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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十六 海神様の御光臨

 初夏の空は透き通る瑠璃で造った天蓋のように美しく晴れ渡り、降り注ぐ光は私たち商船員の心に明朗な希望を射し込んでいた。安閑とは言い難い不吉な航海へ乗り出す私たちにとって、その壮麗な青天白日の海原の風景は、間違いなく心の支えであり、癒しと安らぎに満ちた祝福の光景であった。

 スファーノ湾は長く逞しい腕のように伸びた二つの岬に囲まれ、外洋の荒々しい波濤を寄せ付けぬ心強さで知られており、御蔭でジャルーアの面前に広がる豊かな入り江は、船乗りたちにとって快い揺籃のような役目を担っていた。そして、スファーノ湾の内海を出て西方へ舵を切れば、ウェルゲリア大陸と南方のラカテリア亜大陸から突き出した半島に挟まれた錦繍海峡へ通じる。ラカテリアの東北部はフェレーンと数百年来の同盟を結んでいるイルセリナス連合王国の所領であるから、両国の狭間を貫く幅の広い水道は安寧が確保されており、私たち商船員もとりあえずは落ち着いて航行に専念することが出来た。

 壮麗な夕映えの眺望で知られる穏やかな錦繍海峡には大小様々の島嶼が浮かんでおり、それらの多くはフェレーンの領土だが、住んでいる人々は皇国の大多数を占めるファンカス人とは限らず、南方のラカテリアから徒党を組んで移り住んできたラカール人や、ダドリア以西に夥しい数が居住するダルラテン人などが混在している。フェレーンとイルセリナスの同盟によって血腥い係争が持ち上がる懸念は排除されているとはいえ、島嶼地域の中には官憲の眼が行き届かぬ孤島の類も少なからず混ざり込んでおり、それらの暗がりに息を潜めて根城を構えた貧しい連中、或いは政治的な意味で危険な連中が、血に飢えた海賊の真似事に乗り出す事例も皆無ではない。だから間違いなく安全が確保され、多くの船乗りが長い船旅の中で例外的に安穏な感情を躊躇いなく味わい得る錦繍海峡の旅程にあっても、用心深い私たちは常時哨戒の係員を定め、不意の襲撃に備えることを忘れなかった。何しろ我々が運んでいる積荷は、コスター商会の長い歴史の中でも類例を見ない重大で剣呑な代物であり、万一それを誰かに奪われるようなことがあれば、現場の最前線で働く私たちだけでなく、コスター商会全体も、今回の業務に警護の務めを負って随行しているファルペイア州立護送団の名誉さえも、忽ち打ち砕かれて哀れな残骸と化す虞があるのだ。

 護送小隊を束ねるバエットも、穏やかな船旅の間、殆どの時間を輸送船の甲板へ出て過ごしていた。猛禽のように鋭い瞳を見開いて舳と艫の間を何度も定期的に往来し、舷側から身を乗り出して紺碧の海原へ警戒の視線を送り続ける。潮風を吸い込むように一杯に広がった生成色の丈夫な帆の間で、船檣(せんしょう)の頂に据え付けられた台座から四方を睥睨している哨戒の係員が信用ならないのか、彼はその個人的な警戒の業務を断じて辞めようとはしなかった。監督官の私は、船が順調に帆走を続けている間は特に遣るべきこともなく手持無沙汰なので、同じように甲板へ上がりながら、バエットの入念な警戒の様子を何となく眺めていた。或る時、恐らく肌寒くなり始めた夕刻のことであったと思うが、食事の呼び掛けにも応えず猶も哨戒を中断しようとしないバエットの頑迷な態度が心配になって、私は船室を出て彼に話し掛けに出向いた。

「バエットさん。夕食の時間ですよ。きちんと召し上がらないと、躰に障るんじゃないですか」

 私の呼び掛けは後方へ素早く流れ去っていく冷たい潮風に呑み込まれたのか、バエットは舳に佇んで前方を睨み据えたまま、振り向きもしなかった。

「何をそんなに警戒しておられるんです」

 痺れを切らして無遠慮に彼の背後へ歩み寄り、彼と同じ世界を眺めようと私は船縁へ手を突いて海面を覗き込んだ。日が翳り始めて、昼間は澄明な紺碧に輝いていた水面も、この時刻を迎えると内側に夜陰の欠片を孕んだかのように暗く濁り始めているように見えた。バエットは私の顔を見ようともせず、その荒んだ色調の海面へ視線を落としたまま、静かに答えた。

「この辺りの海域は、ベルトリナスの棲息区域なんですよ」

「ベルトリナス?」

「この辺りの海民たちは『海神様』と呼び習わして崇敬していますがね」

 聞き覚えのない単語に戸惑う私の度し難い無知に、バエットは不満を示そうとはしなかった。私が右も左も分からない海外輸送の素人であることは既に、見抜かれてしまっているのだろう。

「要するに海洋性の肉食獣ですよ。逞しく獰猛な種類になると、船底を齧って商船の乗員を腹一杯貪り尽くそうと企てる場合もあるのでね。錦繍海峡は確かに穏やかな海域ですが、死人がいない訳ではないのです」

 今になって振り返れば、当時の私が如何に無知で愚鈍であったか、沁々と思い知ることが出来る。それを若さとか無垢とかいう言葉で彩りたくなるのは、年月を経る毎に積み重なっていく記憶の重量と奥行きが、私の精神に老衰の痕跡を刻むからであろうか。夕映えが美しいという以外に、穏和な錦繍海峡に関して特段の知識も印象も持ち合わせていなかった私の耳に、その「ベルトリナス」という独特の単語は不可解な音波の連なりでしかなかった。

「人を食べるんですか、そいつは」

「私たちだって牛でも豚でも熊でも食べるでしょう?」

 バエットは実に退屈そうな表情で、困惑する私の頼りない臆病な反応に無機質な一瞥を投げた。

「ほら、あの黒い影なんか怪しいと思いませんか?」

 バエットの指先が示す方角へ懸命に眼を凝らしても、傾き始めた西日の片鱗を浴びて黒々と泡立っている濁流のようなものしか、私は捉えることが出来なかった。

「分かりません、私には」

 そのとき、不意に船底から鈍器で殴られたような音響が聞こえ、甲板がいきなり波打つように撥ね上がった。私は慌てて船縁の手摺へ掴まって両脚を踏ん張りながら、蒼褪めた顔でバエットに縋るような視線を送った。

「ほら、御覧なさい」

 寧ろ快活なほどの晴れやかな笑顔で答えながら、バエットは蹌めく私に茶目っ気を含んだ目配せを投げてみせた。

「あんまり長閑な船路じゃ御互い退屈でしょう。護送小隊の連中を船室から呼んできて下さい。暢気に舌鼓を打っている場合じゃないと、怒鳴ってやるのがいいでしょう」