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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

光と影の叙事詩 「ファイナルファンタジーⅦ」 3 ゲームに「思想」を見出せるとするならば

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は以前に続き物として書き出しておきながら、そのまま完結させずに放置していた記事の続きをアップしようと思います。

 

saladboze.hatenablog.com 

 

saladboze.hatenablog.com

  「ファイナルファンタジーⅦ」という作品は、或る種の宗教的な価値観のようなものを作品の世界観として採用しています。例えば、コスモキャニオンの人々が伝統的な思想として受け継ぎ、長老ブーゲンハーゲンを通じて、主人公の一行に向けて説明が与えられる星命学は、大雑把に割り切ってしまえば、生物と「惑星」との共生や、両者が互いに不可分に結びついていることへの崇敬といった、実にプリミティブな哲学の形式を備えています。

 このような星命学の見地から眺めたとき、大地を流れる「ライフストリーム」を魔晄エネルギーとして取り出し、産業に活用することで暴利を貪り、その経済的な豊かさを礎として政治的にも社会的にも巨大な存在感と威信を誇っている「神羅カンパニー」の存在は、忌まわしい宿敵以外の何物でもありません。

 「星=自然」の有する根源的な「エネルギー=資源」を濫用することで、自然環境を疲弊させていく巨大な産業社会と、ライフストリームを収奪することで生命の循環を阻害する産業社会への批判的な視座=星命学、という一連の対比的な構図は、私たちの暮らす現実の惑星=地球の歴史において、近代化の弊害として顕現してきた様々な公害や環境汚染の問題を、そのフィクショナルな設定の材料として採用しています。

 このような物語上の問題意識の設定は、FFというシリーズが、和製RPGのもう一方の双璧であるドラゴンクエストシリーズとのベクトルの「分化」を遂げるに当たって重要な分水嶺の役割を果たした「機械文明」のエッセンスを強化していく過程で、不可避的に露出してきたファクターであると言えるかも知れません。恐らくはFFⅥにおいて最も露骨に、本格的な導入を遂げたと思われる機械文明の要素は、FFⅦにおいて更なる深化と飛躍を成し遂げ、物語全体の骨格を支える重要な支柱と化しました。それは「剣と魔法」の古典的なRPGからの切断であり、古色蒼然たる「魔王と勇者」の類型的物語構造からの訣別を意味しています。

 しかし、そのような「機械文明」の導入と、古き良き「剣と魔法」のRPGからの逸脱というベクトルは、何故FFという作品群において積極的に採用されたのでしょうか? それは単なるドラゴンクエストシリーズとの「差別化戦略」に過ぎなかったのでしょうか? この問題に答えるためには、私たちは「ドラゴンクエスト」において採用されている物語的類型の性質についても改めて検討を加えてみなければなりません。

 例えば「DQⅥ」は、典型的な魔王と勇者の物語であり、主人公は世界を支配しようとする驕慢で邪悪なデスタムーアの陰謀を阻むために、世界を巡って徐々に力を蓄え、仲間を集めていきます。このとき、例えば「FFⅦ」と比べて異質だなと感じるポイントについて述べておきます。

「魔王」の超越性

 DQシリーズにおいて、魔王というのは人間とは完全に異質な存在であり、絶対的な超越性を有しています。デスタムーアは「はざまの世界」に君臨する超越的な「魔族」であり、「人間」というカテゴリーとは完全に切り離された「不可触の領分」に位置しています。

 一方、FFシリーズにおいては「Ⅵ」のケフカや「Ⅶ」のセフィロスのように、元々は「人間」のカテゴリーに属していた存在が、何らかの異常な執着に囚われることで「越境」してしまい、魔族的なカテゴリーへの移行を遂げることで「ラスボス」として主人公に立ち開かるという話型が主流となっています。言い換えれば、FFシリーズにおいては、たとえいかなる悪魔的な変貌を遂げていたとしても、倒すべき宿敵は「人間」のカテゴリーに属し、その解決は「人間同士の抗争の解決」という形で齎されるのに対し、DQシリーズにおいては常に「魔王」と「勇者」という非対称的な格闘が世界の命運を左右する「最終的解決」の手段として採用されているということになります。

 もっとクリアな視界を確保するために更に遡行して考えてみるならば、「DQ」「FF」の二大巨頭に限らず、RPGというジャンル自体が「敵対者との闘争」という普遍的な構造を内在的に含んでいるということが指摘出来るかと思います。もっと言えば、ゲームという娯楽的なメディア自体が、そのような「敵対者との闘争」の無数の変奏として構成されていると看做すことも可能です。アクションゲームでもシューティングゲームでもシミュレーションゲームでも、殆どのビデオゲームには、このような「敵対者との闘争」が中心的な要素として含まれているのです。

 端的に言えば、あらゆるゲームは「戦争の模倣」であり、その変奏された「再現」なのです。例えば将棋や囲碁やオセロやポーカーにしても、種々のスポーツにおいても、そこに「戦争」という過程と、その「勝敗」という結果が内在していることは明白な事実です。そうした遊戯の電子的な発展形であるビデオゲームの分野においても、その「戦争」の原理は揺らぐことなく受け継がれています。

 無論、何を以て「勝敗」を決するか、その判定の基準となるものは、個々のゲームの構造的な特質によって異なります。言い換えれば、ゲームの「個性」とは「勝敗の定義」に応じて規定されるものなのです。敵を撃墜することが「勝敗の定義」である物語と、例えば「メタルギアソリッド」のように「敵に発見されることなく目的地へ達すること」を「勝敗の定義」に採用している物語とでは、その過程でプレイヤーが味わう種々の感興の性質は自ずと異なります。そして「戦争」が「国益を巡る外交」の選択肢の一つであることを考慮するならば、ゲームの特質を定めるものは厳密には「戦争の定義」ではなく「成功の定義」ということになり、求められる「成功」の内容をどのように規定するか、というレギュレーションの問題が、ゲームの本質に関わる重要な問題だということになります。

 ゲームの本質とは「成功の定義」と、そこへ到達するための戦略を考え、実行に移すことであり、それは総てのジャンルに該当する基礎的な定義であると言えます。RPGにおいては、このような「成功の諸条件」の達成を、システム的な次元とストーリー的な次元の二つの「位相」において、それぞれに配置することが特徴となっています。

 こうした前提を踏まえて改めて「DQ」と「FF」における「成功の諸条件」「成功の定義」について考えてみるならば、既に述べた問題は、その作品が「何を以て成功と看做すか」「どのような問題を重視しているのか」ということと深く繋がり合っていることが分かります。言い換えれば、私はこれらの物語的な厚みを備えたゲームの一ジャンルから、何らかの「思想」を取り出そうとしているのです。

 「敵対者」の定義を「人間の外部」に見出そうとするDQシリーズの物語的な特質は、「悪」を「人間の外部」に想定するという「性善説」に依拠していると言うことが出来ます。一方、FFにおいては既に述べた通り、ケフカセフィロスなどの「人間」が或る異常な執着を通じて「悪」に変貌するというプロセスが主流であり、そこには「悪」を「人間の内部」に求める性悪説の視線が濃厚に漂っています。DQシリーズの画面に漂う牧歌的な明るさと、FFのⅥやⅦにおいて特に顕著に示されている陰鬱な雰囲気の対照は、性善説/性悪説という物語を支配する根源的なベクトルの違いに由来するものなのかもしれません。

②プレイヤーの視点の位置

 FFⅦにおいて忌むべき「敵」として名指しされているのは、魔晄エネルギーの濫用によって星の生命を衰弱させつつある神羅カンパニーだけではありません。封印された黒魔法「メテオ」を星に衝突させることで、ライフストリームの有する絶大な力を我が物にしようと企むセフィロスの存在もまた、主人公たちと対立する重要なファクターです。そして、これらの「敵」に共通して言えるのは、彼らが「星」と「生命」の敵対者であるという事実です。この「環境保護」的な対立の構図は、アバランチと称する過激派組織のような存在を巡る描写を生み出します。彼らは魔晄炉に爆破テロを仕掛け、神羅カンパニーによる「星の収奪」に強硬な反発を示しますが、それは厳密にはバレットの「私怨」に基づくものであり、彼らと同行して魔晄炉の襲撃に関わるクラウドのシニカルな態度を鑑みても分かる通り、それは「絶対的な正義」などではありません。前回のエントリーでも述べましたが、この作品には様々なレベルで「フェイク」ということが重要なポイントを占めており、そこには当然のことながら「正義のフェイク」という問題も含まれています。つまり、彼らが信じる「正義」が常に「フェイクである可能性」を伴っているということが、FFⅦにおける物語的な特性の一つなのです。

 この「フェイク」という問題は、DQⅥにおいても形を変えて示されています。「幻の大地」という副題が示す通り、DQⅥにおいては「上の世界」と「下の世界」という形でワールドマップが複層化しており、「上の世界」は現実世界である「下の世界」の住人が想い描いた「夢想」が「形象化されたもの」として設定されています。この二つの世界を往来し、両者の相関性をプレイヤーは様々な場面で感受する訳ですが、このような世界構造の設定によって表象されているのは「理想と現実との乖離」であり、デスタムーアの生み出した「はざまの世界」は、そのような「理想と現実」の間隙に位置しています。

 これはこれで、別個の興味深い案件ではあるのですが、ここでは深く掘り下げることはしません。重要なのは、DQⅥにおける「フェイク」の構造が、プレイヤーにとっては俯瞰的に「可視化」されているということです。DQⅥの主人公たちは、現実における「肉体」を奪われて「理想」だけの状態として当初登場します。言い換えれば、これは「理想」が「現実」を奪還していくプロセスを描いた物語だと定義し得る訳ですが、その旅程を通じてプレイヤー=主人公たちが確保する「視点」の特権性は、彼らが「理想と現実を往還する力」を有していることによって支えられています。彼らは「フェイク」の「フェイク性」を明瞭に把握出来るポジションを特権的に認められているのです。

 それがFFⅦにおけるクラウドたちの「制限された視点」といかに対蹠的なものであるかは、実際にこれらのゲームをプレイした経験のある方ならば直ぐに感じ取れるのではないかと思います。どちらの話型も、つまりDQⅥの主人公もFFⅦのクラウドも「失われた半身」「失われた現実」を奪還する物語であるという点では共通しています。DQⅥの主人公は「下の世界」のライフコッド村で「生身の自分」と融合を果たし、クラウドはライフストリームから生還することで「本当の記憶」を取り戻します。しかし、これらの話型は共通の構造を有しながらも、それらの経験を眺める「視点」の構造によって差別化されていると言うべきです。

 DQⅥにおいて「理想」と「現実」、「意識」と「肉体」との乖離が発生したのは魔王ムドーの邪悪な攻撃の効果でした。前述した性善説的構図の観念を踏まえるなら、それは外部に存在する「悪」によって齎された不可避的な悲劇の結果であり、従って主人公の再生のプロセスには「被害者として失われたものを奪還する」という勇壮な「正義」の旋律が必ず伴われます。しかし、FFⅦにおける「乖離」の発生は、クラウド自身の「自己欺瞞」によって惹起されています。ここにも「悪」を「外部」に求めず、人間の「内部」に求めるというFF固有の性悪説的構図が透けて見えていると言えるでしょう。彼はソルジャーになれなかった弱い自分という確固たる「現実」を受容出来ず、フィクションとしての自分を信じ込むことで劇しい「乖離」を惹き起こしたのです。その場合、彼が「真実の自分」を取り戻すためのプロセスは、DQⅥにおけるような壮烈で勇敢な「冒険物語」のスキームを採用することが許されません。なぜなら、それは「外部に存在する悪の仕業」ではなく、「自己に内在する脆弱性という名の悪」が齎した惨禍に他ならないからです。そのとき「失われた半身」を取り戻すための苦闘は、DQⅥのように「被害者としての正義」に基づいた倫理的な強靭さを発揮することが出来ず、あくまでも「自分が為した偽証を自ら取り下げる」という「懺悔」の形式を選ぶしかありません。FFⅦの全篇を通じて感じられる閉塞的な「息苦しさ」の正体は、このような「懺悔」の様式が物語の基礎的な枠組みとして稼働していることの結果ではないかと思います。

 セフィロスに関しても、彼の「凶悪な変貌」の要因は、自らが「人工的な古代種」として生み出されたという事実に堪えかね、狂気を孕んだことによるもので、その遠因は「ジェノバ・プロジェクト」というガスト博士の科学的な計画に基づいています。彼は確かに埋め込まれたジェノバ細胞の効果で「超越的な力」を発揮しますが、それはあくまでも人間の手で行われた「科学的な実験」の成果なのです。

 精強なソルジャーとしてのセルフイメージが「フェイク」であったと知ったセフィロスは、自分を人工的に生み出された「古代種」であると信じ込むことによって、狂気の道へ踏み込みますが、実際にはジェノバは「古代種」ではなく、惑星の外部から飛来した異質な生命体でした。つまり、彼のセルフイメージは、フェイクを衝き破った先に見出された「フェイク」というものに依拠しているのです。ここにも愚かしい誤解と妄想の連鎖があり、セフィロスは「真実」から隔てられて暴走を重ねます。「失われた自分との融合」という話型が、セフィロスに関しては「失われた自分であると想定された贋物の自分との融合」という形で、特異な捻転を起こしているのです。DQⅥにおける勇壮な冒険物語のスキームが通用しないという点で、それはクラウドの場合と同質です。

 未だかつてない長文となってしまいました。続きはまた今度!

 サラダ坊主が御送りしました!