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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 十八 パーフォーヴェンの異端者

 それは一瞬の出来事であったように記憶している。クラッツェルの精悍な横顔に荒々しい水飛沫が押し寄せて、引き摺られるように傾いた甲板の上を金属のバケツが音を立てて転がり、人間のものではない耳障りで不吉な奇声が長閑な夕映えの潮風に入り混じった。物凄い勢いで銛に結わえられ、縛り付けられた立派な荒縄が引き摺られ、甲板の上を大蛇のように這いずりながら舷側の彼方へ吸い込まれていく。高く跳ね上げられた波頭が夕映えの光を浴びながら崩れ落ち、無数の破片となって荒れ狂う波間へ舞い戻っていく。船員たちの豪快な歓声が辺りへ響き渡り、クラッツェルの勇猛果敢な腕前を称賛する言葉が口々に交わされ、それまでの息詰まるような興奮は俄かに綻び始めた。

「殺りました。彼は何時でも、手堅い仕事をします」

 満足げな表情で呟くバエットに、私は咄嗟に返すべき言葉を見つけられなかった。この短い時間で如何なる出来事が演じられたのか、頭の中で巧く整理して繋ぎ合わせることが出来なかったのだ。甲板の中ほどに設けられた手動の滑車に数人が獅噛みついて、隆々たる腕っ節に物を言わせて荒縄を巻き戻そうと悪戦苦闘を始めた。舷側の手摺を砕きかねない勢いで荒縄が張り詰めて擦れ、荒々しく肩を上下させながら海面を見下ろすクラッツェルの傍らで、誰かが再び豪快な哄笑を炸裂させた。船体の側面に何度も総身を打ち据えながら引き揚げられたベルトリナスの濁った血に汚れた巨体は確かに、成人した男の倍以上もある長さで、立派な尾鰭には未だ獰猛な野獣の魂が消え残っているように見えた。甲板へ勢いよく投げ出された後も尾鰭は劇しく脈打って硬い木の床を殴りつけ、近付いて止めの銛撃ちを仕掛けようとする護送小隊の男たちを威嚇するように踊り狂っていた。

「殺っちまえ。海神様を殺っちまえ」

 囃し立てる無責任な男たちの声に浮足立つように、バエットも嬉しそうに両手を叩いてクラッツェルを嗾け始めた。その粗野な祝祭のような光景に、不慣れな私は身を竦めて肝っ玉を縮こまらせ、一体どんな顔をしていればいいのかさえ分からぬまま、新米監督官の臆病な下地を剥き出すばかりであった。軈てクラッツェルの逞しい上腕が再び瘤のように膨れ上がり、掲げられた巨大な鋼の銛の突端が、血塗られたままの状態で潮風に嬲られた。それから裂帛の気合いを以て振り抜かれた一撃が見事にベルトリナスの眉間を貫き、頑丈な顎骨さえ打ち砕いて脳漿を辺へ撒き散らすと、囃し立てる男たちの血腥い興奮は極点に達し、暫くの間は誰もが古い船乗りの歌を大声で怒鳴ることに夢中になっていた。

 

 格下の護送団員たちがベルトリナスの屍体を棺桶のような木箱に投げ込んで引き摺っていった後で、私はバエットを媒として銛撃ち名人クラッツェルと改めて挨拶を交わした。出航の前に、商館の中庭でも顔は合わせたのだが、彼らは固より愛想のいい種族ではなく、握手を交わすぐらいが精々で、それ以上の意思の疎通は試みたくとも困難だったのだ。

「ジグレル・クラッツェルだ、監督官」

 あれほどの大仕事の直後であっても特段呼吸が乱れた様子もないクラッツェルは、濡れた掌を外套の裾で拭ってから、表情を変えずに手を差し出した。

「素晴らしい腕前でした。ダントレアナの御出身だそうで」

「パーフォーヴェンの漁師の息子です、監督官。五年前に、このバエット小隊長に誘われて、商売替えをしました」

「小隊長自ら、優秀な人材を引き抜きに出歩かれるのですか」

 バエットに視線を転じて訊ねると、彼は肩を竦めて意図の良く分からない笑いを浮かべてみせた。

「自分の小隊にどういう人員を集めてくるか、此れも私に課せられた重要な任務の一つですよ。護送団というのは、部下の兵隊どもを競争させるのが大好物でしてね。博打の客みたいなもんですよ。次に手柄を上げるのは何処の小隊か、何時でも虎視眈々と狙ってる」

「俺たち五十六番護送小隊は、役立たずの塒だ。それを小隊長は革めようとしておられる」

「尊敬なさってるんですね」

「いいえ。口だけですよ、ルヘランさん」

 バエットは機先を制するように口を挟み、クラッツェルの分厚い胸板を親愛の情を籠めて拳の裏で軽く叩いてみせた。

「ごみ溜めの五十六番なんて陰口を叩く連中もいるにはいます。だからって、気に病む必要もありませんがね。我々の商売は結果が総てだ。結果さえ出せば、他人の評判など幾らでも覆せる。それが私の長年の信条なんです」

 その言葉は暗に私に向けて発せられた決意表明のようにも聞こえ、思わず答えを探し倦ねた。何時だって私は、肝心な場面で適切な切り返しを行なうことに失敗する習慣を持っているのだ。

「ジグレルは、余り品格のいい漁師ではなかったのです」

 クラッツェルの物言いたげな表情をちらりと一瞥しながら、バエットは不敵な笑いを作ってみせた。

「殴り合いをして、勢い余って知り合いの漁師を死なせてしまった。だから、故郷にいられなくなって、彷徨っていたんです。生きる為の場所を求めてね。そういう曰くつきの物件に、行儀のいい護送小隊の頭目たちは手を出さない。だが、私は総てを引っ繰り返す大博打の切っ掛けを常に探し求めています。だから、そういう危険な物件にも勇気を振り絞って金を払い、居場所を誂えてやるのです」

「そうですか」

 眩しいものでも見るように眼を細めた私の顔を、クラッツェルは幾分不機嫌そうな様子で見遣ると、肩を竦めて大袈裟な溜息を吐いた。

「全く口の軽い小隊長殿だ。監督官、此れからも是非とも宜しく御願いしますよ」

 愈々水平線の彼方へ没し始めた日輪の貧弱な光に照らし出されながら、私たちは何かの祈りのように固い握手を交わして頷き合った。