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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 3

創作「刃皇紀」

 古びた家は、劇しい焔に巻かれていた。紅蓮の牙が轟々と荒れ狂い、下生えにまで燃え移っている。誰かの喚き散らす獰猛な声が、夥しい黒煙と、火の粉の爆ぜる音に紛れて、鼓膜を貫いた。

「親父!」

 猛然と駆け寄ったものの、焔の勢いが強過ぎて近づけない。熱風に頬を炙られながら、ファジルは大地を踏み締めて、魂を振り絞るように叫んだ。

「親父! 何処にいるんだ!」

 そのとき、玄関の扉が音を立てて破られ、二人の男が縺れ合うように飛び出してきた。白刃が焔を照り返して目映く光り、瞳を射抜く。先に立ち上がった男の腕が隼のように唸り、足許で暴れている男の首筋に吸い込まれた。蝦のように痙攣する男の喉笛から、鮮血が泉のように噴き出す。凄惨な光景に、総身が麻縄の如く強張った。刀を閃かせて、生温かい血糊を振り払う男の後ろ姿には、見覚えがある。ゆっくりと振り返った双眸が、先刻とは別人のように殺気立っていた。

「ファジルさんですか」

「何で、家が燃えてる」

 乾き切った喉から絞り出した声は、頼りなく掠れていた。ジェリハスは冷ややかな眼光を、焼け落ちる梁に向けた。

「敵襲です。恐らくは、帝都治安本部の呪刀士でしょう」

「親父は無事なのか」

「未だ家の中です」

 素気なく答えると、ジェリハスは再び刃を翻して、焔の彼方に消えていった。崩落した梁が夥しい火の粉を撒き散らし、轟音と共に火柱が屋根を劈く。総身の戦慄が止まらない。一体、此れはどういうことだ? 何故、こんな目に遭わなければならない? 蛇のように宙を舞い踊る焔の奥から、野獣めいた咆哮が聞こえる。押し寄せる黒煙が気道に絡み、痺れた瞳から、濁った涙が絶え間なく濫れた。

 焔の噴き出す窓から、火達磨になった男が脱出してきた。地面を転げ回り、総身を嘗め回す邪悪な焔を叩き殺そうと必死に足掻く。同じ窓から、黒焦げの外套を纏ったジェリハスが飛び出してきて、這い回る男の背に、何度も刃を突き立てた。切れ切れの苦鳴が止み、動かなくなった男の肉体を、飢えた焔が貪った。爛れた外套を手荒く脱ぎ捨てると、彼は地べたに屈み込んだファジルに歩み寄った。

「マルヴェの姿が見当たらないんです」

 燃え盛る焔と、崩れ落ちる建物を背景に語るジェリハスの顔は、魔物の如く黒ずんでいた。

「忍び込んできた捕り手は七人いました。この男を含めて、斬り伏せたのは全部で六人。あと一人足りない。嫌な予感がします」

「親父は、怪我してるのか」

「最初の斬り合いで肩を負傷しました。深手かもしれない」

 ジェリハスは、家の裏手に広がる雑木林を眺めた。闇に沈む木肌に、焔が紅を差している。その背中に、ファジルは怯えた。国内有数の林産地帯であるアーガセスの山間へ、こんな時刻に踏み込むのは蛮行でしかない。

「森へ入るのか」

「傷を負ったまま、連れ去られたのなら、一刻の猶予もありません。怪我人を労わるような連中じゃない」

 火達磨になった男の、炭のような手から奪った刀を、ジェリハスは差し出した。

「此れを使いなさい」

 死んだ男の温みが残る柄に、手を伸ばすのは躊躇われた。

「刀なんか使ったことないよ」

「状況を考えて下さい。丸腰で臨む訳にはいかないでしょう」

 有無を言わせず、ジェリハスは彼の手に刀を押し付けた。

「君を庇いながら、帝都治安本部の刺客と渡り合う余裕はありませんからね」

 握り締めた刀は、男の怨念を吸い込んだかのように重かった。樵の家に生まれたファジルは、小さな頃から鉈や鎌に馴染んでいたが、人殺しの為に鍛えられた軍刀の不吉な手応えは、彼の指先を顫えさせた。

「本職の人殺しと遣り合える訳がないじゃないか」

 抗弁するファジルには眼も呉れず、ジェリハスが不意に上体を屈めた。猛禽のような眼差しを、焼け落ちていく建物に滑らせ、脱兎の如く走り出す。置き去りにされる恐怖に、ファジルも慌てて後を追った。木暗い闇へ逃げ込もうとした男を押し倒し、地べたに組み敷いて、ジェリハスは凍えるような声で言った。

「お前が最後の一人か。マルヴェを何処へ連れ去った」

「知らねえな。俺の役目は、お前を八つ裂きにすることだけだ」

 額に血を滲ませた男は、唇を歪めて傲然と笑った。その頬に、ジェリハスの拳打が音を立てて食い込む。

「もう一度訊く。マルヴェは何処だ。早く答えれば、楽に死なせてやる」

「惨たらしい犬死も、甘んじて受け容れる用意は出来てる。高い給金は、その見返りさ」

 ジェリハスは浮かせた膝頭を、胸板に叩きつけた。噎せ返る男の手頸を掴み、その人差し指を包むように握り締める。

「黒狗の首環を外したのは、ガルノシュ・グリイスか」

 己の右手を見凝めたまま、男は沈黙を貫いた。その頑迷な決意を嘲るように、ジェリハスは力任せに人差し指を引き抜いた。喉を引き絞るような叫び声に、ファジルは顔を背けた。

「総て白状するまで、お前の指を毟り続ける。指が足りなくなったら、腕を丸ごと引き千切ったっていい。義理堅いのも結構だが、主君に仕える代償が正当なものかどうか、慎重に考えたらどうだ」

「追い詰められた鼠から、貴重な忠告を賜るとは、感無量だぜ」

 猶も気丈に言い放つ男の千切れた指を、ジェリハスは葉叢の彼方へ投げ捨てた。

「今更、殉国隊の残党を手に掛けてどうする積りだ」

「しつこい奴だな」

 蒼褪めた唇から、精一杯の嘲笑が滲み出る。ジェリハスは構わず中指を引き千切って投げ捨て、夜空を劈く残酷な絶叫に、ファジルは耳を塞いで嘔気を堪えた。

「足掻いたって、どうにもならんさ」

 口の端に涎を溜めて呟いた男の瞳は、焦点が狂い始めていた。

「詔命状が出ている。殉国隊を抹殺せよと、帝室が旗を振っているんだ」

 ジェリハスは男の小指と薬指を纏めて圧し折り、荒い息を吐いた。殉国隊の抹殺を命じる詔命状。そんなものが密かに出回るほど、宮廷の腐敗は進んでいたのか。

「残念だったな。お前らが築いた『平和』とやらの寿命も、そろそろ尽きるようだ」

 劇しい怒りが、躰の奥底で沸き立った。男の頬を殴りつけ、佩刀を抜き放つ。掲げた刀身が、逆巻く焔を照り返して、茜色に輝く。

「俺を殺したって、時代の流れは変わらねえぜ、ジェリハス参謀長」

 男の喉から、醜い哄笑が高らかに響き渡った瞬間、白刃が一際鮮やかに光り、目映い焔が悪夢のように閃いた。刀身を蔽い隠すほどに膨れ上がった劫火は、ジェリハスの束ねた銀髪に紅の帯を投じた。

「お前一人殺したところで、手遅れなのは知っているが、だからと言って、見逃してやる義理もない」

「マルヴェの身柄は、別働隊が森へ運んだ。処刑に間に合うといいな」

 男の言葉には答えず、紅蓮に燃え盛る刀を、ジェリハスは逆手に持ち替えて振り下ろした。刺し貫いた喉笛は忽ち焼け爛れ、黒い薔薇のように傷を開いた。

 

 硬い枝が、ファジルの肌に無数の生傷を刻んだ。前を往くジェリハスは、森に棲む獣のように俊敏な動きで、絡み合う枝葉の狭間を駆け抜けていく。懸命に追い縋るうちに息が上がり、滲んだ汗が、唯でさえ劣悪な視界を更に霞ませる。

「気配を感じる」

 不意に立ち止まったジェリハスが、森の常闇に眼を凝らして呟いた。

「奴らか?」

「恐らく。此処からは慎重に進みましょう。成る可く物音を立てないように」

 夏の月明も、焼け落ちる家の光も、果てしなく連なる樹影に遮られて届かなかった。ジェリハスに倣って五感を研ぎ澄ましてみるが、聞こえるのは微かな鳥の声だけだ。

「あれだ」

 息を殺して進むうちに、暗闇の彼方から、仄かな燈光が滲み始めた。密集する喬木の幹に身を潜めて、耳を欹ててみる。

「野営の灯りでしょう」

「親父はいるのか」

「私は鳥じゃありません。近付いてみなければ、分からない」

 葉叢を揺らして、二人は零れる光に躙り寄った。切れ切れに人の話し声が聞こえ、薪の爆ぜる音が時折混じる。抑え難い心臓の高鳴りに、ファジルは歯を食い縛った。焼け落ちる家、火達磨の男、墓標の如く突き立てられた刃。そんな世界に触れる日が訪れるとは、想像もしていなかった。何故、こんなことになってしまったんだ?

「私に任せて、貴方は隠れていなさい」

 少年の恐懼を見透かしたように、ジェリハスが振り向いて言った。

「相手はどうやら、大所帯だ。貴方がいては、足手纏いになる」

 紛れもない事実を指摘されただけなのに、傷ついた矜持が、酷い火傷のように熱を孕んで疼いた。

「役立たずだって言うのか」

 無益な抗弁を試みる彼に、ジェリハスは優しく微笑みかけた。

「貴方の身に何かあっては、マルヴェに申し訳が立たない。だから、隠れていてほしい。安心して下さい、必ず助け出してみせるから」

 野営の灯りに吸い寄せられるように歩き出した背中を、ファジルは黙って見送るしかなかった。