読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第一章 黒衣隊の篝火 4

 木切れの爆ぜる音が聞こえた。燃え盛る篝火を囲んで、軍服に身を固めた男たちが、ガーシュを喫んでいる。

(六人か)

 帝都治安本部黒衣隊。本来は、帝都アルヴァ・グリイスの治安維持に携わる軍務庁の外局だが、雷声帝の御世に、その職権を大きく拡大されて以来、彼らの領分は帝国全土に及んでいる。別けても黒衣隊は、政府が表立って行えない穢れた仕事を一手に引き受ける、権力者の走狗である。味方なら頼もしいが、敵に回せば、命はない。

(マルヴェの姿が見当たらないな)

 車座の男たちに課せられた任務が何なのか、今一つ掴めない。命を奪うことが目的なら、別働隊を誂えて、負傷したマルヴェを森の奥に連れ去る理由はない。尋問して、他の殉国隊士の動静を吐き出させる積りであろうか。然し、終戦と同時にアーガセスの山村へ引っ込んだマルヴェに、古い戦友の行方を問い質すのは、的外れな措置ではなかろうか。

(まあ、いい。聞き出せば済む)

 樹陰から踏み出した彼の姿に、獰猛な眼差しが火箭の如く押し寄せた。

「私はジェリハス。嘗て殉国隊の参謀長を務めていた者だ」

 一斉に立ち上がり、呪刀を抜き放った男たちは何れも、黒い布で顔を覆っていた。物腰だけで、相当の手練揃いであることが分かる。篝火に照らされた軍服の徽章が、眼を射るように静かに光った。

「マルヴェを何処に連れ去った。答えろ」

 呪刀を構えた男たちは、一言も口を利かず、その場から動かなかった。

「ガルノシュ・グリイスの差し金か」

 その言葉に、黒衣隊士たちの眼光が鋭さを増した。不穏な空気が、煮詰めたように濃く粘り始める。

「御名答だ」

 不意に、篝火の向こうから声が聞こえた。一人だけ床几に腰掛けたまま、戦列に加わらずにいた男が、長身を反らして立ち上がった。

「この顔に、覚えはないか、ジェリハス」

 黒革の手袋に包まれた指先が、覆面を剥ぎ取った。進み出た男の容貌に、思わず呼吸が止まりかける。

「貴様が頭目か、イグナディン」

「懐かしいな。救国の英雄と、再び見えることが叶い、恭悦至極だ」

 食い縛った歯が、石臼のように擦れて、不快な音を立てた。二十年前の記憶が、矢継ぎ早に甦る。戦場の血腥い風、屠られていく兵士の苦鳴、明日になれば、物言わぬ骸と化しているかも知れない恐怖、刹那的な生活。希望に燃えてはいたが、現実は艱難の牙で鎧われ、理想の世界を切り拓くのは容易ではなかった。イグナディンは、二十年前の荒廃した国土でも、黒衣隊を率いて闇を跳梁し、彼の行く手を執拗に阻んだ人物であった。総身の血が騒めき、胸底に凝る冷え切った憎しみが、ゆっくりと泡立ち、温度を上げていく。

「過去の亡霊が、何をしに戻ってきた」

 呪刀の柄に手を掛けながら、ジェリハスは熱い息を吐いた。

「あの戦乱を、再び繰り返す積りか」

「戦乱は今も続いているのさ」

 イグナディンの唇が、冷笑に歪んだ。あの頃と変わらぬ、陰湿な笑い方だ。腰を僅かに沈め、抜刀に備えながら、ジェリハスは眼を閉じた。怒りに総毛立つ肉体を、理性の縄目で思い切り締め上げる。心を乱してはならない。相手に呑み込まれるだけだ。

「春影帝陵下(物故した王族に添えられる敬称)の御聖恩によって助命を賜りながら、帝国の平穏を妨げるとは、恥知らずにも程がある」

「御聖恩か。物は言いようだな。脇が甘かったと、歯咬みして悔やんだらどうだ?」

 露骨な嘲弄に、理性の縄目がぎりぎりと食い込む音が、鼓膜の内側に響いた。知らぬ間に指先が走り、抜き放たれた呪刀が、篝火の照り返しを浴びた。

「問答は無用か」

 イグナディンがゆっくりと右手を挙げ、黒衣の剣客たちが佩刀に手を伸ばした。

「二十年前の遺恨、雪いでやろう」

 俄かに風向きが変わり、火の粉が空へ舞い上がった。ジェリハスは腰を沈めたまま、右手から斬り掛かってきた男の胴を横様に薙ぎ払った。脾腹から血を噴いて、仰向けに倒れる男の躰を飛び越え、別の隊士が抜身の呪刀を乾竹割りに振り下ろす。横に寝かせた刃で斬撃を弾きながら横へ跳び、上体を思い切り捻って、男の背筋を断ち割るように打つ。枯れ木の拉がれたような音と共に、天を仰いだ男の口から、涎の混じる鮮血が濫れた。

「怯むな。殉国隊の参謀長を斃した者に、殿下は褒賞を惜しまんぞ」

 上官の叱咤に、隊士たちは身を屈めて、野犬の如く眼を光らせた。再び床几に腰掛けて、見物を決め込んだイグナディンを除くと、残りは三人。

「悪名高き黒衣隊の刺客が、この程度の技倆では、国盗りの大望も心許ないな」

 爛々たる双眸が、憎しみに濁るのが見て取れた。戦時中、雷声帝の傀儡として「叛徒」の弾圧に恐るべき辣腕を発揮した帝都治安本部黒衣隊は、呪刀術を心得た精兵の巣窟として、民心を凍りつかせたものだ。然し、春影帝セファド・グリイスの号令の下に、戦後処理を目的として開かれた亡国法廷は、黒衣隊の罪悪を赦さなかった。凄腕の剣客たちは悉く絶海の遠島へ配流され、苛酷な環境に、多くが獄死を強いられた。

「黙れ、国賊

 覆面の隊士が、威嚇するように暗い声を吐いた。思ったよりも若く、輪郭の細い声だ。嘗て、帝国義勇軍の行く手に立ち開かった、あの血に飢えた狂犬たちの迫力はない。春影帝の崩御から、漸く五年が経ったばかりなのだ。蠢動を始めたガルノシュの走狗が、修行の足りない雛鳥であっても奇異ではない。

 正面から打ち込んできた直情的な若者を、容易く往なして斬り伏せる。低い位置から、蛙のように飛び込んできた男の脾腹を蹴飛ばし、呻き声を漏らすその顔に縦一文字の斬撃を浴びせる。血煙が鼻腔を塞ぎ、高ぶる戦意を一層、煽り立てた。

「流石に殉国隊の残党だな。二十年が過ぎても、得物は錆びていないらしい」

 床几から徐に立ち上がり、イグナディンはガーシュを銜えた。唯一人生き残った部下は、抜刀もせずに、篝火の光を浴びて沈黙している。嵐の去った水浸しの街並のように、辺りを息苦しい静寂が覆った。

「デュルガ。お前なら、斃せるな?」

 肩に手を置いて、囁きかける上官に、男は無言で頷いた。

「こいつの親父は、陛派の兵士だった」

 イグナディンの眼差しが邪悪な光を湛えて、ジェリハスの総身を射抜いた。「陛派」とは嘗て、雷声帝陛下の陣営に属した者たちの俗称である。一方、軍務庁掌補のセファド・グリイス閣下に忠誠を誓った者たちは「閣派」と呼ばれた。終戦から二十年が経過した今も、政治の表舞台に登った閣派と水面下を潜行する陛派との間には、抜き差しならぬ緊張関係が保たれている。

「お前たちが帝都を劫掠したとき、殉国隊士の手に掛かって殺された。そのとき、こいつは未だ六つの餓鬼に過ぎなかった」

「安手の芝居で、動揺させようという魂胆か」

「お前たちは、己の正義を信じて疑わないが、その正義が、こいつにも通用すると思うか」

 ジェリハスの言葉を遮るように、イグナディンは語気を強めた。

「春影帝の掲げた正義は、こいつの心も抱き締められるほど、寛容なものだったか?」

「陛下は、戦犯縁者赦免令を布告して、戦犯の遺族に対する差別を禁じた。そもそも、ガルノシュ・グリイスの助命は、陛下の御聖断の賜物だ。その恩義を忘れて、正義に就いて語るなど、欺瞞でしかない」

「詔命状一枚で、虐げられた者の魂まで救える訳がなかろう」

 イグナディンは燃えて縮んだガーシュを、雪片の如く足許に落とした。

「思い知るがいい。憎しみとは、時の流れに薄らぐものではない。寧ろ、凝り固まり、密度を増していくものなのだ」

 腰を沈めて、祈るように瞼を閉ざしたデュルガの呪刀が、不吉な暗緑色に光り始めた。見覚えのある、禍々しい輝きに、ジェリハスは眼を細めた。帝都治安本部黒衣隊の制式呪刀には、毒質呪鉱を鍛造したものが含まれている。炎質呪刀のような派手さはないが、その陰湿な威力は、人間の肉体を内側から蝕み、突き崩す。

(出来る限り、少ない手数で仕留める。此れが鉄則だ)

 ぎらぎらと黒光りする刃が、虚空を劈いて鼻先に迫った。驚くべき踏込みの深さに、反応が一瞬遅れる。辛うじて躱したものの、不快な臭気が鼻腔に忍び入り、焼け付くような痛みを発した。慌てて息を止め、間合いを広げる。上体を捻り、旋回して襲い掛かる一撃を、縦に構えた刃で弾きつつ、袈裟斬りに打ち込むが、手応えはない。刻一刻と広がっていく瘴気が、総身の粘膜に微細な傷を刻みつつあった。

(急がねばならない)

 覆面と手甲に守られ、濃密な瘴気にも動きの鈍らないデュルガの姿を、潤み始めた瞳がぼんやりと捉えた。あらゆる隙間から侵入する瘴気の痛みは、防ぎようがない。一刻も早く、相手を仕留めねばならない。

 ジェリハスは瞼を閉ざして、荒々しく燃え盛る焔の姿を想像した。構えた刃が、小刻みに顫え始める。異変を察した相手が、黒光りする呪刀を掲げたまま、間合いを外す。その刹那、刀身が白く輝いて火を噴いた。羽撃くように地面を蹴り、逆巻く焔を引き連れて距離を詰める。振り抜いた刃の先端から、焔が弧を描いて伸び、デュルガの上衣を焼くが、致命傷には程遠い。樹林の際まで追い詰められた振りをして、手近な喬木の幹を蹴り、高々と舞い上がったデュルガの斬撃が、肩口に食い入った。焔に巻かれることも懼れず、深々と斬り下ろし、ジェリハスは体勢を崩した。脂汗が散り、喉笛を震わして咆哮が爆ぜる。一矢報いようと放った横薙ぎの斬撃も、焔を撒き散らすばかりで、虚しく空を切った。毛穴から染み入る瘴気に筋肉が痺れ、骨格が軋み始める。胸底に生じた一抹の焦躁が、揺さ振られるように波紋を広げた。夥しく出血する肩口に掌を宛がう。どうやら、鎖骨を砕かれたらしい。

(息が苦しい)

 地面に屈み込んだまま、彼は顔を上げた。劇しい耳鳴りに、夜風の音さえ聞こえない。眼前に佇んだ敵の唇が動き、何かを告げた。大粒の汗が瞼から滴り、視界を暈かす。柄を握り締めていた指先から、力が抜けていく。声にならない言葉が、脳裡に渦巻いた。こんなところで終わる訳にはいかない。危機は、始まったばかりなのだ。耳鳴りが昂じて、脳髄を槌で打たれるような劇しい頭痛に転じた。霞んでいく視界に、黒光りする刃が映り込んだ刹那、水底から突き上げるような喀血が襲った。濫れる血が呼吸を塞ぎ、大地を踏み締める蹠の感触が消えた。傾く躰を抑えられず、冷たい地面に頬を擦り付ける。

(逃げろ、ファジル)

 濁っていく意識の片隅で、彼は喘ぐように呟いた。

(逃げてくれ。生き延びてくれ。頼む、ファジル)