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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 1

創作「刃皇紀」

 猛々しく迸った己の悲鳴に驚いて、ファジルは不穏な夢から眼を覚ました。見えない指先に心臓を押え付けられているかのように、胸底へ重苦しい痼りが沈み込んでいる。じっとりと汗ばんだ総身に、開け放した窓から忍び入る夜風が柔らかく触れる。起き上がり、顔を洗おうと屈み込んだ水甕の面に、冴え冴えとした月明かりが硝子の粉を撒いたように散っていた。

 なかなか鎮まらない胸騒ぎを落ち着かせようと、ファジルは裏庭へ出て、紙巻のガーシュ(薬草。乾燥させた葉を刻んで紙などで包み、その燻煙を喫する)に火を点けた。不可解な夢の断片が、眼裏に次々と浮かんでは消える。

 薪割りに用いる切株へ腰を下ろし、くっきりと輝く満月を眺めていると、五年前に肺病で死んだ祖母カルシャの口癖が脳裡に甦った。満月の夜に見る夢は、中身の良し悪しに関わらず、真実を映し出す鏡だよ、ファジル。それが過去へ属するか、未来へ属するかは、誰にも分かりゃしない。だが兎に角、夢に過ぎないと侮っちゃならんよ。何事もきちんと備えれば、そんなに難しく、拗れたりしないからね。

(もう子供じゃないんだ、年寄りの迷信なんかに振り回されて堪るもんか)

澄みきった夏の夜空に、星屑が砂利の如く敷き詰められている。カルシャは、アーガセスの山間に隠棲する数多の昊読師(そらよみし)の中でも随一の古株であり、空に浮かぶ星々の運行を読み解いて様々な物事の行く末を言い当てるその技倆は、古今無双と謳われていた。葬儀の晩には北東の空に輝いていた橙色の巨星が、弔歌の詠唱の最中に突如として明滅して消え去り、列席した村人は口々に、天空の神々さえもカルシャの死を嘆いているのだと騒ぎ立て、本人は既に焼かれて骨灰と化しているにも拘らず、益々面目を施す一方であった。

(昊読師の孫だからって、黴の生えた言い伝えに引き摺られる必要はないさ)

 懸命に自分自身へ言い聞かせるものの、心は古びた糸車のように空回りするばかりで一向に落ち着かない。物心ついた頃から、昊読に用いる香木の臭いの染みついた腕に抱かれ、幾度も同じ科白を浴びせられた所為で、十九歳になった今でも、祖母の針金のように痩せた声の追憶を振り払うことは難しかった。

 短くなったガーシュを切株の脇に擦りつけて揉み消しながら、ファジルは寝床へ戻る為に立ち上がった。艶やかな満月の光が、家の背後に黒々と蟠る陰気な森を照らしている。緑邦帝国の北東部に広がるアーガセスの豊饒な山林は古来、夥しい数の樵が日々伐採に励んでも一向に衰えることを知らない逞しい生命力で、点在する集落の人々を護り、育んできた。その深い葉叢に四方を囲われて生きるアーガセスの民が天空の星々に憧憬を寄せるのは、自然な感情だと言えるであろう。昊読師たちへの土俗的な敬意も、梢の隙間から垣間見える夜空の輝きに魅せられた祖先たちの記憶に根差しているのかも知れない。

(早く眠らなきゃ、明日の狩りに差し支えるな)

 そう思って一歩踏み出した瞬間、首筋にふわりと生じた冷たい感触に凍りついて、彼は息を止めた。満月の夥しい光が散らばる下生えに、背の高い人影が黒々と伸びている。

「ファジルさんですね」

 鼓膜を撫でる静かな声音に、聞き覚えはない。頭を巡らそうにも、押し当てられた刃の感触に、総身が竦み上がって動けなかった。

「誰だ」

 辛うじて絞り出した科白は、惨めなほどに上擦っていた。彼の怯懦を嗅ぎ取ったのか、耳慣れぬ声に、一抹の苦笑が入り混じる。

「そんなに怯えなくていい。少し驚かせたかっただけです」

 冷え切った感触が除かれ、黒い人影が一歩、遠退いた。高鳴る心臓を鎮める余裕も得られぬまま、ファジルは弾かれたように身を捩って、敵意に満ちた瞳を不審な人影に向けた。

「貴方のお父さんに、逢いに来ました」

 裏庭に築かれた小さな圃場は、生前の祖母が薬草の栽培に用いていたが、何年も手入れを怠ってきた所為で、今では雑草の楽園に成り下がっている。その圃場の縁に佇んで抜身の刀を提げた男は、月明かりを背に静謐な微笑を湛えていた。一本に束ねられた銀髪は昊読師のように長く、肩胛骨の下まで垂れている。祖母の知り合いだろうか。然し、命日でもないのに墓参を思い立つとは考え難いし、そもそも、こんな夜更けを選ぶのは非常識だ。

「マルヴェは今、家の中に?」

「酔い潰れて寝てるよ。毎晩のことだ」

 警戒心を露わにしながら、ファジルは眉根を寄せて恐る恐る口を利いた。

「ジェリハスが逢いに来たと伝えて下さい」

「ジェリハス?」

「私の名です。それだけ言えば、伝わります」

 名を聞いても思い当たる節はない。死んだ祖母ではなく樵の父に用があるとするなら、長い銀髪は昊読師の徴という訳でもなさそうだ。

(単なる樵には、見えないけどな)

 たとえ熟練の樵であっても、月明かりの射さないアーガセスの森へ踏み込むのは、自ら谷底へ身を躍らせるようなものだ。夜明けから日暮れまでが、彼らに許された生業の時間であり、月影の下を徘徊するのは樵の本性に叛く行為に他ならない。

「安心して下さい。何も、危害を加えようと考えている訳ではありません。貴方のお父さんとは、二十年来の友人なのですよ」

 胸底を見透かしたような言種に、抵抗の意欲を削がれて、彼は溜息を吐いた。

「分かったよ。但し、刀は鞘に蔵ってくれ」

「これは失礼しました」

 鞘の口に鐔が触れる硬い音を背に受けつつ、ファジルは裏口の戸を引いた。粗末な厨の床板に、満月の光がぎらぎらと射し込む。土間に接した寝室の入口を閉ざす華やかな模様の更紗は、遠い昔に夭折した母の形見で、今では随分と色褪せ、純白の縁取りも擦り切れているが、生憎、女手のない樵の家に修繕を思い立つ物好きはいない。

「親父」

 更紗を捲って暗がりに声を掛ける。返事の代わりに聞こえるのは、獲物を取り逃がして悲憤慷慨する空腹のアーガセスオオカミのような獰猛な鼾だけだ。闇に踏み込んで枕許へ屈み、酒精の臭いに噎せ返りながら、ファジルは声を荒らげた。

「親父、変な奴が逢いに来てるぞ。起きてくれ」

 肩を掴んで乱暴に揺さ振っても、脂染みた父親は目覚めようとしなかった。夕餉の深酒が、熾火のように躰の芯を燃やしているのだ。

「親父、起きろよ!」

 苛立つ余り掌で頬を叩いても、邪険そうに寝返りを打つばかりの父親に辟易して溜息を吐くと、背後の更紗の向こうから、男の澄んだ声音が響いた。

「夜分に申し訳ありません。ジェリハスです。話があります」

 途端に豪快な鼾が、水を浴びた薪のように消え入った。薄闇の底で、瞼がゆっくりと開く。知らぬ間に更紗を潜り、寝間へ立ち入った長身の影を、二つの瞳が静かに捉えた。

「懐かしい声だ。こんな夜更けに、参謀長の御出ましとは、何の騒ぎだ?」

 寝乱れた髪を乱暴に掻き回すマルヴェの姿に、ジェリハスは苦笑した。

「御変わりありませんか、副長殿」

「御覧の通り、暢気に暮らしてるさ。酔い潰れて寝込んでも、首を狩られる気遣いはない」

「少し贅肉がついたんじゃないですか」

「どんな名刀も、手入れをしなけりゃ、錆びるのが当たり前だろう」

「自分を名刀に譬えるとは、相変わらずですね」

「うるせえな。用事は何だ」

 蒲団に胡坐を掻いたまま、彼はジェリハスの顔を睨みつけた。

「危機を、御報せに参りました」

「愈々、始まるってのか」

「ええ。帝都の闇に、雷声帝(らいせいてい)の御落胤が、無数の走狗を放ち、駆り立てています」

「狙いは」

「恐らく、国盗りでしょう」

 眉間に深い皺を刻んで、不精髭に覆われた顎を無造作に掻き毟る。精悍な青年の面影は既にない。然し酒気に濁った瞳は今も、炯々たる光を湛えている。錆を落とせば、往年の輝きを直ぐに取り戻すであろう。ジェリハスは密かに安堵の溜息を漏らした。

「ファジル、居間の灯りを点けて来い。お客さんだ」

 俄かに大声で指図を始めた父親の顔に、少年は当惑した瞳を向けた。

「客? こいつはいきなり、俺の首に刃物を突き付けてきたんだぞ」

「油断してるから駄目なんだ。そんなことじゃ、一人前の狩人にはなれん。オニフクロウに喰われるぞ」

「そういう問題じゃない。見ず知らずの人間に挨拶するのに、刀を振り回すなんて」

「いいから、さっさと居間の灯りに火を入れろ」

 息子の反駁を遮って、マルヴェは冷淡に言い放った。己を曲げない父親の頑迷な性格を知り抜いているのであろう。少年は無言で顔を背け、間仕切りの更紗を乱暴に払い除けて寝間を出ていった。

「テリーカの面影を、仄かに宿していますね」

「性格は、俺に似ている。人に指図されるのが嫌いだ」

「何れ女好きになるでしょうね」

「馬鹿を言え」

 マルヴェは寝間の更紗へ眼を遣りながら、乾いた笑い声を立てた。

「女の手を握ったこともない、泥付きのハルラ芋みたいな奴さ」