サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 2

 火の燈った居間に入ると、ファジルは仏頂面でガーシュを吹かしていた。開け放たれた窓から流れ込む夜風が、卓上の古びた油燈の灯影を漣のように揺らして通り過ぎていく。

「膨れっ面はよさないか、ファジル。客の前だぞ」

 宥める為に発した言葉は、鋭い眼差しと鋼の沈黙に火傷を負ったように弾かれた。カルシャが死んだ頃から、年頃の少年に似つかわしい狷介と潔癖は日毎に強まっている。蛹を脱ごうと蠢く繊細な心が、外気に触れてひりひりと痛むのであろう。その鎧われた心を開かせ、二十年前の約束に就いて呑み込ませるのは骨の折れる作業に違いない。

「こいつはジェリハス。俺の古い知り合いだ」

 酒壜を引き寄せ、硝子の杯に注ぎながら、マルヴェは息子に語りかけた。

「二十年前の約束を果たしに来たのさ」

「約束?」

 強情な沈黙を押し通す積りだったのに、思わず釣り込まれて聞き返してしまう。父親の隣に腰掛けたジェリハスの仄白い顔が、弱々しい油燈の光に蒼褪めて見える。どう考えても余所者に違いない、この白皙の男が、辺鄙な山村に暮らす凡庸な樵と二十年来の付き合いであるというのは、酷く奇妙な取り合わせに思えた。

「二十年前、戦争が終わったときに、交わした約束があるのさ」

「酔っ払ってるのかよ」

「愛嬌のない餓鬼だな。誰に似たんだ?」

「あんただよ」

 冷淡に言い返すファジルの剣幕に、黙り込んでいたジェリハスが僅かに口許を緩めて苦笑した。

「マルヴェ。御子息は、貴方の性格を写し取ったように血の気が多いのですね」

「うるせえな。血は争えないって言うだろ」

「ええ。正に金言ですね」

 二人の親密な遣り取りを、ファジルは奇怪な見世物のように眺めていた。人付き合いの悪い父親は普段、樵仲間からも敬遠されて孤独な酒浸りの日々を送っている。生活が荒み始めたのは母のテリーカが亡くなってからだと祖母は言っていたが、若年の頃の父の姿を知らない息子にとって、それは説得力を欠いた証言に過ぎなかった。

「話を戻すぞ」

 再び向かい合った父親の瞳には、夕餉の酒の余燼は毫も残っていなかった。新品の油燈を思わせる目映い光を宿した双眸は、日頃の懶惰な物腰とは別人のように見違えている。

「当時、この国は内乱に揺れていた。俺たちは、殉国隊という組織に属して、戦場を駆けずり回る日々を送っていた」

「戦場?」

 それは耳慣れない言葉であった。山奥の僻村で、樵の息子として育ったファジルの日常に、戦場という単語が忍び入る機会は皆無に等しい。

「俺は若い頃、軍人だった。生まれついての樵じゃないのさ。お前に話す必要はないと思って、今まで言わなかったけどな」

 当惑の余り、ファジルは押し黙った。どんな言葉で、父親の過去に触れるべきなのか分からない。軍人? この呑んだくれの怠け者が? 酔いが残っているのかと疑いたくなるが、傍らで耳を傾けるジェリハスの静謐な相貌は、マルヴェが虚言を弄している訳ではないことを暗に物語っていた。

「戦争が終わり、俺は軍人稼業から足を洗った。長閑な暮らしに恋焦がれていたのさ。故郷に戻って、付き合っていた女と一緒になった。だが、この生真面目な戦友は所帯を営むことより、国政が恙なく行われることの方に関心が強かった」

「一体、何の話をしてるんだ?」

「古い話をしてるのさ。帝都を発つとき、俺たちは約束を交わした。若しも再び、災厄がこの国を覆うときには、呪刀を帯びてグリイス広場で落ち合おうと」

 聞き覚えのない地名に釈然としない感情ばかりが募っていく。古びた約束、戦場の記憶、グリイスヒロバ、ジュンコクタイ。幾ら理解しようと努めても、想像力だけでは埋め切れない茫漠たる空白が多過ぎて手に負えない。

「俺は、この村を離れる積りだ」

「いきなり何を言い出すんだよ」

「災厄がこの国を覆うとき、呪刀を帯びてグリイス広場で落ち合おう。残念ながら、約束を果たすべきときが訪れたってことさ」

 何かを諦めたような、父親の乾いた声が恨めしかった。幼い頃に母を亡くし、五年前には祖母を肺病で失った。この上、マルヴェまでいなくなったら、天涯孤独じゃないか。

「一人で生きてけって言うのかよ」

「この日に備えて、村長には万事頼んである。別に永久の別れって訳じゃない。必ず生きて帰るさ」

「そんな約束、信じられる訳ないだろ!」

 思わず声を荒げた瞬間から、堰を切ったような怒りと不安を抑えられなくなった。椅子を蹴立てて、卓子に拳を叩きつける。倒れた杯から酒が零れ、マルヴェは顔を顰めた。

「落ち着け、ファジル。お前を危険に巻き込む訳にはいかないだろ」

「そうやって皆、俺を置いて何処かに消えちまうんだ! そんな約束、俺は知らない!」

「馬鹿野郎! 最後まで話を聞け」

 鋭い制止の叫びにも構わず、ファジルは戸口を抜けて夏の夜の暗がりへ駆け出した。

 

 戦争なんか御免だ。

 村外れへ続く緩い坂道を歩きながら、ファジルは悪夢の断片を思い返していた。あの処刑台の光景が、何を意味しているのかは知らない。然し、それがマルヴェの語った「戦争」の記憶に連なるものであることは、確かな気がした。重い肺病に掠れていた祖母の声が、耳許に甦る。満月の夜に見た夢は、それが良い夢でも悪い夢でも、本当の出来事になる。不吉な未来を、自分は夢見たのだろうか。だが、あの罪人の正体は分からないままだ。

 行く先に困って流れ着いたのは、村外れの酒屋であった。引き戸を開けると、穏やかな燈光が眼に染みた。幼馴染のサルリが、父親のバルリと酒を酌み交わしている。ファジルの形相が徒ならぬものに見えたのか、サルリは立ち上がって彼を迎えた。

「珍しいな。こんな時間にどうしたんだよ」

 咄嗟に答えられず、ファジルはその場に立ち尽くした。酒屋の親子は顔を見合わせて当惑した。

「兎に角、何か呑むといい。気持ちを落ち着けるんだ」

「林檎酒にしろよ。お前、好きだろう」

 腕を曳かれて、椅子に腰掛けると、彼の為にバルリが高価な林檎酒の栓を抜いた。

「何があったのか、話してくれるか」

 酒の温もりは、千々に乱れる彼の心を優しく宥めた。何から話せばいいのか、そもそも何故、自分がこんなにも混乱しているのか、巧く言葉に換えることが出来ない。そのことを見抜いているかのように、バルリは息子に命じて表戸を閉て切り、ファジルに時間を与えた。

「落ち着いたかね」

「親父の古い知り合いが、家に来たんだ」

「友人か」

「戦友だと言ってた」

 戦友という言葉に、バルリが眼を眇めた。それが厄介事を目の前にしたときの癖であることを、ファジルは知っていた。

「知ってるんだな、昔の親父のこと」

「丁度、お前とサルリみたいに、俺とマルヴェは幼馴染として育った」

 バルリはガーシュを銜えた。

「二十年以上も前の話だ。当時の皇帝は荒くれ者で評判が悪く、世間には怨嗟の声が渦巻いていた。そこで皇帝の弟が、民衆の怨みを代弁して叛旗を翻した。戦争の始まりさ。俺は争い事が怖くて、この山奥に籠っていたが、マルヴェは違った。あいつの兄は、帝都に勤める庁務官だった。どこで何を間違えたか、雷声帝の不興を買ったらしくてね。生きて帰れなくなった。マルヴェは兄貴のことを尊敬していたから、黙っていられなかったんだ」

 初めて耳にする父親の過去は、遠い異郷の御伽噺のように聞こえた。

「マルヴェは故郷を捨てて、帝国義勇軍に身を投じた。戦争が終わると、あいつは英雄になっていた。だが、それは望んだ人生じゃなかったんだろう。新政府から仕官の話も来ていたらしいが、全部蹴って、この辺鄙な山村に帰ってきた。そして、戦地で知り合った女と所帯を構えて、お前が生まれた」

 バルリはファジルの双眸を見据えた。

「お前に何も話さなかったのは、それが忘れ難い苛酷な経験だったからだろう。俺には想像もつかないような日々を、彼奴は戦場で過ごした筈だ」

「戦争が、もう一度始まるのか?」

「分からない。俺はこの通り、田舎者の杜氏に過ぎん。帝国の中枢で起きている問題に、首を突っ込むような義理もない」

「戦争へ行ったら、親父は死ぬかも知れないんだろ」

 ファジルの切迫した訴えを、バルリは憐れむような瞳で受け止めた。

「誰だって戦争なんか行きたくないさ。救国の英雄と謳われたマルヴェも同じだ。だが、人間の一生は思い通りには運ばない。宿命の呼び声に、耳を閉ざすことは出来ないものさ」

 沈鬱な諦観に染め抜かれたバルリの声は、ファジルの胸底を一層掻き乱した。宿命の呼び声。そんなものが本当に聞こえるのなら、思い切って鼓膜など衝き破ってしまえばいいのだ。

「何れにせよ、話し合いから逃げるのは良くないことだ。御節介かも知れんが、マルヴェは決して世間が噂するような変人でも悪党でもない。至極真っ当な男だよ。俺が保証してやる」

 バルリは片目を瞑っておどけるように言ってのけた。止むを得ず上辺だけの愛想笑いを返しながら、ファジルは黙って林檎酒の杯を傾けて考え込んだ。

 バルリの店で強かに酒を浴びてから、ファジルは心配する二人に見送られて家路に就いた。寝静まった真夜中の村道に人影はない。こんな時間に出歩く物好きは、祭礼の時期を除けば野犬ぐらいのものだ。

(話し合い、か)

 改めて思い返せば、マルヴェと真面目な議論を交わした経験は皆無に等しい。日没と共に陰気な酒盛りを始め、月が昇る頃には酔い潰れて寝入ってしまうのが習い性の父親から、若い頃の思い出を聞かされた覚えも殆どない。若くして亡くなった母親との馴れ初めも、自分が生まれた頃の慎ましく幸福な暮らしのことも。然し今まで何も知らずに来たのは、マルヴェが何も話さなかったことだけが理由ではない。酒浸りで粗野な父親への軽蔑が、あらゆる問いかけを封じ込める護符のような役目を担い、ファジルの心に鍵を掛けていたのだ。その錠前を破ろうとしなかったのは、自分自身の問題でもあるだろう。

「せめて最後まで聞いてやるのが礼儀ってもんかもな」

 そう思い直して無人の村道を歩き、牛舎の建ち並ぶ緩やかな台地まで辿り着いたとき、彼は不穏な光景を目の当たりにして思わず呼吸を忘れた。

(何だ、あれは)

 星屑の犇めき合う東の空が、血腥い紅を帯びて行く手に待ち受けているのが見えた。幾ら呑み過ぎたとはいえ、夜明けを迎えるには未だ早い。

(燃えているのか?)

 迫り上がる不安に衝き動かされて、ファジルは脱兎の如く駆け出し、家路に連なる坂道を下っていった。