サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

単なる形式としての「推理小説」を越えて アーサー・コナン・ドイル「緋色の研究」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 初めてシャーロック・ホームズという名探偵の名前を聞いたのがいつだったか、もう精確には思い出せませんが、パイプを燻らせ、鹿撃ち帽(deerstalker hat)を被った怜悧な頭脳の持ち主というイメージは、知らぬ間に少年時代の私の脳味噌にも忍び込んでいました。最初に繙いたホームズの登場する小説がどれだったのかも、はっきりとは覚えていません。ただ、少年時代の私は数多いシャーロック・ホームズ物の中でも取り分け、この「緋色の研究」という作品を最も印象深い魅力に満ちた書物として愉しみ、夢中になって読み耽ったものです。

 私が小学生だった頃、テレビでは「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」などのミステリ仕立てのアニメが盛んに放映されて広範な人気を集めていました。最近のテレビアニメや、少年誌で連載されているマンガがどういうものなのか、そういう情報に疎い私にはよく分かりませんが、あの頃のようにミステリ形式の物語が熱狂的な支持を獲得しているという噂は寡聞にして存じ上げませんので、今では余り少年少女の関心を惹かないのかもしれませんね。私は学校の図書室で偶々借りた「緋色の研究」を読んで、その面白さに思わず舌を巻いた記憶があるのですが、それは私がミステリというものへの積極的な嗜好を持っていたという意味ではありません。多分私は、この作品の前半部で展開される一連の「謎の解明」のプロセスに強い興味を掻き立てられた訳ではなくて、シャーロック・ホームズという特異な人物像の描き方や、謎解きの件から一転して荒漠たるアメリカのユタ州へ舞台を移して語られる犯罪の勃発の経緯、その度し難い怨恨の顛末に、恐らくは魅了されたのだと思います。

 一般にエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」を嚆矢として誕生したと言われる近代的な推理小説の歴史は既に長く、日本でも多くの作家がミステリというジャンルに強靭な努力と深甚な情熱を以て、執筆に取り組んでおられます。しかし、所謂「ミステリ」といっても、その性質は作品によって様々で、謎解きのプロセスを主眼に据えたものもあれば、犯罪の残忍な諸相を克明に描き出すことを主要な目的に置いた、限りなくノワールに近いような作品もあり、その発展の系譜は簡潔な言葉で一括りにするには困難であるのが実情です。

 推理小説というジャンルに、純粋にパズル的な感興を求める硬派な読者は今も数多くいらっしゃるのでしょうが、恐らく推理小説というジャンルが社会的な関心を呼び集めるためには、トリックの精度や謎解きの精緻なプロセスなどは副次的な要素に過ぎないのではないかと思います。そういう「パズル的感興」というのは過度に理知的で数学的なものであり、好む人は少なくないでしょうが、決して万人受けする普遍的な享楽の様式であるとは言えません。例えば爆発的な人気を呼んで、今もテレビアニメの放映や劇場版映画の封切りが伝統芸能のように続いている「名探偵コナン」の人気も、謎解きそのものの純粋なクオリティで勝負している訳ではなくて、薬の効果で小さくなってしまった高校生名探偵の工藤新一が元の姿を取り戻すために悪戦苦闘する過程や、恋人の毛利蘭との関係性に対する興味などで読者の心を刺激しているのであり、それはミステリそのものの本来的な、或いは固有の魅力によるものではないのです。

 厳格なミステリ愛好家は、推理そのものの魅力と関わりのない側面で読者の感興を掻き立て、誑かそうとする作品を安手の二流品だと嘲笑うかもしれません。しかし、私はミステリというジャンルをそれほど厳密に純化して捉える必要はないと思うのです。そもそも、ドイルの創出した一連のホームズ作品があれほどの爆発的な人気を獲得し、現代に至ってもなお熱狂的な読者(信者?)を生産し続けているのは、恐らく推理や謎解きの部分の際立った完成度の高さなどが原因ではないと思います。シャーロック・ホームズという極めて興味深いキャラクターを作り出し、それを「名探偵」という一種の「図像学的象徴」にまで高めた功績こそが作者の本質的な手柄なのであり、そのキャラクターを用いて様々な「事件」を描いてみせた汎用性=多様性こそが顕彰されるべきなのです。推理の過程や、仕掛けられたトリックの完成度だけを比較すれば、後発の作家の方が数段上手であるような場合も少なくないでしょう。しかし、後世の人間が或るジャンルを洗練させるのは歴史的な必然であるに過ぎず、そのことは先駆者の画期的な業績や目覚ましい栄光を少しも曇らせるものではありません。

 文学に限らず、或いは実社会においても、普遍性を備えたユニークな人物像=キャラクターの創出に成功するということは、重要な栄誉であるというべきです。ドイルの功績は推理小説というジャンルを開拓したことにあるのではなく、ホームズというキャラクターを通じて「探偵」という存在の形式を具体的に構造化してみせた点に存すると私は考えます。ドイルが極めて普遍的で完成度の高い形で構造化した「探偵」のロールモデルはその後、世界中に伝播して多様な変奏を積み重ね、複雑な分派を遂げてきました。アメリカでは、ダシール・ハメットによってサム・スペードが、レイモンド・チャンドラーによってフィリップ・マーロウが生み出され、ホームズとは全く異質な性格を備えた「探偵」の新奇なロールモデルとして強固な芸術的影響力を発揮しました。言い換えれば、これらは「推理小説」ではなくて、あくまでも「探偵小説」なのだと定義すべきなのかもしれません。「推理小説」はトリックや謎解きといったミステリ的なギミックに主要な関心を集中させて形成されるジャンルですが、「探偵小説」はあくまでも登場する探偵の特異な人物像の構築と表現によって、読者の関心を惹き付ける訳です。従って両者は元々目的の異なるジャンルだということであり、外見の類似によって混同され易いのですが、これらは別々に区分して考えねばならないでしょう。

 では、なぜ「探偵」という類型が生み出されたのか、というのは奥行きの深い問題です。私の考えでは、それは実社会の「暗部」とか「水面下の絡繰」といったものを剔出するための芸術的装置なのだと思います。日本でも、松本清張宮部みゆきのミステリは常に「社会の暗部」との間に密接な繋がりを有しています。表立って語られることのない社会の「不都合な真実」を語り尽くすためには、ポーやドイルが作り出した「探偵」という人物的範疇は実に使い勝手の良い物語的装置であったのではないでしょうか。

 中途半端なところですが、体力が尽きました。今回はここまで。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!

緋色の研究 (新潮文庫)

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