サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「正解がない」という自由 / 「古典主義」というイデオロギーの退嬰性について 2

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は昨夜のエントリーの続きを書きます。

 

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 一つの仕事を続けていると、当然のことながら部下や後輩の教育を任される場面というのが徐々に増えてきます。その中には春に大学を卒業したばかりの新社会人というのもいます。彼ら彼女らは無論、右も左も分からない社会の荒波に飛び込んで様々な知識を吸収し、経験を積み重ねることで一人前の「大人」として鍛えられ、磨き上げられていく訳ですが、その「新社会人」というカテゴリーに属するということは、言い換えれば「学生」から「社会人」への「ルールの切り替え期間」の渦中にあるということです。無論、それは必ずしも新入社員だけに限られた話ではなく、成長の過程において何度も突き当たる問題です。この「ルールの切り替え」というのは、行動するに当たって依拠すべき基準の書き換えということです。

 学校というのは、真っ新な状態の魂に外部から様々な知識や思想や経験を「輸入する」ための空間であり、従ってそこには「学ぶ者」と「教える者」との絶対的な非対称性が存在します。その非対称性が存在しなければ、教育は単なる「論争」や「対立」に堕してしまうからです。この世界には未だ私の知らない未知の領域があり、だから私はそれを既知のものとしなければならない、という構えが学徒の持つべき「本分」であり、そのためには「外部に存在する私の知らない正解」への信仰がなければなりません。その「未知のものに対する敬意」が、既にその知識を得た師範に対する崇敬の礎となる訳です。

 無論、そうした「学徒の本分」というのは社会人として仕事を一から教わる段階においても、重要な意義を持ちます。一定の年齢に達し、所属する組織を学校から社会へ切り替えただけで、そうした「修業期間」が満期に至る訳ではないからです。新入社員は実に色々なことについて無知であり、そうした状況では上司や先輩が「何でも知っている老獪な賢者」のように見えても不思議ではありません(無論、バカばっかりじゃねえかと思う生意気な新人も少なからずいるでしょうが)。新人の条件は「無知であること」ですから、そのような無知に居直らず、既に豊富な知識と経験を有する先達に敬意を払い、その姿から色々な教訓を引き出して自分の魂へ刻み込むべく努力を重ねるのは大事な心得です。

 しかし、世の中というのは実に複雑というか、一筋縄では事が運ばないように出来ています。そのような「賢者への謙虚な敬意や純粋な信仰」というのは新人の成長に欠かせない大切な態度ですが、一定の段階に達すると、そうした盲目的な信仰は却って更なる成長の阻害与件となってしまいます。「賢者への信頼」が深く根強いものであればあるほど、彼らは先達の示す規矩に縛られ、その考えに唯々諾々と従う以外の振る舞い方が分からなくなってしまうのです。賢者への信頼は無知な新人が基礎的な成長を遂げるためには必須の美質なのですが、基礎から主体的な応用の段階へ差し掛かるとき、そのような信頼は彼らを拘束する堅牢な足枷へと姿を変えてしまうのです。

 「足枷」というのは「自分の知らない外部に絶対的な正解が存在する」という信憑のことです。そのような信憑に縛られ続ける限り、新人は自らの頭で考え、正解を探し求め、行動に反映するという主体的な努力の過程を生み出せなくなってしまいます。言い換えれば、絶対的な正解は予め存在するという信憑が、彼らに「正解の更新」という重要な営為の意義を閑却させてしまうという問題が生じる訳です。この障碍を突破するためには、新人の条件である「無知」の定義を書き替えなければなりません。「自分は無知であり、先達は賢者である」という絶対的な公理を、「自分は無知であり、先達もまた同様に無知である」という公理へ切り替える必要があるのです。

 別の言い方をするならば、この切り替えとは「神殺し」に他ならない、決定的な「飛躍」です。全知全能の神による支配を逸脱するということは、人間が自立した存在として生きるためには絶対に欠かすことの出来ない重要な決断であり、それは「正解の存在しない曠野」へ足を踏み出すということでもあります。かつてフランスの哲学者サルトルは「自由という刑罰」について語りました。「実存は本質に先行する」とも言いました。何れも自立した個人の主体的な「生存」を促すために綴られ、語られた言葉です。これは恐らく西欧社会の基盤であるキリスト教文化との対決の過程で絞り出された果敢な意見なのだろうと思います。「実存が本質に先行する」ということは言い換えれば、どんな問題に関しても絶対的且つ普遍的な「正解」は存在しないということです。私たちは自らの「生」を営むに当たり、様々な「規矩」を参照しますが、それらは総て暫定的で相対的な基準に過ぎず、それを鵜呑みにしてあらゆる問題に対処することは出来ません。言い換えれば私たちの生存は「無謬性」を禁じられているのです。なぜなら、どんな問題にも「絶対的な正解」が存在しない以上、私たちは常に「正解」と「誤謬」の狭間で苦闘し、あがき続けることを避けられないからです。

 「正解」がないということは、別の角度から見れば、私たちは本質的にどうしようもなく「自由」であるしかない、ということでもあります。そのとき、私たちは絶えず眼前の現実を検討しながら、その都度、最も正しいと思える道を選び、ギリギリの綱渡りを演じ続けるしかありません。つまり「完璧」ではなく「最善」を求めるべきなのです。

 

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 「完璧な正解が存在する」という信仰は、私たちの思考を停滞させ、壊死に導きます。それは「どんな経験によっても書き替えられることのない普遍的な真理」であるという意味で、正しく宗教的な経験であると言えます。そのような信仰を堅持することで初めて獲得される「安心」というものが現実に存在することは認めるしかないでしょう。様々な不幸や懊悩に追い詰められた人々が、思考する余裕もなく、そのような「絶対的安心」に耽溺していってしまうことを、一方的に糾弾することは人道に反します。けれども、そのような信仰が人間社会の発展を阻害することも事実なのです。なぜなら、既に動かし難い「真理」が解明されているという規矩を信じる限り、どんな経験も、いかなる種類の未来も、無意味なものに成り下がってしまうからです。「真理」は常に書き替えられる可能性に備えていなければならず、その書き替えを異端審問官のように手厳しく摘発してはならないのです。「真理」を「書き替え不能なもの」として定義するのは、例えば「クルアーン」の無謬性を信じるイスラム原理主義の思想であり、退嬰的な古典主義的イデオロギーであると、私は言わざるを得ません。そこには「多様性の思想」など存在せず、ひたすらに純化されていくファナティックな復古主義の情熱だけが瀰漫しています。それは「安心」を齎しても「成長」や「刷新」や「発展」には繋がりません。また、異質な他者に対する「寛容」という美徳も、そのような古典主義的イデオロギーを奉じ続ける限り、徐々に死に絶えていってしまうでしょう。

 誰も正解を知らないからこそ、考えることには積極的な意味があり、また各の個性にも積極的な意味が宿るのです。その困難を受け容れることこそ「こども」から「おとな」への成長の証なのです。いつまでも「無知な新人」という状態に滞留し続けるのは褒められた話ではなく、そこにどれほどの「謙虚」や「従順」といった世間的美徳が備わっていたとしても、私たちはそれを「甘え」として明確に指弾せねばなりません。確かに「こども」は無条件に慈しまれ、愛されるべき存在ですが、社会の総てを「こども」だけで担い、運営することは不可能であり、また「こども」を育てる力を持ち得るのは昔から「おとな」だけだと相場が決まっているのです。

 実に長ったらしいエントリーとなりましたが、私の言いたいことは伝わりましたでしょうか? このブログも、上述したような古典主義的イデオロギーへの抵抗の一環として綴られ、公開されているのです。それが私自身を「おとな」として錬成していくことを信じているがゆえに。

 以上、船橋からサラダ坊主がお届けしました! おやすみなさいませ!