一二日の晴れ渡った早朝、辛うじて一通りの仕度を終えた私たち「ツバメたちの黄昏」御一行様は、商館長閣下の有難い訓示を受けた後、西方の国境地帯に位置するビアムルテ州ヘルガンタという街へ向けて、商館員たちの賑やかな歓呼に見送られながら出発した。

 ビアムルテ州は既に述べた通り、隣国ダドリアに接する西の最果ての土地で、交易の要衝であるからそれなりに栄えてはいるが、目立った産業がある訳でもない。ダドリアのセルガータ王家は我が国の王室と遠縁の親戚であり、相互に不可侵の約定もしていることから、血腥い揉め事が起きる見込みは本来小さいのだが、それでも国境の警護は官軍にとって重要な任務であることに変わりはなく、ビアムルテ州もその恩恵を享けて軍需産業での稼ぎは相応に大きかった。比較的乾燥した土地柄なので、火麦と呼ばれる地味に乏しい痩せ衰えた土壌でも強靭に育つ種類の穀物を育てている農家が多い。最近はダドリアからの難民の流入に悩まされている所為で、哀れな流氓の空腹を満たす為に州軍による火麦の徴発が相次いでおり、同盟国の存亡の危機という大義名分を楯に安値で買い叩かれるものだから、内乱とは無関係な地元の農民たちの生計にも陰翳が投じられているという。

 スファーナレア州からビアムルテ州へ陸路で行くのは、途中を遮る山脈地帯が目障りなので余り合理的な選択肢とは言えず、私たちは話し合いの結果、満場一致でジャルーアの港から海路で旅立つことに決めていた。本来ならば、スファーノ湾から錦繍海峡を伝ってダドリア南西部の沿海州の港町へ直接乗り入れたいところだが、積荷が積荷なので通常の交易と同じ手順を踏む訳にはいかない。一旦、錦繍海峡に面した自国の都市ヘルガンタに停泊して、通関の交渉を行なう段取りとなっていた。

「ダドリアの沿海州は今、一番危険なところです」

 埠頭へ向かって歩きながら、小隊長のバエットは険しい表情で言った。

「陸軍派や共和派の連中も馬鹿じゃありません。王党派を支援する為にフェレーンが何らかの手を打ってくることは読み切っています。いきなりエレスターやリトピアへ乗り込むのは、見す見す生命を溝へ投げ捨てるようなものですよ」

 そんな剣呑極まりない土地へ此れから乗り込まねばならない己の暗澹たる前途に恨めしい気持ちを懐きつつ、私は肩を竦めて「それは恐ろしいですね」と答えるのが精一杯だった。