サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「答えは既に出ている」という幻想 / 「古典主義」というイデオロギーの退嬰性について 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日は何だか堅苦しい表題の下に徒然と言葉を書き連ねようと思います。

 物々しいタイトルなので敬遠されるかもしれませんが、中には物好きな方もいらっしゃって、興味を惹かれるかも分かりません。そうでなくとも、少なくともこのブログの肥やしにはなりますし、私自身の頭の中身を整理する役には立つことでしょう。

 この記事の材料は下記の通り。

①近年、益々活発な動きを示しつつある「イスラム原理主義

②「学生」と「社会人」の差異

儒教的な「古典主義」の理想

④アメリカ南部に根強いキリスト教右派の閉鎖性

 それでは、参ります。

 

 イスラム原理主義と呼ばれる思想的潮流の精確な系譜や足跡に関して、私は何も知らないに等しい人間ですが、例えば今、シリアを中心に暴力的な営為を堆く積み上げつつあるIS(Islamic State)や、かつてニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機を突っ込ませるという前代未聞の衝撃的なテロリズムを敢行したアルカイダなど、イスラム原理主義に立脚した過激派組織の人々が、シャリーアと呼ばれるイスラム固有の律法に基づいた国家の統治を企図しているらしいことは、様々な報道に接する限りでは概ね確かな観測結果であるかと思います。彼らのイスラム教に対する熱烈な信仰が何に由来するのかは知りませんが、それが必然的に西欧の社会的構造との対立を孕むものであることは言うまでもありません。但し、この記事で論じられるべき問題は、イスラムそのものに存している訳ではないので御注意下さい。私が書きたいのは、過激なムジャヒディンたちの闘争の是非についてなどではなく、彼らの急進的な思想を指し示す「原理主義(fundamentalism)」という概念についてなのです。

 この「原理主義」という用語は元々キリスト教の右派に由来するものであるらしいのですが、現在では宗教の垣根を越えてラディカルなイスラム主義にも頻繁に適用されています。その精密な定義は、この単語が極めて広範な分野に流通しているにもかかわらず、未だ一律的な合意には達していないようです。従いまして、この記事で用いられる「原理主義」という単語の語釈は、私の主観的な曲解に基づいていることを予め附言しておきます。

 イスラム原理主義に関して言えば、それは預言者ムハンマドを通じて唯一神アッラーから授けられた啓示を纏めた「クルアーン」と、ムハンマドの言行を記録した「ハディース」の内容を絶対視し、それを普遍的な基準として護持し、社会や国家の設計に適用しようとする急進的な思想であると、私は解釈しています。それら「クルアーン」や「ハディース」という聖典法源を有するシャリーアは無論、イスラム世界の長大な歴史的蓄積の産物であり、従ってそれは西欧的な価値観とも、日本的な価値観とも異質な「哲学」に貫かれています。それ自体の内容の是非を論じることは、私の手に余る労役ですから遠慮しておきますが、問題なのは、その思想が根本的に備えている「古典主義的な幻想」です。

 簡単に言い換えてしまえば、それは「答えは既に出ている」という命題で示されるべき「幻想」のことです。これだけでは意味不明だと思いますので補足しますと、進取的な成長主義とは根本的に背馳する「古典回帰」の幻想が、原理主義的な人々の価値観を支える礎石であるということです。あれ? 何だか益々訳が分からなくなってきましたね。

 例えば「暗黒の中世」の後、ヨーロッパはルネサンス(フランス語で「再生」「復活」を意味する)の時代を迎え、ギリシャ・ローマ時代の古典文化の再発見に向かいました。その根本に「古き良き時代への憧憬」が横たわっていることは確実でしょう。それは言い換えるなら「理想を古代に投射する」考え方であり、眼前の現実を「失楽園Paradise Lost)」として捉えるということです。「失われた時代にこそ、理想とすべき世界があった。だから、そこへ回帰せねばならない」という反動形成めいた価値観の勃興は、現実の苛酷さによって惹起され、強化されるのだと思います。現代の中東を席巻するファンダメンタルなイスラム主義も、現実に対する根強い不満を背景として、膨れ上がっている筈です。

 春秋戦国時代の中国においても、孔子は滅亡に瀕した周王朝の統治を「理想化」し、復古主義的な考えに基づいて、諸国を遊説して回りました。群雄割拠の戦乱に覆われた社会の荒廃に対する悲嘆や憤激が、その動機を支える根本的な要素だったのではないかと、私は考えます。ここにも「古代」を「理想化する」タイプの価値観が深々と根を張っています。「理想は過去において実現されていた」という信仰は、例えば近代的な「進歩史観」とは根本的に対立する思想であると言えます。過去数十年間、私たちの国は「右肩上がりの成長」を信じ、科学技術の発達によって益々豊かになっていく「未来」を信じてきました。その無際限な成長という展望が、経済の深刻な停滞や物質的幸福の飽和などによって揺さ振られ、土台を掘り崩されつつある今、どうにもならない現実を前に「復古的な理想主義」が萌芽し、興隆し始めるのは構造的な必然であると言えるかも知れません。

 このような「復古的理想主義」を要約して、私は「古典主義」という言葉を使いたいと思います。「古典主義」は文字通り「古典古代への憧憬」を含み、私たちの目指すべき理想的な社会は「既に過去において実現されていた」という思惟の経路を辿ります。「3丁目の夕日」みたいに貧しさの中で肩を寄せ合って生きていた敗戦後の「昭和」に憧れるのも、「失われてしまった理想を過去に見出す」という古典主義的な「思想の構文」の典型であると言えるでしょう。古典主義的なイデオロギーの下では、理想的な状態を「過去」に想定する為に、進歩史観とは正反対のいわば「退嬰史観」が大手を振って横行することになります。無論、これは「理想を未来に求める進歩史観」と対を成す考え方である訳ですが、このような「退嬰史観」を原理的且つ急進的に突き詰めると、私たちは「新しい世界」を切り拓く力を失ってしまうことになります。

 「聖書の無謬性」を信じるキリスト教の頑迷な右派勢力は、ダーウィンの進化論の代わりに創世記を信じます。総ての生き物は、偉大なる神の被造物であると信じて疑わないからです。それは無論、宗教的な信仰の問題なのですが、その信仰に暗黙裡に含まれているファナティックな古典主義的イデオロギーには、一定の注意を払うべきでしょう。数千年も昔に綴られた「聖書」の無謬性を信じるというのは、科学的な公正さを伴った思索の結果ではありません。未来に開かれた思想の持ち主は、常に「仮説が誤りである可能性」を計算に入れていますし、総ての認識は「より正しいものへ更新されていくべきだ」という別種の「信念」に憑依されています。何れの主義も「同格の信仰」に過ぎないと言えば確かにその通りですが、それが「可能性に向かって開かれているかどうか」というのは重要なポイントであり、相違点です。

 「古典主義的なイデオロギー」に私が警戒の眼差しを向けずにいられないのは、それが「理想」を過去に投射することによって「この世界には唯一無二の正解が既に存在する」という認識を呪いのように導き出すからです。「正解は外部に存在する」「正解は事前に用意されている」という「敬虔な信徒の思想」は、譬えるならば「予め答えの定められた問題に取り組む受験生」と同質のメンタリティに支配されています。そうしたメンタリティの持ち主は「現在の信仰が改革される可能性」を計算に入れようとしません。何故なら「聖書は無謬であり、神は絶対」だからです。「絶対的な正解は貴方が生まれる以前から存在している。貴方はただ、それを虚心に受け容れるだけで救われる」というような宗教的構文には、人間の精神から「思索」という尊い美徳を剥奪する危険な効果を有しています。

 ここまで書いたところで、エネルギーが切れてしまいました。続きはまた次回!

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!